安芸武田氏ゆかりの
神社 と 寺院
広島市内にある安芸武田氏ゆかりの神社を紹介します。
ゆ か り の 神 社 | ||||
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1 熊野神社![]() 昔、この地域に住家を営むとよく火災が生じたので天文年間(1532〜1554) 武田氏が社殿を創建し、御祭神(熊野速玉神社の分霊/和歌山県)を勧請して 「熊野新宮社」 と称して祭礼を行なった。 以後は火災が起こらなくなったので住民から防火の神として篤く崇敬されてきた。 祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)。 明治初年より 「熊野神社」 と改称、通称は 「新宮社」。 |
2 安神社![]() 当初、武田山の麓の松尾山にあったが、 正安元年(1299) 恒例の祭礼中、厳島社司桜尾城主「平員家(たいらのかずいえ)」の軍勢によって銀山城が攻められた時、兵火にあって焼失した。 その後、武田氏によって 嘉元年間(1303〜1306) 現在地に本殿が再建された。 武田氏滅亡後、永禄3年(1560)には「 毛利元就」によって再度本殿が再建された。 その後、文禄3年(1594) には「 毛利輝元」が社殿の屋根を葺き替え、福島・浅野氏からも崇敬され修理や再建が行われてきた。 文化13年(1816) には「浅野斎賢」 により社殿の一切が再建された。 しかし、明治43年火災により社殿が焼失、現在の社殿は大正2年に再建されたものである。 |
3 熊岡神社![]() 古くは 「帯中津比古命(たらしなかつひこのみこと)」 「息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)」 の2柱を祀っていたが、伝承によると、永正元年(1504) 「武田元繁」 が鎌倉鶴岡八幡宮より 「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」 を勧請合祀し、銀山城の守護神として武田一門の崇敬を受けたと伝えられている。 社殿は寛政7年(1795) に改築された。 現在の社殿及び付属建物は昭和9年の春、氏子の協力により、建立されたものである。 なお、慶応2年(1866) 改築の際 700〜1300年前のものと考えられる祝瓶、土器が発見され、同神社で保管されている。 |
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4 新羅神社![]() この神社は正応2年(1289) 銀山城主の「武田信宗」 が勧請した武田氏の始祖である「源義光(新羅三郎義光)」を祀った神社で 「新田八幡」 とも伝えられている。 武田氏滅亡後は衰退したが、里人は以後、里の氏神として奉祀し今日に至っている。 参道の35段の石階段は素朴で急勾配であって歴史が感じられる。 |
5 尾首日吉神社![]() この神社はもともと武田山山麓の龍原山にあった。正応2年(1289) 安芸の守護職 「武田信宗」 が銀山城に在住するにあたり、江州(滋賀県)坂本の日吉(ひえ)神社(祭神は山王権現)を勧請し、壮厳な社殿を造営し武田一門の守護神として奉祀されていたと伝わる。 武田氏滅亡後は荒廃したが、里人が社殿を現在地の 「尾首」 に移し、「産土神(うぶすながみ)」 として祭られてきた。 |
6 河内神社![]() 社伝によれば、当神社は武田氏の時代は武田山山麓の河内谷という所に鎮座していた。 特に、永正元年(1504) に 「武田元繁」 が安芸国の守護となって在城の時から後裔の 「光和」 まで守護神として崇敬されていた。 その後、天文10年(1541) 毛利氏との戦いで落城した後は祭費の出るところ無く自然に荒廃した。 その頃、神明童子に、「社殿を塔の岡に造営して祀れ、この里に永く悪病なきよう守護すべし」との託宣があり、里人によりその地に移し、産土神として祀って以来この地には悪病がなくなったという。 |
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7 田中山神社![]() 芸藩通志によればこの神社は、承久の変の戦功により、安芸国守護職に任ぜられた 「武田信光」 の後裔の 「武田信宗」 が、武田山に銀山城を築いたとき「武田家の武運長久」を祈り、鬼門を除くため当社を勧請したと伝えられている。 武田信宗はこの神社に対し、お供え用の米を収穫するための田を寄付したという記録が正徳5年(1715) の神社改めの際の記録に残っていたと伝わっている。 また、天文10年(1541) 武田氏が滅んだ後、この地の領主になった毛利元就も、社領として40石を寄進していたが、毛利氏の防長移封後、福島正則が領主となった時、社領を没収されたが、以後も当地域の里人の産土の神として尊崇されている。 |
8 萩尾神社![]() 明応3年(1494) 銀山城の初代 「武田信宗」 から数えて第8代目の城主、「武田元綱」 が子の(孫という説もある)「武田繁綱」 に対し、商業・漁業の守護神として萩尾山神社を建てるよう命令をし、造営された。(この命令書は最近、福王寺(可部町)で発見された)。 その命令書には場所が沼田郡相田村となっている。 その後、元文5年(1740) 現在の場所に移ったと伝わっている。 ただし、昭和45年に松ヶ丘団地の造成工事により、本殿、幣殿などが東北に50m移設された。 |
9 諏訪明神![]() 信州諏訪に近い甲斐武田氏は諏訪明神を守護神としている。 同地から移住した安芸武田氏が同明神を崇敬するのは当然で、信州から勧請してこれを祭ったようである。 武田氏と共に盛衰したが、今は住民の氏神として尊崇されている。 |
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10 岡崎神社![]() 勧請年月や由緒等については不詳であるが、伝説によれば、当時安芸の国の領主、武田家の親戚(重臣)、「武田(伴)五郎繁清(伴城主)」 の祖先が勧請したと伝えられている。 伴の三城田にあり、旧伴村及び長楽寺村の氏神であった。 延享3年(1746) 火災に遭い焼失したが現地に再建された。 往古は岡崎八幡宮と称したが、明治4年5月に 岡崎神社 と改称されている。 |
11 宇那木神社![]() 「芸藩通志」によると、祠官玉木氏の祖、「兵部」が甲斐国から勧請したと言われている。 安芸国守護武田氏の、銀山城の北門鎮護として崇敬された。 その後、明暦2年(1656)、文化5年(1808)、文政4年(1821)、天保11年(1840) などに社殿の造営が行われた。 また、かって神楽田1町2反があり、八幡田の地名があった。 |
12 両延神社![]() 「芸藩通志」によると、建久元年 (1190 ) 「武田朝信」 が宇佐八幡宮の分霊を下四日市村に勧請し、建長5年 (1253 ) 「武田信時」 が大毛寺村白石山に奉遷したのが始まりといわれている。 八幡宮は源氏の守護神として崇敬されていく中で、両延神社も武田氏代々に信仰が厚く、その庇護を受けて社運隆盛であったが、武田氏滅亡後は衰退した。 宝永3年(1706) 近郊12箇村の氏子により再建造営され、現在に至っている。 往古より 「可部の宮」 とも 「西の宮」 とも称され、当地方の総鎮守として多くの人から尊崇されている。 |
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13 早稲田神社![]() 神社の由緒書きによると、武田元繁は鬼門位置の牛田神田山に文亀3(1503)年に神田八幡宮を創建。更に、同年早田神社を起工し、永正8(1511)9月15日に完成させて、八幡宮の神霊が奉斎された。 完成まで8年も要したのは@山の斜面を削って境内の平地にするため難工事であった A時期的に元繁が頻繁に戦闘状態にあったことや、まわりの強力大名や国人領主に対し油断できない状態であった事、が考えられている。 約1kmの位置に2つもの神社を建立したのは鬼門鎮護以外に武田氏の権威を示そうとしたのではないかとも考えられている。 |