日本の「鉄道王」ともいわれ、JR可部線の生みの親である。
雨宮敬次郎は1846年(弘化3年)9月 現在の山梨県塩山市の名主 総右衛門 の次男として生まれる。
・7歳〜12歳 学問修行
・14歳のとき 商人となり、卵、生糸の行商で甲府と東京を行き来するが外国貿易を夢見て東京に出る。
・26歳のとき 横浜で洋銀相場、生糸、蚕、陶器、米穀、海産物など多くの商品を扱う。
・30歳〜31歳 欧米諸国を訪問各国の経済状況を知り、帰国後は文明開化に係わる製鉄、水力 発電、鉄道
や殖産事業などに熱意を燃やし、その実現を行なった。その中でも特に重きを置いたのは、製鉄と鉄道であ
った。
・ 36歳<1882年(明治15年)>初めて熱海への“軽便鉄道”の施設の構想を持ち、実行に移していく。当初、
機関車はアメリカから輸入したが性能が不十分で2度の改良機でやっと熱海までの運行がかなった。
その後、真島氏が考案した機関車が試作されたらその方が性能が勝っており国産化に移行される。さらに、
日本の機械メーカーで改良された機関車が登場するようになり、自らも[雨宮鉄工所]を設立し機関車製造
も始めたのである。
・ 42歳<1888年(明治28年)> 鉄道事業を拡大していく。甲武鉄道を買収し社長に就任以後[川越鉄道]、
[北海道炭鉱鉄道]、[東京市街鉄道]、[京浜電気鉄道]、[武相鉄道] 、[江ノ島電気鉄道]他を買
収、創立を企画、施設をし、まさに“鉄道王”にふさわしい活躍をしたのである。
・ 一方、この時代の重要基幹産業でもある“鉄山”を経営し“製鉄業”にも参入した。「日本鋳鉄会社」の社長
に就任し、日本の陸海軍の軍需部にも深く関係を持つようになる。
そのような関係から、海軍の鎮守府のある広島県呉市をたびたび訪れ、広島市にも立ち寄っていた。住民の
“かねてから県北への鉄道施設の熱望”を知っていたので、事業として成り立つと考えたのか、その実現に
邁進するのである。
即ち、下記の有力者達に、「雨宮が資本の50%を出す、残りを地方で負担してください」という条件であっ
たので、 計画はトントン拍子に運び、実現へと向かった。 その後の経過は 「JR可部線の歴史略年表」の
とおりである。
・ 一代で“鉄道王”と称される雨宮敬二郎は三井・三菱の財閥にも匹敵する財閥に成長したが、1911年(明治
44年)64歳の生涯を閉じ、その財閥もまた一代で終ってしまった。
雨宮敬二郎と可部線との係わりを知る人は少ないが、疑いも無く我が郷土に大きな恩恵を注いだ人物であり、
その足跡を永遠に記憶しておきたいものである。