上中地区

臼山八幡神社

 




明治41年 (1908) 5月12日それまで石内村内の各地にあった神社が臼山八幡に合わせ祭られた。


臼山八幡と、沖組の丸山にあった新宮神社、和田の穴ヶ迫の貴船神社、湯戸の平原の松丸神社の4つの村社と、臼山神社の摂社であった有井神社の祭神は、いま臼山神社の正殿に祭られている。

村内各地にあった他の29社の祭神は、正殿が狭いため、その西側に別に建てられた相殿に、それぞれ神体を区分して安置されている。昭和15年( 1940) には、いわゆる紀元2600年の記念事業として境内が拡張され、本殿・舞殿・の移転、幣殿の改築などがなされ、現在みられる荘厳な氏神社となった。

(「ふる里めぐり ふる里石内の史跡・遺跡」より)






















  大きな松(アイグロマツ)があったが、
枯れてしまい今は無い。
石内収蔵庫に松の根元の輪切りが置いて
ある。
 




















              
                         臼山八幡神社にてお祭りの風景↑


















秋祭りのよごろには、石内神楽団による神楽があり、演目の合間に吹上花火が上がる。

 






















 

鳥居は、石内の石で造られています。  【石内村郷土誌】抜粋

当社の石神門の由来の木札あり。
これによれば当村 半坂百姓 保兵衛、同 嘉平次両人の山に大石あり。
なお、台石は、馬場組の百姓 幸七の田地 岸にありたり。

そこで、両所見分の上、安政4年(1857)7月29日当村庄屋、組頭、長百姓、年行司、世話方一同集会の上、石神門の再建を相談し、氏子一統同意につき、神主山田肥後正 謹んで御神慮を伺いしに、御神慮にもかなう。

とりわけ元当村 鍛治計の産、田尾佐久六、当時沼田郡楠木村に住みし人、寄進致しき心願あり。
その段氏子中に相談し、氏子一統 これを承諾したるをもって、公に御伺いしに直ちに御免許ありて、右の石引出し綱等、御貸下げくだされる。
石工は安芸郡吉浦石棟梁平吉なり。

8月上旬より半坂の山に向かい、同所より当社まで1里(4q)余りを台車に乗せ、半坂、平岩、鍛治計、中屋、馬場、5組の人々出て、日々石引取りに従事す。
初日より天気快晴続きにて、当社まで引取り、9月27日御棟上の式、大変にぎやかに終える。
                                          (「臼山八幡神社 略記」より)

一、人 歩 参千人余 但当村5組氏子中

一、金 子 拾両余      〃
一、金 子 弐両余 田尾佐久六
一、石神門(鳥居)の額

右の石柱に奉寄進 取手問 当村氏子中
左の石柱に奉寄進 安政4丁巳歳 沼田郡 楠木村 田尾佐久六
テキスト ボックス: 臼山八幡宮

陸軍大将男爵神尾光臣謹書
テキスト ボックス: 大正十一年秋献之
   (表面)       (裏面)





















▲石内の今と昔にもどる