1493年明応の変が起きたとき、大内義興に従って上洛し、足利義材を将軍に擁立した。 その後、大内氏と決別、急成長しつつあった尼子氏と同盟を結ぶ。 逆に、毛利、吉川氏らは大内氏と同盟を結んだ。明応七年(1498)大内教弘の大軍が府中城、仁保城に来攻した時、31歳で父元網と共によく侵攻をくい止めたが永正十四年(1517)10月22日、毛利方の有田城を攻撃(有田合戦)した戦いは圧倒的に優勢であったが、元繁自ら最前線の又打川に出馬した際、元就方の弓矢を受け戦死した。 (この戦いは”西国桶狭間の戦い”とも言われている。また、元繁自身も戦国時代の有力な武将と称されている) これより安芸武田氏は大きく衰退することになる。 (この時、臣下の熊谷元直/可部・高松城主もまた戦死している)