武田氏一族で銀山城下に居住した
国重氏は武田氏の一族である。
武田信賢の次男
信恒は武田山の北西麓、国重(現在の広島市安佐南区沼田町伴字迫の谷)に 「国重城」 を築城し居住して安芸武田氏を支えた。
国重氏について[芸藩通史]には 「伴村にあり、武田氏の族、国重といえる人、所居という」 と記されている。
信恒の子
信政は地名の『国重』に改姓した。
信政は元繁の従弟であるが 永正12年(1515) ごろ広島県安芸高田市吉田に移住し毛利元就などに仕えている。
以後、代々毛利氏に仕え広島湾頭への進出、山口大内氏との戦いなどでも活躍し、なかでも、元恒は広島城下で毛利輝元の「近習」として仕え、朝鮮にも出兵するなど毛利氏の武将として活躍している。
その後、関ヶ原合戦で敗れ山口県の萩に移封された毛利氏に従って転居した。
国重氏に係わる資料、史跡は殆ど現存していないが、城跡が宅地化されるのを機に 昭和57年(1982) に ”広島教育委員会” により発掘調査が行われている。
それによると、城は比高 約20m の小山で弥生時代の集落跡上に築城され、”郭” 及び ”縦堀” が各5か所、 ”空堀” が1か所、”柵列” が2か所
”石垣” 1か所 ”礎石建物跡” 1軒分が確認されている。後世、耕地に変える為礎石等が持ち去られたことも考えられるが、郭の規模や配置から実践的な山城でなく、日常的に居住して武田一族として地域を支配したのであろうと考えられる。
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