★西区各公民館の「次世代へのメッセージ」へ

 
             

―   被  爆   体  験   ―


【Nさん】恐ろしい日

  私はヒロ8501工場の防衛本部にいました。係長の提案で毎朝外側の窓ガラス戸をはずしていると、そばの待避壕の土盛りに植えた甘藷が茂ってくるのが分かりました。私たち三人の学徒はラジオから西部軍管区及び呉?守府発表の情報を記録、淡輪沖から阪神方面、三崎半島上空通過から北九州へ飛来するコースを、机上の地図に雛型で示し、広島空襲の危機を予知する係の補佐でした。警報のスイッチをいれると所長以下幹部が集合し、情報判断と指令準備をします。所長は厚い座布団の二つ折り頭巾、保安課長は国民服の重ね着でした。
 あの朝は警報解除で記録もなく暇でした。だしぬけに青白い光が背後を襲いました。警報スイッチ、隣の放送室、工場内三箇所の変電所の事故か。「何だろうか?」ヒゲの係長の痩せた青黒い顔に大きく見開いた目、おそらく私たちもそうだったでしょう。椅子から腰を浮かし、両手を机についていました。そこへ建物全体を揺がす衝撃音がかぶさり「やられた!」で真っ黒い世界を動けません。「机の下へ伏せろ!」係長が叫んでくれました。その声は老いても軍人上がりの冷静な指示で頼もしいものでした。
 そこへ二階の課の美人事務員が別人の顔で転がりこんできました。自分の課の壕どころではなかったのです。怖がり屋の私は様子を窺い、在郷軍人会の職域聯合分会の名簿等入った非常持出箱を引っ張り出しました。すると狙ったように二階のガラス戸がオチ、大きな音でした。壕から出るとまもなく、前の幹線道路を幅一杯に、緊張に引きつった顔の負傷者が血を流して走ってきます。血のせいで顔が一段と青白く見えました。マラソン出発直後に似た混雑は、何者かに追われている速さの、全力疾走でした。
 本館の先に診療所がありました。先頭が過ぎると数だけの驚きに変わりました。我先の手当が欲しい群の後は落伍組みたいですが、先に処置してやりたいけが人でした。
 市街方向に目をやると、異様な雲が湧き上がり、噴いてギラギラ輝きながら上昇。勢いは二又になっても吹き止みません。市街図を持ち出し方角を合わすと基町の火薬庫に当たります。貯蔵された火薬が瞬時に引火爆発したのでしょうか。私の町の谷間の煙硝庫の火事では、幾十回も爆発を繰り返し、煙火のような煙が上空で揆けていましたが。誰も火薬庫の爆発説を聞こうとしません。目前の大事にどう対処するかしかなかったのです。戦局不利のなか、情けないやら腹立たしいやら。
 不注意ではすまされぬ怒りがこみあげます。三滝の山の方に煙が見えます。家は駄目だと諦めました。私の火薬庫説も首をかしげて消えてしまいました。掃除が待ち受けていました。ガラス片は石よりも重く厄介でそれにしても腰の弱い箒です。塵取で掬い取っては数でこなすのに、廊下を音をたてて用心して通る人ばかりのようでした。
 監視哨からは、舟入辺りは家並の倍もある炎が押し寄せ、観音町は煙ばかり。私の帰路は己斐を迂回ときめました。
 厚い雲から大粒の雨が屋根の色を変えて過ぎました。
 指令は庶務課が刷り、私は数百米離れた鋳鍛部の工場事務所に走りました。途中、うなるような爆音に気付き、砂地のくぼみに伏せましたが、恐怖心の虜になっていました。
 戻ってみると、監視哨勤務の水兵が、共に木の弁当箱を抱えていました。幾らでも持帰れと云われたのでと数の言訳をしました。「帰ってもどうにもならんぞ。腹一杯喰うておけ」その励ましが身に沁みました。お菜は味噌汁の実のような春雨ともやしでした。工場は無人に近くなってきました。もっと早く退去してもよい筈なのに、仕事を務めねばの口実で気を紛らし、臆病になっていたのです。もう本部には私の用事はありませんでした。奥行千五百米の敷地、六千人近くが働いていた大工場。正門前には守衛達が椅子を持ち出して大股をひろげていました。誰にも用はない。家の安否だけの私は首筋を硬くした早足になりました。

※本文と画は関係ありません。 画:沖田繁一氏 【鯉城,城壁,練兵場,番兵】
 資料提供:沖田英雄氏


【Hさん】被爆体験記

 昭和二十年八月六日、原爆投下の日である。思い起こせば私達若き力をお国のためと、学生は学徒動員で鉛筆をハンマーに取り替えて一生懸命兵器造りに働いていた。八月六日はたまたま工場の休みの日であった。
 突然川向こうの方からピカーと黄色い光線が目に入ったと思う瞬間、グラグラと家が壊れ、瓦が落ちてきた。体は血だらけで、店の屋根の上に父が座っていた。家の中にいたのに、どうしてそんなになったか分からないと言う。家にいた家族は一様に無事であった。何も持たず、着のみ着のままで外に出ると、時間はいくときだったか分からないが、けがをした人の黒いかたまりが歩いている。その時は何がなんだか分からない。家はまだ焼けずあったが、ニ、三軒向こうから火の手があがっていた。中山の方へ避難するため大正橋まで来たら、そこには油が置いてあり、やけどをした人は油をぬって下さいといっていた。とにかく大勢の人がただ呆然としていた。家がこわれ道もない。助けてと言って泣いている人、我が幼子をしっかり抱いている人、その子は死んでいる。私はどうすることも出来ず、後ろ髪を引かれる思いでその場を遠ざかる。中山へ行く峠を小さい弟と妹の手を引いて歩く。どこをどう通ったか分からない。道端には真黒にふくれ上がり、座っている人、ぼろを下げているのかと思うと皮がたれ、裸である。あちこちに死体がころがっている。地獄模様である。
 途中、空襲警報があり、木のかげに避難した。姉は市役所へ勤務していた。その日、帰らず心配をした。身内も分からず、ヤケドをした人に「眠る家も食べるものもない。一夜を泊めてください」と言われ、バラックの中に三人泊めてあげた。
 名も知らない人達である。その夜は、まんじりともせず過ごし、夜があけると中山小学校にけがの治療に行った。そこにも大勢の人が黒く焼けただれ、「水がほしい、水がほしい」と言って死んでいかれた。ただ黒い物体が横たわっている様で何の感情もない気持ちであった。それから一週間位して、家の焼跡に行った。乗物もなく、歩いて暑い太陽が照りつける日中、大畑町まで父と行った。広島の街は皆焼かれ、ただ中国新聞社、福屋といった高いビルのみが見渡された。焼け残った木々が何かを言いたげにニ、三本ぽつんと残っていた。広島にはもう住めないと皆言っていた。その頃、誰が言ったのか「ピカドン」と言っていた。原子爆弾という言葉は分からず、そんな恐ろしいものとも知らず、裏の川には死体の山。水を求めて皮へ逃げて行かれたのであろう。言葉では言い表せない光景である。
 もう二度とこんな事はしてほしくない。未来の子ども、孫達には味あわせたくない。世界平和を願い、核実験のない平和な世界をつくってほしいと思う。

※本文と画は関係ありません。 画:沖田繁一氏 【横川橋,汐風呂,種・苗店】
 資料提供:沖田英雄氏



【Tさん】被爆・入市について

 終戦前、兄夫婦と三人で広島市観音町に住んでおりました。空襲警報があるたびに、両親が田舎へ帰れと言っておりましたが、広島でお裁縫をしておりましたので一日でも広島におりたくてがまんしておりました。
 昭和二十年四月に中電前に爆弾が投下され、余りにも大きな音が「ドーン」としましたので私はあわてて押入の中に入りました。防空壕へ入るひまもありませんでした。それから食料難になり、五月のはじめに山県郡本地の田舎へ帰り、家事の手伝いをしておりました。二十年の八月六日午前八時過ぎ、あの忘れることも出来ない原爆が投下され、田舎の方も「ピカッ」と光って、しばくして入道雲の様なものが空一杯になり、うすぐらくなりました。パラパラと雨が降りました。みんなが「広島は全滅だ」と言った。夕方頃に自動車で怪我人が田舎へ運ばれて来られました。「広島市はほとんど焼かれた」と言っておられました。私の家の兄夫婦と子ども三人を心配してもどうする事も出来ませんでした。広島へ行きたくても入市出来なくなり、家内中のものが案じつつ、電話もかける事も出来ず、広島へは全面的不通となりました。十日目にやっと私はリュックサックを背負って横川駅へつきました。


【Hさん】生きることのすばらしさ

 昭和二十年八月六日午前八時十五分。あの時私は打越町の親戚に疎開の荷物を預けていました。その中のお米に虫がわくので虫干しに行く支度をしていました。裏口を出ると「ピカッ」とマグネシウムをたいたような光に目をとじ、裏口に走って入ったまま気を失ってしまいました。ふと気が付くと大きな柱の下敷になって身動き一つ出来ない状態でした。
 呼べど叫べとシーンとして何一つ物音が聞こえません。体も自由に動かすことが出来ず、このまま死んでしまうのかと思うと、情けなく淋しく悲しく胸の張り裂ける気持ちで涙はとめどなくぽろぽろと頬に伝わり、体をもがくたびに柱が体を締め付けてきて苦しくなってきました。「もうこれで私は駄目だ。自分はこれで終わりだ」と思いこんで南無阿弥陀仏∞南無阿弥陀仏∞南無阿弥陀仏≠ニ三回自然に口から出ました。それから自分は観念したのか、心が落ち着いて「情けなく淋しく悲しく」もなくなりました。唯放心状態の様になって参りました。そのとき、私の伯母が、大声で「光ちゃん」「光ちゃん」と呼ぶ声が聞こえて来ました。私は大声で「此処、此処」と云うと伯母は通りかかった人に「ここに娘が一人下敷になっています。ちょっと手を貸して下さい」と言うと男の人は「人のことどころではない。早く逃げねば火が廻ってくる」と言っておられる声が聞こえてきます。けれど、伯母はその人の足を持って放しませんでした。では仕方がない、早くしょう、と言って大きな柱をのけて救ってくださいました。お礼を言おうと思いましたけど、その人の姿はもうありません。今にして思うと昔話の神様か仏様に出合ったような気がします。原爆というものは恐ろしいものです。でもつくづく思うのに、あの男の人が救って下さらなかったら、私の今の幸せはなかったのにと思うと生きておられたら一度会ってお礼が言いたい気持ちでいっぱいです。救われて母の里、古江に行く途中黒い雨が降る中を歩いて里まで行きました。そこは親戚で四、五人ヤケドをした人が来ておられました。
 私は知人を探しに八月七日から市内を二日ほど歩きました。天満川は死体で川は埋もれるほどです。仰向けになった人、伏せっている人、水がほしくて階段を後一段のところで事切れている人、鉄管の所の水を飲みに行って鉄管にすがって死んでいる人、体が焼けて真赤に腫れて死んでいる人、正に広島は地獄と化しておりました。
原爆直後は、行く所のない人は道路にテントを張り避難しておられましたが、母親の死体にすがりつき乳房を求めて泣いている乳児を見て胸がつまり涙がとめどなく流れて来ました。焼跡には、まだ煙がもうもうと立ち燃えておりました。
 口ではあらわすことの出来ない悲惨な光景でした。建物疎開で多くの人や学生達が死なれ、原爆のため、不幸になられた人が沢山おられますが、生き残られた方々は強く生き抜いて下さい。そして二度とこんな恐ろしいことがおこらない様、世界が平和になるよう皆で努力いたしましょう。私も生き残った一人として精一杯強く明るく残り少ない人生を生きぬこうと思っております。毎年八月六日の日には原爆で死なれた人のご冥福を祈り続けております。
何回も申し上げますが、こんな悲惨な事を二度と繰り返さないようみんなで努力いたしましょう。

※本文と画は関係ありません。 画:沖田繁一氏 【横川踏み切り北側,旧国道,石佛薬局,大きな椋の木】
 資料提供:沖田英雄氏



※以上、『被爆体験記 総編集 水水』より


【Kさん】

昭和二十年八月六日午前八時十五分。
広島市に原子爆弾が投下された。この九月、ミズリー艦上で全権重光葵氏が降伏文書に調印した。
新庄の森は、樹齢四百年を超えるという「夫婦楠」が昭和二十九年四月、県の天然記念物に指定された。農家は田んぼのほかにモウソウ竹のヤブを持っていた。大芝の自宅は爆心地から二、五キロのところにあった。四月六日の盟夜、疎開先の三次市から帰るとき、陸軍兵隊が「気をつけて帰りなさい」と言ってくれた。
家は天井・壁・窓も吹き飛ばされていて、蚊帳の中に家族が住んでいた。ローソクの明かりで床の柱に大小のガラスがつきささっていた。
父は頭に包帯をまいていた。母はやけどをしていた。弟は小指が曲がっていた。
近くの竹やぶに大勢の被災者が住んでいた。全裸の背中の皮膚がむげて血だらけになっていた。
女性の髪の毛がはがれた人をよく見かけた。両手がストッキングのようにぶら下がっていた。
姉が八丁堀にある会社に勤めていたが帰宅しないので、母と何日もかけて探しに行ったが見つからなかった。会社の下敷きになって焼死したのである。
似島に収容されていた近所の男性が大八車に乗せられて帰ったのを見ると、耳の中にうじが見えた。
母は自分の衣服を持って行って能美島や江田島にいもなどに換えて帰ってくれた。
昭和四十三年にゴーカートの交通公園が完成した。この公園の前は、被災者のバラック建ての家がたくさんあり、広島県自動車試験場があった。
 太田川の大洪水が再々起こり、大芝地区は老化まで水浸しになり、水害を防ぐために昭和九年に改修工事の起工式が行われ、大芝水門と祇園水門が完成した。洪水はなくなった。
 

 

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―  昭和20年ころの様子 ―

【Kさん】
大芝国民学校のシンボルは、校庭にある柳の木でした。  
昭和二十年四月、三次市へ集団疎開することがきまったとき、父が宮島へ連れて行って写真を撮ってくれました。  
原爆が投下された翌日、疎開先の三次市から夜遅く広島駅に着きました。地下道には傷ややけどを負った人たちがむしろをかむり、うめき声をあげていました。こんな光景を目の当たりに見た衝撃は今でも忘れることはできません。落ちかかった橋を渡りやっと家に帰りました。 壁や窓のほとんどが吹きとばされていました。父母はやけどや傷を負っていました。姉は原爆当日、八丁堀付近の会社へ勤めていましたが帰ってきませんでした。母と何日もかけて探しに行きましたが見つかりませんでした。  大芝小学校は爆心地から約二・四キロの所にあります。二階建ての校舎はメチャクチャに大破していました。避難場所になっており数百人の人たちが救護や医療を受けていました。  数日後、朝礼のとき、校長先生が「原爆投下の日、運動場で遊んでいた児童がたくさん負傷した」と話されました。授業を受ける状態ではありませんでした。  十月ごろになって、運動場に机や椅子を並べて勉強するようになりました。いわゆる青空教室で、しかも二部制(午前と午後)でありました。教科書も学用品もあまりなく、グループで一冊の教科書を見ながら勉強しました。  比治山にあったABCのジープが、学校へ来て、数人の児童を連れて行って様々な検査をしていました。 その後校舎もできて教室で勉強することになりました。  新庄の神社や、大芝の土手を走り回って遊んだり、太田川で泳いだりしました。はぜなどの魚釣りもして楽しんでいました。


※写真:宮島にて。Kさん提供。


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