エッセイ「こもれび」


死ぬために生きる



江尻 和義


毎日楽しく過ごしたいと思う。誰しも願う、当たり前のことで改めて書く必要性はない。子育ても、生活のために働く必要もない私にとって、生きるとは、母の介護と犬の世話が中心になる。

死はいつ来るかわからないが故に、考えない。先日見た老人ホームの番組は、登場人物が「ここに来た目的は皆同じ」といっている。そう、死ぬために、できれば楽しくまた快適にと願って、多額のお金を払って入居している。450名もの人が各地から集まって、死ぬためにそこで生きている。過去の自分と向き合いながら、別れて生活する子どもや孫のことを思いながら生きる。

過去の自分を振り返って、十分満足のいく人生だった。後はただ静かに健康に過ごしたい。まさか! そんなこと思ったことがない。どうやったらもっと楽しく、もっと快適に、もっと便利に?

どうやったら幸せになれますか?と聞かれて、周囲の人を喜ばせたり幸せにしてあげなさい、そうすれば自分も幸せになれると答えた人がいる。また別の人は、生きがいを持ちなさいと言っている。私はどちらも正しいと思っている。幸せはブーメランのように帰ってくるし、生き甲斐は自分の存在理由や方向性を与えてくれるものだから、万一それによって人が喜んでくれたらなお嬉しい。

 少し当たり前のこと書けば、幸せや満足の感覚は長続きしない。待ち望んでいた出世ができたとしても、2~3日でその興奮は消え、またその興奮を求めて、日々努力することになる。もし、その興奮がなかなか消えなかったら? 人類の発達もここまでではなかったかもしれない。人は、すぐ消えてしまう喜びや幸せを求めて毎日を過ごす。幸せとは人によって違う。ある人は自分が幸せだと思えば、それが幸せだと言うし、また別の人は、子や孫の笑顔を見ればそれが幸せと言う。大きな家や立派な車、たくさんのお金があればという人がいるかもしれない。だが、私に限って言えばそれらは皆違う。

美術館や博物館に行く、動物園や植物園にも行く。美味しいと評判のお店に行く、お土産やお菓子も買う。人気の観光地にも、人混みに紛れて見に行く。ホテルや旅館・温泉宿にも泊まる。それらは幸せとは違う種類のものだが、願望や欲望を満たすことはできる。

自分は幸せだとごまかすことはできる。生まれ変わることはできないが、自分は幸せなんだと思い直して生きることはできる。

残りの人生まだまだやることがある。していないこと、見ていないこと、味わっていないこと、感じていないことがたくさんある。そう思うと、わくわくドキドキしてきて、少し楽しくなる。お金を少しも使わないのに・・。

(2020年6月



 
可部公民館オンラインギャラリー トップページへ戻る

※当サイトに掲載されている情報は、著作権の対象となっております。
無断で複製・転用することはできません。