光和には嫡子が無かったので、尼子氏の要請で若狭武田元光の3男の信実が養子となり、銀山城に入った。 重臣間で意見対立があり、品川一党が八木城の香川氏を攻撃、しかし、平賀、熊谷氏らが香川に援軍を出すとの情報で、一党は退却、武田家臣団も銀山城から逃亡、信実も若狭に逃亡してしまった。 その後、1540年尼子詮久が元就討伐を決起すると、武田氏再興を願い出、これが認められると、信実は銀山城に復帰した。 翌1541年には詮久が大内・毛利の反撃により、出雲に退却、銀山城はまたも孤立した。 その時、信実は尼子を頼って出雲へ敗走したので、ここに安芸武田氏は滅亡した。