我がまちの出身力士 
築嶋 勝右衛門
  広島出身の力士としてよく知られているのは 広島市宇品 出身の 安藝ノ海 と 東広島市安芸津 出身の 安芸乃島 であろう。
 ところが、我がまちにも江戸時代小結まで昇進した大相撲力士がいました。 その力士は築嶋 勝右衛門。 ほとんど知られていないが、出身地の菩提寺には今も墓や石碑があり実在が伺える。

[築島勝右衛門(要石 勝右衛門(かなめいし かつえもん、かなめいし かちえもん)]
          (生年不明 〜(1791(寛政3 )年1月11日)    広島市安佐南区( (旧) 祇園町 )出身 
  1778(安永7)年11月、要石勝右衛門で東二段目に入り、1780年10月一躍西小結に昇進した。 しかし8戦全敗に終わり
翌9年3月二段目に落ち、さらに1781(天明元)年10月には三段目に陥落した。 天明4年3月には二段目に復帰した。
天明6年に築島と改めたが、翌年に引退した。
  しかし、広島の出身力士として小結まで昇進、活躍した功績により築嶋姓を賜ったという。  

    安藝ノ海  (1914年5月30日〜 1979年3月25日) 広島市南区宇品御幸 出身  37代横綱。
            当時、名実ともに大横綱であった 双葉山の70連勝を阻止した(その時安藝ノ海は、西前頭3枚目) ことで
            有名。
    安芸乃島 (1967年3月16日 〜 ) 東広島市安芸津 出身
           二子山部屋(入門時は藤島部屋)所属の元大相撲力士で、最高位は東関脇。 横綱を何度も破り金星の多
           さ ( 全 16回 ) で有名。 現在は年寄・高田川勝巳。
                                                          参考文献:フリー百科辞典ウイキペディア

   

築嶋 勝右衛門の墓(周辺)

築嶋 勝右衛門の墓と石碑

石碑 近距離写真
                                                          Phto 2017,4    

   明福寺 紹介
築嶋 勝右衛門の墓がある明福寺 周辺地図
    
                   [由来]
 当寺は昔真言宗であって、行基菩薩の弟子空円が神亀元(724)年安芸国賀茂郡志芳の郷、生城山に一宇を建立し真言を遵奉することに始まる。
 応永五(1398)年西空の時、安芸国沼田郡西原村今津の郷に移築した。  慶長五(1600)年11月、現在地 字新町に移転、5間4面の本堂を建立し、この年、本山より原洞山明福寺の寺号を許可された。
 明治三十三(1900)年、桁行七間梁行九間半の本堂が再建されるも、昭和三十五(1960)年不慮の災禍で焼失、この時、元禄時代の作と伝えられる本尊阿弥陀如来は災禍をまぬがれている。
  昭和三十七年いち早く再建されたものの、近年劣化が著しく進み、又、時代に適応した施設をとの門信徒の強い願いもあって、平成十六(2004)年3
月、現在の本堂新築完成をみた。   
  =原洞山 明福寺 由来看板より=




所在地 : 広島市安佐南区西原八丁目
                   
                                 
                                                                                                          
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