武田信重の遺児 竹若丸
安国寺恵瓊は毛利氏の優れた外交僧としてあまりにも有名であるが、恵瓊が武田氏に係わりがあることを知らない人も多いと思う。
恵瓊の出目は不明な点も多いが、多くの歴史家は一様に武田一族との見解である。
「天文10年(1541)毛利元就らに攻められ銀山城が落城した時に自刃した武田信重の一人息子4歳の『竹若丸(たけわかまる)』が対岸の「安芸安国寺」/
現在の「不動院」(広島市東区牛田新町) に逃れ、長じて恵瓊となった」と言うのが通説である。
(地図参照--ここをクリック)
当時「安芸安国寺」は京都の「東福寺」の末寺であったが、恵瓊が16歳の時、「東福寺」塔頭退耕庵の「竺雲恵心(じくうんえしん)」(後、東福寺の住持)に巡り合い法弟となる。
恵心は毛利氏に絶大の信任を得ていた。 特に元就の長子隆元は父に言えぬ悩みを打ち明けられるほどであった。
恵瓊はそのような係わりがある恵心の影響をうけ、また才能を見出されたのであろう。
恵瓊は京都に上り、「東福寺」塔頭退耕庵で修業を積み、安芸(広島)に戻り「安芸安国寺」の住持となる。その後、京都に上り「東福寺」の住持となり禅僧の最高位になっている。
一方、武家との係わりでは、外交僧としては天正元年(1573)将軍足利義昭が織田信長に追放された時は毛利輝元の命で調停役を務めたり、信長の命を受けた豊臣秀吉の中国攻めにおいては、毛利方最前線の備中高松城の水攻めを受けた時、毛利の外交僧として和議交渉役なども務めている。
後に、豊臣秀吉からも信任を得て伊予6万石が与えられ大名にもなった。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは毛利輝元とともに西軍に属し重要な役割を果たしたが、敗北して石田三成らとともに京都六条河原で斬首された。
恵瓊の首塚などが京都にあるが、不動院の裏山には恵瓊の墓や恵瓊が建立したと考えられている [武田刑部少輔(たけだぎょうぶしょうゆう)]の大きな五輪塔の墓石がある。
また、市内の国泰寺は文禄年間には「雲仙寺」と称していたが、恵瓊によって大改築が行われ、臨済宗の「安国寺」が開基された。 しかし、関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏に代わって入国した福島正則によって、曹洞宗に改宗し現在の「国泰寺」と改名された。広島では一二の大寺院となっている。
この国泰寺には関わり深い「安国寺恵瓊」や「豊臣秀吉」の墓がある。
なお、歴史書を参考に安国寺恵瓊の出目を整理してみると
添付のごとくいくつかのケースが(ここをクリック)あるようである。
(下の説明板」は その箇所ををクリック すると拡大表示されます )