佐伯区三宅五丁目

 ニンニョは、任助と書くが、なぜかここでは、仁助となっている。高さが、3.75mあるお墓である。
 任助法親王〔伏見宮貞淳親王の第4子、後奈良天皇の※1御猶子、母は太政大臣三条実香の娘〕は15歳で出家し、晩年、九州への旅の途中に宮島の大聖院に立ち寄り、西方院で天正12年(1584年)に亡くなった。
 三宅の美しい風景を好まれ、遺言により円明寺の境内に御陵墓(お墓)を建てたと伝えられている。(任助法親王の御陵墓は大野町赤碕にもあり、現在は赤碕の御陵墓が正しいとされている)
 仁助法親王宝きょう印塔は、元文2年(1737年)西福院(広島市)八代の住職弁稚の発願により建立されたものである。

※1 猶子(ゆうし)・・・平安時代ごろから一族の意識強化のために仮の親子関係を結んだ子のこと。養子に類似しているが、相続を目的としない点において異なる。