協力:草津まちづくりの会
草津まち 歴史の散歩道のガイドマップは草津公民館窓口にて配布しております。
小泉本店と大門の金具
天保年間(1829〜1847江戸時代)創業。宮島厳島神社の御神酒は今も造っている。
明治18年、明治天皇が立ち寄られ、お馬車を止められた処に記念碑「置鳳輦止處」(ほうれんおきしところ)を建てた。
庭先には、重さ280kgの「大門」の金具が保存されている。
(草津まち「歴史の散歩道」ガイドマップより引用)
魚・かき・かまぼこのタイルが埋め込まれている
少し趣きのある欄干の草津橋の改修工事が完了した。
都道府県対抗男子駅伝の最終中継点にふさわしい橋をとの住民の願いが実現したのだ。
草津橋は、昭和10年までは、「思案橋」と呼ばれ、現在の草津橋より少し上流にあった。城下より宮島や井口の小己斐明神へ参詣しての帰り、この思案橋にさしかかると「このまま広島城下へ帰ろうか、鍛冶屋町(鷺森神社から慈光寺あたり)で一杯呑んで帰ろうか」と思案したので「思案橋」と名付けたようだ。何とも粋な命名である。
この度の草津橋の改修に際し、「思案橋」の石標が浜町の橋本福夫氏宅に保管され残っていたので、橋本氏のご好意により説明板とともに設置した。
(説明板より抜粋)
西部埋立・第7公園内にある灯台
この燈台は昭和23年、草津魚市場が広島中央魚市場として移転新設されたとき、魚市場漁港(新草津港)の防波堤の先につくられた燈台です。
遠く長崎や下関から魚を運んでくる船や近海の漁船は午前4時頃までには入港したので、暗い海の中でこの燈台の明かりを目印にして、草津港に入港してきたといわれています。
草津港800年、魚市場200年の歴史の中の一コマとして語り伝えられています。
草津南町1丁目・第8公園内にある記念碑
昭和二十年八月六日午前八時十五分広島市上空に投下された一発の原子爆弾により 市内は一瞬にして阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵と化し 無残に崩壊した瓦礫(がれき)の焦土(しょうど)の中を蜿々(えんえん)と死の行列が続いた。
この日 軍の至上命令にもとづく広島市長の指令により出動した か弱い女子百名を含む草津南町国民義勇隊は市内小網町附近建物疎開作業任務中被爆し全員傷つき焼けたゞれ悲惨きわまる苦悶(くもん)の果て次々と斃(たお)れていった。
私ども遺族は痛恨のうちに逝(い)った肉身の無念を想い、このむごたらしい戦禍(せんか)の再び繰り返すことのない平和への祈りをこめて百五十七名の尊い犠牲を永久に伝へ残すべく記念の碑を建立し こゝに追悼の意を捧げます。
〜碑文から抜粋しました〜
そばに設置してある説明板も必見です!
草津城の跡(城山)は山陽本線(1898)と宮島線電車(1923)の開通により三分されました。
戦国時代には西は海老山、廿日市、巌島、南は能美島、江田島、東は五箇庄(広島)、江波山、海田市も見わたせる重要な場所でした。
草津城がいつごろできたかは、はっきりしていませんが、1456年(室町時代)武田信賢が草津城を攻め落とし、その後、改築して城としての形が整ったといわれています。
その後、新里式部少輔(大内氏)→羽仁有繁(陶氏)→児玉周防守就方(毛利氏)→児玉就英→児玉元昌と城主が変わっていきました。
関ヶ原の戦の後、毛利氏は長州に移り、福島正則が広島城主となると、正則は草津城下の山陽道に大門をつくり、広島の西の関所とし、草津城を壊したといわれています。
草津南二丁目および草津公民館
在りし日の大石餅本店と草津公民館にある大石餅の臼
寛保・延享の頃(今から約260年前)、西国街道のほとり(現草津南二丁目宮島線踏切附近)で餅売りをはじめたのが大石餅です。店の近くに大石があることから「オイシイ」とかけられ、「大石餅」と名付けられたと言われています。
後に、材料を選りすぐったこだわりの改良がなされ、餅の表面はやわらかく、長くおいても餡(あん)は腐らず、焼けばかえって美味を増すといわれ、西国街道の名物となりました。明治天皇もご賞味されています。
平成10年(1998)、大石餅は惜しまれながら閉店されました。このときまで本店で使用されていた臼は大石餅所在地跡にありますが、己斐の支店にあったもの(写真右)が草津公民館に設置されています。
草津東三丁目:JR沿線沿い
鷺森神社は天徳4年(西暦960年)に勧請されたと伝えられており、広島市の中でも古い神社です。
社神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と金毘羅神(こんぴらのかみ)です。御祭神が女神なので、「弁天さん」と呼ばれ、当時この辺りは海辺であったことから、豊漁と海の安全を祈る神様として敬われていました。
江戸から明治にかけては、旧暦の9月28日の夜に松明を持って参拝し、「中(ちゅう)ばじや、大(おお)ばじや(魚の大小のこと)」と唱えて大漁を祈る習慣もあったようです。
江戸時代の終わり頃(文政6年)から境内で芝居が行われていたため、拝殿に戸がなく三方に廊下があり、建て方が工夫されています。
老朽化などにより、昭和56年頃から解体の声もあがりましたが、地元で残存の気運が高まり、この危機を免れ、現在に至っています。
草津南一丁目:西部埋立第八公園北
一本松にはたくさんの枝打ちされた跡がありました。石碑は右下方。
現在は伐採されています。
この辺りは昔、海岸線でしたが、文政4年(1821年)頃、本固新開などの一帯の埋立により、旧草津港となりました。
この松は港の突堤の先端にあったので、出入りする船の目印になっていたようです。また、この辺りは通称「御場所」といわれ、浅野藩の御番所(船役人の番所)のあったところです。
石碑には「文政4年辛巳(かのとみ)新地波止場築造」という説明と、「萬代(よろずよ)に多(た)かき功績(いさお)を残しおき繁る草津のはれをこそ見禮(みれ)」という歌が刻まれています
草津南一丁目:漁民会館敷地内
側面には詳細を記した碑文がある。
延宝(えんぽう)年間(1637〜1681年)に草津の小林五郎右衛門が「ひび立て」の牡蠣の養殖法を考えましたが、明治30年に水産博覧会が神戸で開かれたときに、その功績が認められ表彰されました。
そこで明治31年、「牡蛎(かき)仲間」が自然石でできた記念碑を建て、その後(大正12年)、改められたものが現在の碑です。
当時は広電荒手駅(今の草津南駅)付近に建てられていましたが、昭和22年には住吉神社の境内へ、さらに昭和58年に現在の位置へ移転されています。
安芸国養蠣之碑文
安芸国佐伯郡の地養蠣を以って鳴ること久し、其彊域沿岸七里に亘り、海面百三十九町に及び、一歳の産出する処、弐百余万貫、価格殆ど、五万円ならんとす。
是地の利によるといえども亦人力の致す所にして、当時者草創の功に帰せざることなし。
古記を案ずるに、延宝中郡の草津村に、小林五郎左衛門と云える者あり、蛤、蜊を養殖せんとて、立置ける竹枝に図らずも、蠣苗の数多附着せるを見て、地の蠣に適するを知り、養蠣の法を案じ、地面を画して、ヒビ場を設けたり、是をこの地養蠣のはじめとす。
其後近傍の民これに做う者漸く多かりしかど、販路開けず、業も盛ならざりき。
元禄の初めに至り、村の年寄河面仁右衛門其の弟西道朴と謀り、三次藩の保護を得、蠣仲間の取締法を定め、仁右衛門その支配人となりて、大いに近畿の販路を開く、宝永五年大阪大火の時偶々高麗橋の下に繋げる蠣船の者、官の制札を火中にて救い、火災を遁れしかば、大阪奉行、その功を賞し、阪地諸川に於いて、自由に販売することを特許せらる。
これより販路益々広まり遂に今日の盛大を致すと云う。
明治三十年第二回水産博覧会を神戸市に開かるるに当りて、小林五郎左衛門、河面仁右衛門の功績を追賞せられしかば、村民感奮し、碑を建て恩を記して、永く後世に伝えんと請う。
会の総裁元陸軍大将大勳位功二級彰仁親王深く嘉賞し給い、安芸国養蠣之碑の七字を書し賜りぬ。
余、よりてその事由を記して、碑蔭に鐫ましめ、併せて後のこの業に従う者をして、益々先業を拡張し、国産を増殖し、以って幽光顕揚の朝旨に副わんことを勗めしむ。
村田 保 撰
草津東三丁目・御幸橋傍
「鳳輦(ほうれん)を置きとどめるところ」と読みます。
明治18年、明治天皇が山口・広島・岡山を巡られた時と、明治27年、昭憲皇太后が宮島へ参拝された時に、どちらもここで休憩されました。
これを記念して建てられたのが、この記念碑です。ちなみに、傍の御幸川・御幸橋は遥か古(いにしえ)に神功皇后がこの地を訪れたことから名付けられたとか。
鳳輦とは天皇の乗物(輿)の美称で、御幸とは天皇の外出のことです。
上下線どちらにも設置してある案内板
広電草津駅には、写真のように「沿線案内草津まちなみ探訪マップ」という案内板があります。
草津まちづくりの会が、広島電鉄と西区区政振興課の協力で設置しました。
草津駅周辺の地図に寺社や史跡の位置などが示してあります。また、散策コースも3つ設けてあり、お好みのコースを周ってみれば自然と草津の町並みがわかることでしょう。
草津駅のほか、草津本町の「草津まちづくり交流広場」にもあります。
この案内板と同様図を草津公民館でもお配りしています。
一見しただけでは、見逃してしまいそうな雁木
ここでいう雁木とは、石を積んで階段状にした岸壁のことです。
瀬戸内海沿岸に多く見られ、潮の満ち引きによる海面の上下に関係なく、船を接岸できるように工夫されたものです。
この辺は、昭和41年からの西部開発事業の一環で埋め立てられました。
今では海岸だった面影はないようですが、旧草津港跡であるこの場所では、その名残を見ることができます。
ちなみに、雪国で通りに面した家屋の庇を長くして、その下を通路にしたものも雁木といいます。(新潟県高田の雁木が有名)
根元から空を見上げる
幸神社の小さな境内に大きくそそり立つ、この銀杏。枝打ちされそれほど高くはありませんが、直径は1m以上あります。
さらに、根は予想以上に広がっていて、直線距離にして約90mほど離れた草津駅近く御幸川そばにまで伸びているとか!(ある工事のときに見つかったそうです。)
実は幸神社ができる以前からあり、樹齢は不明ですが、四百年以上との説も。秋にはその葉を大いに茂らせ、季節を彩っています。
どこから撮ってもフレームに収まらないほど長い
浄教寺境内に一際目立つ黒松はその姿から「臥龍松」と名づけられています。臥龍とは地上に臥した(伏した)龍が今から飛ばんとする姿です。
この松は、樹齢三百年以上で、人の背丈ほどの高さから枝が3方向、横に長く伸びています。
特に、左右に伸びた枝はどちらも20mを超え、まさに龍がうねっているように見える様は、圧巻です。
大釣井(右)と地蔵尊(左)
大釣井はいつ頃掘られたものかわかりませんが、慶長(1596〜1614)の頃にはこのあたりに住む漁師や町民の飲料水や用水になっていたのではないかと思われます。
又、草津では歴史に残る大火が宝暦年間(1751〜1763)から文化年間(1804〜1817)の間に、宝暦の大火、作兵衛火事、大公火事、勘兵衛火事とおきていますが、この大釣井はその頃の防火用水として大きな力になったのではないかと思われます。
大釣井の側の地蔵尊は火災をなくすために祀られ、それからは草津に大火がなくなったと言われています。
草津公民館の近くの鏝絵
鏝絵とは、漆喰(しつくい)を塗った上に鏝で浮き彫り風に風景・肖像などを描き出した漆喰彫刻のこと。民家や土蔵の壁を飾る、左官職人の技術の詰った、いわばレリーフです。
草津の町にも古くからの土蔵があちこちに残っておりその中に鏝絵を見つけることができます。気を付けて歩いていたら、思わぬところで発見できるかも…!!
ジグザグの線に注目!
草津の町には、入り組んでいて遠くが見渡せないようになっているところがあります。
敷地を見ると「のこ」の目のように入ったり出たりしており、戦いの時、身を隠すのに都合がよいように建てられたものです。
これを「遠見遮断」といいますが、そんな古い建て方も感じられます。