【林 玲子さん】 記憶の糸をたぐり寄せて=8月6日とそれから=
1945年8月6日午前8時、私は自宅(爆心地から1.7キロメ−トル、現在の中広町付近)で茶ぶ台を前に朝食を摂っていた。母は座敷の廊下を掃いていた。閃光もド−ンいう音の記憶もないが、私は気を失っていたのだろう。
 どれほどの時が経過したのか、気づいた時私は暗闇の中で泣き叫んでいた。倒壊した家の下敷きになっていたのだ。「子どもを助けて!」母の声に近所の方々が力を合わせて、瓦礫の下から私を引き出してくださった。ほとんどの大人達の顔や手足は血にまみれていた。
 向こうの土手は火の海。不思議に焼け落ちなかった木の橋を渡って多勢の人がこちら側に逃げて来ていた。衣服も髪の毛も焼けたその人達が、当時4歳だった私には幽霊のように思えてとても怖かった。
 私達は、近所の人とかろうじて形を止めていた風呂場に肩を寄せて合っていた。そこへ俄かに雨が降ってきた。母の話によると冷たく重たい黒い雨で「こりゃ重油でもまかれたんじゃろ」と口々に言ったそうだ。
 夏だというのに皆寒くてガタガタ震えた。夜になり私はひどい下痢症状となった。紙もないので母は畑に植えてあった南瓜の葉っぱで、私のお尻を拭いた。潰れた我が家から布団を引っぱり出し、夜を明かした。
 再び太陽が昇った時周りの景色は一変していた。土手には死体が折り重なり、川には腹がパンパンに膨れ上がった人や牛や馬が川面をうめつくして流れていた。
 近所の人が「ひたいはありませんか?」と呼ばわって歩いていた。それが「死体はありませんか?」ということだったとわかったのは、私がだいぶ大きくなってからだった。火の手が納まった町の空を、今度は亡くなった人を焼く煙がおおっていた。
 4歳だった私には、この程度の記憶しかない。しかし、長じるにつれて残された者の嘆き、のしかかる生活苦、放射能への恐怖をつぶさに見てきた。あの日、大勢の人がまるで木の葉のように焼かれて死んでいった。生き延びられた私は、せめて残された日々を真摯に生きよう。そして母達から聞いたあの日の惨状を若者達に語り継いでいこう。
 運命の日から60年目の夏、いまだ戦の火は世界のあちこちでくすぶり続けている。核実験の話題も絶えない。「あやまちはくり返しません」そう誓ったはずなのに・・・。
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