兄信栄との戦功により,安芸、若狭二か国の守護職を拝命し、応仁の乱(1462)では管領細川勝元の東軍に参戦して、毛利、福原、吉川、宍戸、熊谷、小早川らの諸将を旗下に入れて、西軍の山名宗全の属す厳島神官主藤原家、竹原小早川氏と交戦。 また、上洛して、京都においても西軍の山名軍とも戦っている。 その後丹後の一色義直も攻めたが、52歳で病没。若狭国小浜城に居館したので、末弟の元網が銀山城主を継承する。