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特別掲載「美味しいバウムクーヘンの作り方」
平成24(2012)年4月、似島臨海少年自然の家にお菓子作りで有名なJUCHHEIM(ユーハイム)からMeister(マイスター)の方が、
来られ、似島臨海少年自然の家で、実際にバウムクーヘンを生地作りから焼き上げまでを行われました。
Meister(マイスター)が作るバウムクーヘンは、似島臨海少年自然の家での作り方と、若干異なり、細部にわたるまで、伝統の技術
が活かされています。
その、素晴らしい技とともに、美味しいバウムクーヘンの作り方を教えてくださいました。
☆ 『Meister(マイスター)』とは ☆
ドイツではマイスター制度というものがあります。。
『その道のプロ』として職人(ゲゼレ)の資格を取得し、さらにその分野で十分な経験を積み、一流の技術を磨くことはもちろん、
一方では『その道の後身の指導』を行います。
これは今を遡ること、まだヨーロッパが十字軍遠征を行っている頃、早くも11世紀後半から続いている伝統なのです。
JUCHHEIM(ユーハイム)と似島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
広島市の似島臨海少年自然の家では、バウムクーヘンづくりを平和学習の一環として行ってきました。 似島とバウムクーヘンの関係を知る人は意外に少ないようです。 昔、ドイツの租借地だった中国のチンタオ(青島)で、カール・ユーハイムはドイツ人相手にケーキを焼いていました。 第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本は、チンタオ(青島)を1914(大正3)年11月に陥落させます。 当時、結婚したばかりのカール・ユーハイム(妻:エリーゼ)多くの俘虜(捕虜)と一緒に日本へ連行されました。 1917(大正6)年2月、大阪の収容所の閉鎖に伴って、カール・ユーハイムは似島に移されます。 似島には、検疫所があり第二検疫所(現:自然の家)の一部が俘虜(捕虜)収容所として指定されました。 開設当初の似島の俘虜(捕虜)収容所の人数は、五百四十名あまりで、広さは一万六千平方メートルほどでした。 俘虜(捕虜)というと、拷問などを連想される人も多いですが、当時の日本は国際条約にのっとり、俘虜(捕虜)の扱いは、 比較的寛大だったようです。実際、給金があったり、演劇、音楽、新聞の発行、パン作り等が行われました。 1918(大正7)年11月、ドイツ軍が降伏したことにより、カール・ユーハイムたちは一層の自由が与えられました。 1919(大正8)年1月には、捕虜チームと広島高等師範の学生とのサッカー試合も行われました。 そのような中で、ユーハイムはバウムクーヘンを焼いていたのですが、ユーハイムが特に活躍したのが、 1919(大正8)年3月4日から広島県物産陳列館(現:原爆ドーム)での独人俘虜製作品展覧会でした。 初日の入場者数は7,395人を数え、その後も押すな押すなの大盛況が続いたそうです。 当時の書物によると、工芸品、絵画、サンドウィッチやコーヒーなどという、当時としては、まだ珍しいものが並び、 多くの市民をヨーロッパに行った気分にさせてくれたそうです。 中でも、菓子は、初日だけで百五十円を売り上げ、一番の人気商品でした。 当時の様子を中国新聞では、「その売り場の前は、場内一の雑踏で三人の捕虜の係員は目の回る忙しさ。しかも写真班 を連れて行くと『ここ撮してください』と…」と紹介されています。 カール・ユーハイムが作ったバウムクーヘンが最初に出会った出来事とされています。 ※ 1919(大正8)年3月4日に日本人が初めてバウムクーヘンを味わったので、3月4日は「バウムクーヘンの日」と 呼ばれています。現在JUCHHEIM GROUPでは3月4日にイベントが行われています。 |
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似島陸軍第二検疫(消毒)所に併設された、ドイツ人俘虜(捕虜)収容所については、 上記リンクからご覧ください。 |
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美味しいバウムクーヘンの作り方 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
1 材 料(8人分)
2 用 具(1グループ)
3 生地のつくりかた |
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「美味しいバウムクーヘンの作り方」レシピ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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