武田 光和 (たけだ みつかず)
 武田 光和の墓(山口県岩国市玖珂町)

 父の元繁と同様に親尼子を貫き、大内や毛利と戦う。 大永二年(1521)大内義隆の大軍が来攻して、広島湾の府中城、仁保城、更に太田川の新庄や山陽大路の大塚まで攻撃をかけ大永四年(1524)には大内義興の3万と銀山城下で大決戦を展開する。急を知った尼子経久の援軍もあり、光和はこれを敗走させた。 その後も、反大内方を支援するなど積極的に活動するが、武田氏の衰退を止めることが出来ず、ついには熊谷信直が元就から可部の土地をもらた事などから武田から離反した。 光和は三入高松城の熊谷氏を攻めたが、落城せず、撤退する。再度攻撃を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子無いまま急死。 武田氏の衰運は決定的なものとなった。
 <墓>:左のもの以外に、芸藩通志の記載によれば「光和の墓”東山本村の山王原”にあり、桜樹をしるす」と記載がある。現在の山本9丁目(山王原)であるが明確な位置は定かでない。

Phot 2008 (H20) ,7
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