【台井 高明さん】 被爆体験
 昭和20年8月6日、私は15歳で己斐上町、現在の己斐上四丁目に住んでいました。私は義務教育を終了し、家業である農業を手伝っていました。当時は、食料が不足していたため農業に従事するものは徴用を免除されておりました。 昭和12年に母を亡くしていて父と妹2人と暮らしていましたが、8月6日の早朝、姉の一人が三次から子どもをつれて里帰りをしていて、その姉を広島駅に送っていきました。そのころ己斐上は桃の産地で、姉にはおみやげとして桃をもたしていました。この姉は、原爆が落ちたとき列車が矢賀のあたりを通っていて無事でした。8月16〜17日に家族を心配して己斐へまた来ました。
 姉を送ってから、電車に乗って西広島駅までいき、そこから己斐上の家への帰り道を歩いていたら、現在の己斐上4丁目バス停あたりでB29の爆音が聞こえました。
 そして稲光のようなすごい光と衝撃がして、気がつくと道路脇の側溝に倒れていました。戦闘帽とゲートルを身につけていましたが、ゲートルも側溝の水でびしゃびしゃに濡れ、戦闘帽もどこかに飛んでいってしまっていました。
 周りを見ると、近所の家のわら屋根や瓦はがたがたで、衝撃で土壁は内側にひどくへこんでいました。山火事も5箇所くらいおきていて、急いで家に帰り、山火事を消しに行きましたが、そのときには材木を切りに来ていた兵隊さんが消火活動をしており、心配ないとまた家に帰りました。
 しかし、父親が帰ってきません。心配になって父親を探しに行く途中、己斐小学校付近の道は道路いっぱいの避難者でした。避難してきた人はひどい状態で、ぼろぼろになった手を前に出し、まるでおばけのようでした。
 黒い雨も降りました。黒い雨は西のほうがひどかった。長い時間ではなかったけれど、その後「アメリカ軍が油をまいて、それが混じった雨だ。そこに爆弾で火をつけるつもりだ」というデマが流れたため、しばらく水が飲めずつらい思いをしました。
 原爆のあともアメリカの飛行機の爆音がすごく、すぐ起きられるようにして寝ました。飛行機の音がするたびに防空壕に逃げ込んで落ち着いて休むこともできませんでした。
 父親は己斐の本通りの商店街へ買い物にいったのかと思い行ってみましたがいません。結局、父親を6日当日には4回くらい探しに行きました。4日間続けて探しに出ました。土橋の停留所のあたりまで行きましたがいませんでした。
 たくさんの人が亡くなっていました。土橋をこして左官町あたりはとても火が強く、それ以上は行けませんでした。己斐小学校の講堂も火事になりましたが、警防団が消しました。おそらく茶臼山がたてになって防いだので、己斐上地区には住宅火災が起きなかったのではないかと思います。 己斐小学校には負傷した沢山の人たちが水を求めてやって来てました。ひどい怪我をした人たちが足の踏み場もないくらい横になっていて、その中で父親を探しました。でも誰が誰やらわからない状態で捜しようがありませんでした。その中の人たちで助かって元気になった人はいなかったのではないかと思います。
 うちの近所では、行方不明者がうちの父親ともう一人子どもをつれて買いものに出ていた近所の若い奥さんがいました。当時は隣組といって近所の互助精神が強く、何日後かに隣組10件で2手に分かれて行方不明の者を探しに行きました。 私は疲れて家で休んでいましたが、私のもう一人の姉が一緒に探しに出かけました。
 2手に分かれたうち一方は、東練兵場(現在の鉄道病院あたり)までいって、そこで大きな声で行方不明になった人の名前を呼びましたがいません。「もうおらんけえ帰ろうや」と大きな声で言ったとき、「うちはここにおるよ!」と声がして、行方不明だった若い奥さんが見つかりました。その人は稲荷町あたりで被爆して、一緒にいた子どもはそのとき亡くなったそうです。その人も大八車に乗せられて己斐上町の自宅に戻りましたが、1週間くらいのちに原爆症で亡くなりました。
 小学校の同級生もたくさん亡くなりました。現在の己斐中町の病院のそばで、沢山の負傷者の中、同級生がひどいやけどをして歩いていました。私は彼のケガがあまりにひどく、やけどのため顔がはれて変わっており気づきませんでしたが、向こうから「おーい」と声をかけてきました。「痛いか」と聞くと「痛い」とぽろぽろ泣いていました。彼も亡くなったそうです。
 8月6日の夕方、父親を探す途中で、己斐駅近くの理容院そばに軍隊から配られた乾パンを手に幼い女の子がひとりぽつんと立っているのを見かけました。とても気になり、気の毒でしたがどうしようもありませんでした。今、己斐上のバスが通っている道の途中ガソリンスタンドのあるあたりで、避難していた女の子が力つきたのか倒れていました。 平和な今の時代から考えると想像できないほど大変なことが起きていました。
 うちの家の前の山道を通って三滝方面からも避難者がぞろぞろ歩いてきました。 その中の何人かはうちの家の納屋にしばらくいました。その中でかぼちゃを下げて逃げていた人が印象に残りました。
 己斐小学校では警防団の方が原爆で亡くなった方の遺体の処理をしていました。
 原爆が落ちる前に、己斐小学校のグラウンドに小学生が大きな穴を掘りました。それは空襲があったときに逃げ込むためのもので、子どもたちは穴への避難を何回も練習していました。目と耳とをふさいで穴に飛び込むのです。
 原爆が落ちた後、その穴に遺体を入れて重油をかけて焼き、その上にトタン板をかぶせました。遺体はたくさんあり、やけどがひどく動かそうとすると皮膚がはがれ、手でもてない場合も多かったので、「とび口」という先を引っ掛ける道具でひっかけて穴に入れていました。
 己斐小学校の校庭の隅に遺骨を集めて埋葬し、そこにいちょうの木を植えました。その後遺骨は集められ原爆供養塔に埋葬されました。
 父親の生死は結局わかりませんでした。今も、夏になると父親を探しに原爆の不明者の張り紙を見に行きます。それが息子としての供養だと思って毎年続けています。
 なぜ自分たちだけ核兵器を持って良いと考えるのか、どうして無用なものを作るのか、金持ちのエゴだと思います。核兵器を持っている国に気づいて欲しい。とてもじれったいのです。核兵器のように必要のないものは、みんなが世界から失くすようにすればよいと思う。
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