歴史的な背景から名付けられた?
私たちが居住する旧祇園町地域は [新住居表示] になって26年が経過する。 現在ではその当時の古い地名「字名(あざな)」はほとんど使われることもなく、わずかに、一部が
”町内会の名” 等にかいま見れる程度である。
いずれ、希少な書物でも見ない限りそこに住んでいても、わからない人の方が多くなると思われる。
「字名」を数えてみると、旧祇園町では<祇園>48、<山本>106<長束>56<原>69 あった。 「字名」 ではないが通称の古地名も多数あようである。
それらのうち、由来のありそうなものを 「地図」 に組み合わせて見ると地域の歴史、特性が想像でき興味深い。
[祇園町誌] に 『地名にはそのように呼ばれた由来があるにちがいない。しかし単なる想像や、あてつけかもしれないが、とにかく言い伝えていることを拾いあげてる』
と前置きし、
別記の「地名」があげられている。
一方、古図を調査してみると
@祗園地区及び長束地区の一部は地割が大きく、比較的整然としており、条理制(約1300年前の大宝元年(701)大宝律令
が公布されて、公地公民となり、税金を賦課されたり、土地を方形に区切る大規模な地割りが行われた)の面影が残り、ま
た、関係ある地名が見られる。
A山本地区は武田氏城館のお膝元で政治、経済の中枢を担った地域であったことを伺わせる地名が多くみられる。
B原地区は古川沿いに天満沖など**沖という地名が5か所もあり、川の土砂で新たな土地が沖に生み出されたようだ。
蒲浦池など**池という地名も4か所あって池や湿地が多くあったことが伺える。
以下の地図を見て皆様にも独自の歴史ロマンを感じてもらえれば幸いです。