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陸軍検疫所(第一検疫所・第二検疫所・馬匹検疫所)






















広島市似島臨海少年自然の家は、戦前「陸軍第二検疫所」が設けられ多くの帰還兵達がこの島で検疫をうけました。
ここでは、検疫所について紹介していきます。

 
プロローグ…
 宇品港は、明治28(1890)年、その時の広島県令(今の県知事)の計画によって造られました。
 広島の産業を発展させるためには、よい港がなくてはということで始められました。
 しかし、工事費が不足したり、漁民の反対により、5年2ヶ月をかけてようやく完成しました。
 その宇品港が活気づいたのは、日清戦争が始まってからでした。
 明治27(1894)年、日本は朝鮮を戦場にして清国と戦争が始めました。
 戦争に勝つためには物資の輸送がかかせません。
 そのころ、東京からの鉄道は東海道線から山陽本線につながり、6月に広島まで開通したばかりでした。
 そこで、広島駅から宇品港まで5.9kmの軍用鉄道が急遽つくられました。
 宇品港から物資や兵を送り出すためです。
 明治27(1894)年6月9日、広島にいた第五師団臨時混成旅団のたくさんの兵士が朝鮮半島を目指して、宇品港から送り出されました。
 8月5日、第五師団師団長が専用船で宇品港を出発したのをはじめ、明治27(1894)年18日には同じ師団の全部が広島から戦地に赴きました。
 続いて、開通したばかりの山陽鉄道を利用して第三師団、第一師団、第二師団、第四師団、近衛師団が広島に来ては、
 次々と宇品港から出発しました。
 当時、広島港は日清戦争をすすめるためには、なくてはならない港になっていました。
 「空も港も晴れて月に数ます舟のかげ、はしけの通いにぎやかに…」
 という「港」の歌は戦場へ兵士や軍事物資の輸送でにぎわう宇品港の様子を歌った歌だといわれています。
 この戦争のために、東京に大本営(戦争の命令を出す中心機関)が設けられました。
 しかし、戦争が激しくなると、明治27(1894)年9月15日には旧広島城内の第五師団司令部に大本営が移されました。
 この日から、明治28(1895)年4月27日まで、当時、軍隊の最高責任者であった天皇も、広島で陸海軍の指揮をとりました。
 10月には西練兵場(現在の紙屋町あたり)に突貫工事で木造の仮国会議事堂が建てられ、明治28(1895)年4月27日10月18日〜21日まで
 臨時帝国会議が開かれます。
 広島は戦争により、まさに臨時の首都となります。
 この戦争をきっかけとして、広島は軍都としての道を歩んでいくことになります。。


参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
情報提供:宮崎佳都夫 様
参考情報:広島市似島公民館
参考資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
参考資料:明治三十七八年戦役検疫所
参考資料:官報(国立国会図書館)
参考資料:「品川リフラクトリーズ株式会社


【このページの内容】
 1 検疫所の場所(似島)
 2 陸軍検疫所(けんえきしょ)とは
 3 似島の3カ所の検疫所
  【第一検疫所】(現 似島学園)…1895年(明治28年)開設
  【第二検疫所】(現 自然の家・平和養老館)…1905年(明治38年)開設
   第二検疫所の変遷
  【馬匹(ばひつ)検疫所】(現 似島小・中学校)…1940年(昭和15年)開設

 検疫所の場所(似島)
 
 
資料:広島市似島公民館
 →  
資料:広島市似島公民館

 似島には、戦時中3つの検疫所が設けられました。

 【第一検疫所】(現 似島学園)…明治28(1895)年開設

 【第二検疫所】(現 似島臨海少年自然の家・平和養老館)…明治38(1905)年開設

 【馬匹(ばひつ)検疫所】(現 似島小・中学校)…昭和15(1940)年開設


 「第一検疫所」と「第二検疫所」は帰還兵の検疫を行いました。
 「馬匹検疫所」では、軍馬の検疫が行われました。

 
第一検疫所
(だいいちけんえきしょ)
第二検疫所
(だいにけんえきしょ)
馬匹検疫所
(ばひつけんえきしょ)
1895年 臨時陸軍似島消毒所開所         
移管、陸軍第5師団似島検疫所
1897年 海軍に移管、海軍呉鎮守府似島消毒所
1904年 陸軍に移管、陸軍第5師団似島検疫所
1905年 陸軍第5師団似島検疫所第一 陸軍第二消毒所開所
1905年 露西亜俘虜収容所併設  
1906年 移管、陸軍運輸部似島検疫所第一/第二消毒所
1910年 海軍に移管、呉海軍病院似島消毒所 陸軍運輸部似島検疫所
1917年 似島俘虜収容所併設
1920年 似島俘虜収容所閉所
1923年 閉鎖、倉庫に 陸軍似島検疫所
1940年 -- 陸軍似島検疫所 陸軍馬匹検疫所開所 
1945年 広島市への原子爆弾投下
1946年 似島学園開校 移管、厚生省似島検疫所 閉鎖
1949年 似島学園 厚生省似島検疫所 広島市立似島小/似島中学校開校
1958年 似島学園 閉鎖 似島小/似島中
1965年 似島学園 平和養老館開館 似島小/似島中 
1984年 似島学園 広島市似島臨海少年自然の家開設 似島小/似島中
 

 
  期 間    船舶数(隻)  人数(人) 
   日清戦争 1895年6月1日〜1896年1月11日   441 96,168 
  日露戦争  1904年1月1日〜1906年6月14日   1,753 663,443 
  第一次世界大戦  1914年12月2日〜1915年1月1日   95 45,564 
  シベリア出兵  1918年11月10日〜1922年10月29日  296  152,188 
  第一次山東出兵  1927年9月   -  約7,000
  第二次山東出兵  1928年7月19日〜1929年5月13日  44   27,947
 


 陸軍検疫所(けんえきしょ)とは

 大日本帝国陸軍の機関の一つです。

戦地から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の検疫所の一つとして、広島湾に浮かぶ似島(当時は広島県安芸郡仁保島村、現在は広島市南区似島町)に設置されました。

 似島の他には
彦島(下関)・桜島(大阪)に検疫所が設けられました。

 似島の検疫所は後藤新平(臨時陸軍検疫部事務官長)の指揮のもと2ヵ月弱の突貫工事で建設されました。
 (明治28(1895)年4月4日〜5月31日の期間 6月1日開設)

 当時最新の設備のもと、広島市の調査では
同年10月末までに船舶2,629隻、人員1,000,000余におよぶ検疫が行われたと言われています。

 開所直後には
北里柴三郎が新しい機器(蒸気式消毒罐)の実験のために訪れました。

 1905年(明治38年)1月には第二検疫所が設けられ、明治39(1906)年に陸軍運輸部の管轄になりました。


 似島の3カ所の検疫所

   【第一検疫所】(現 似島学園)…明治28(1895)年開設   

日清戦争開始により朝鮮半島からの帰還兵が持ち込む病原菌を防ぐために、明治28(1895)年に似島に検疫所が設置されました。
正規式名称は、『似島検疫所第一消毒所』です。

 日清戦争時、戦地から帰還した労働者が発生源とみられるコレラ病が広島市で流行しました。例えば明治27(1894)年には赤痢、明治28(1895)年にはコレラが大流行しました。
 陸軍では、戦場から帰還した兵士たちが海外から伝染病を持ち込まないように、軍港(宇品港)に検疫消毒所をつくることにしました。
しかし、それでは兵士が帰還するまでに、宇品に検疫所を開設するのが間に合わないことが判明します。

 そこで、明治28(1895)4月1日、勅令第33号"臨時陸軍検疫部官制"公布、似島の字長谷に臨時陸軍似島検疫所として開設が決定されました

 後藤新平
臨時陸軍検疫部事務局長の指揮のもと彦島検疫所(下関市彦島)・桜島検疫所(大阪市桜島)とともに整備され、僅か2ヶ月という短期間で総建坪22,660坪、401塔の検疫所を見事に完成させました。

 後藤新平は検疫所建設の前後四ヶ月は、朝七時から晩九時まで椅子に腰を下ろした事はなかったそうです。

 明治28(1895)年5月30日完成しました。
 突貫工事のため、現在の似島学園北側にある、当時の焼却炉の煉瓦の煙突は、上部の部分になるほど積み上げが雑になっており、急いで設置されたことがよくわかります。

 明治28(1895)年6月1日開所し検疫業務が始まります。
 開所直後である明治28(1895)年年6月7日には北里柴三郎博士が、当時新型の
『熱気消毒用機器』である蒸気式消毒罐の実験のために訪れています

 開設当時の検疫所には、事務官100人余、派遣の軍隊員150人、労働者180人が配置されます。

 同
敷地内に付属の避病院(伝染病隔離施設)も設けられました
 広島市内には分院もつくられ、その中の一つである似島避病院舟入分院はのち市に払い下げられ、現在は
広島市立舟入市民病院になっています。

 なお、日清戦争後の検疫では消毒した艦船は687隻、総人員23万人強(232,346人)、その中コレラ患者総数1,500人に達しました。
これについて、当時のドイツの皇帝(Wilhelm II)は、

「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島(ニノシマ)の検疫所には負けた」

 と驚いたそうです。

 その後後藤新平はこの事業の成功で内外から絶賛され、再び内務省衛生局長に就任しました。

 この検疫所での事業は大規模なもので、似島検疫所は当時世界最大級のものでした。

 検疫所という特殊性があるため、検疫所職員の中で53人も病気感染による死者がでていて、その慰霊碑は広島市内東区
「饒津神社」境内にあります

饒津神社




 陸軍検疫部職員死者追悼ノ碑
(りくぐんけんえきぶしょくいんついとうのひ)
饒津神社〉(にぎつじんじゃ)

【碑の表】 
遠征ノ師アレハ惡疫ノ之ニ随フコトハ古今の戰史ニ徴シテ
明カナリ故に師ノ將ニ凱旋セントスルニ先タチ
檢疫部ヲ設ケ以テ惨毒ヲ豫防スルハ
軍國ノ一大要務トス尚モ然ラスンハ
縦令捷ヲ外ニ制スルモ病ニ内ニ勝ツコトハ
能ハスシテ或ハ病死者ヲシテ戰死者ノ數ヨリモ多カラシムルニ至ル
台察セサル可ケンヤ明治二十七八年戰役ノ終リニ於テ
我陸軍ハ豫メ臨時檢疫部ヲ組織シ似島彦島櫻島ニ檢疫所ヲ
行ハシメタリキ其數船舶六百八十七隻
人員二十三萬二千三百四十六名
物品九十三万二千六百七十二點
ノ多キ上レリ是ニ於テ我軍國檢疫ヲ達シ
全局ノ大功ヲ収メタリ寔ニ萬古未曾有ノ盛事ト云フヘシ
鳴呼檢疫に從軍スルノ諸氏ハ一身ヲ以テ犠牲ニ供シ
一百餘日ノ久シキ毫モ倦怠ノ色ナク遂ニ惡疫ヲシテ豫期ノ如ク
甚シキニ至ラシメスヘシテ止ム其功實ニ偉大ナリトス
就中陸軍歩兵少尉広田伸頼君以下五十有三名ノ如キハ
檢疫中病毒ニ感染シ以テ其命ヲ殞セリ洵ニ其功績ハ陸軍檢疫部ノ
偉業ト共ニ湮滅ス可ラサルナリ
乃ナ同志ノ賛助ヲ得テ之ヲ石に勒シ以て後世ニ傳フコト云爾

明治二十八年十月三十一日

臨時陸軍檢疫部長 陸軍少將 
正四位勲二等功三級 男爵
兒玉源太郎識

【碑の裏】
檢疫ニ從事病歿セル諸君ノ官職併ニ人名
彦島臨時陸軍檢疫所
櫻島臨時陸軍檢疫所
陸軍歩兵少尉 広田伸頼 陸軍歩兵二等卒 太田熊吉外一名
  陸軍歩兵一等軍曹 吉竹吉次外三名
陸軍看病人 横山力衞外一名
陸軍看病人 野崎賢二郎外一名
常用人夫 中牟田福松外一名

似島臨時陸軍檢疫所 
陸軍歩兵一等卒 中川圭次郎外十二名
陸軍看病人 神崎寅吉外二名
臨時傭 平山茂樹 
小船長 中井楠亀外一名
 人夫 藤江松太郎外七名
舸子 神谷藤吉
常用人夫 小原宇吉外十一名


 当時流行していたのが、チフス、やコレラであり、対策を様々行うことで、流行を過ぎた明治28(1895)年9月ごろにはコレラ患者は減少しました

 多くの兵士の検疫を成功させた
後藤新平は検疫部長である児玉源太郎陸軍次官から評価され、その後第4代台湾総督に就任した児玉源太郎陸軍次官によって民政局長に抜擢されます。

 明治27(1904)年年、ロシア帝国と日露戦争を始めると、戦場からもどってくる兵士の数が約10倍になりました。
 もともとその場所は似島の島民の畑でした。その土地を軍が命令を出し、取り上げました。
 同時に、後の馬匹検疫所の前身となる馬の検疫所(これも馬匹検疫所)を設け、馬の検疫も始まります。
 馬も兵士とともに戦場に送られていたので、帰還する馬も多かったためです。

 明治38(1905)年1月には日露戦争でロシア人捕虜数千人を入れるために、陸軍似島第二検疫所(第二消毒所)が開設すると、陸軍第一検疫所は、ロシア人捕虜を収容する
「露西亜俘虜収容所」が併設され、最大2,391人収容していました。捕虜は全員、捕虜として管理されていましたが、非戦闘員も含まれていたようです。
 次々と送られてくるロシア人捕虜は似島で検疫を済ませてから、松山、福知山、姫路、大阪、名古屋などの収容所に送られていきました。
収容所が始まってから1月19日までの8日間に17,015人がここで検疫を受けました。

 明治43(1910)年、第一検疫所の大部分を海軍に移管され、第一検疫所は海軍が管理し、第二を陸軍が管理することになります。
そして、第一検疫所は
「呉海軍病院似島消毒所」として運用されることになります。

 第一検疫所は年月とともに老朽化が進み、大正12(1923)年海軍が管轄した消毒所は三ツ子島(呉海軍病院三ツ子島消毒所)に移設され、海軍消毒所は倉庫として用いられるようになります。

 大正3(1919)年、皆実町の陸軍弾薬庫出火事故が起き、広島市民をたいそう驚かせたそうです。
 そのため、
似島(第一検疫所)に弾薬庫が移されました。
 弾薬庫は土塁(どるい)で囲まれており、その土手の上には兵士が見張りをしていました。
 現在でも、それらの一部を似島学園の近くで確認することができます。
 1943年ごろから、私たちは学生のまま働きに出されました。
 1945年になるごろからは、お盆や正月休みもなく、毎日毎日休みなしのぶっ続けで働きました。
 こんな状態を「月月火水木金金」といっていましたが、私たちの生活はひどいものでした。
 私たち学生は金輪島の暁部隊の命令を受けて、広島湾のあちこちで、いろんな仕事をしていました。
 金輪島似島にはたくさんの洞穴が掘られており、たくさんの倉庫も並んでいました。
 岸辺には大小様々なクレーンがあり、時には朝から晩まで動いていました。
 陸揚げした品物を倉庫や洞穴に運び込むため、トロッコが使われ、レールがたくさん敷かれていました。
 山の上には高射砲陣地が造られており、一度グラマン機を打ち落としたのをみました。
 品物を運ぶ洞穴とは別に、空襲の時、人がかけこむための防空壕もたくさんつくられていました。
 私たちは戦闘帽をかぶり、軍隊の服、皮の編み上げ靴をはいて、巻き脚絆をひざまでまき、ちょうど軍人と同じような
 服装をして作業をしました。
 雨が降っても、雪が降っても傘をさすことなく、カッパを着て働き続けたのです。
 仕事は、船から品物を陸に揚げ、洞穴や倉庫に入れたり、反対に船に積み込む。
 また、品物を数える等で、
金輪島から似島へ、また鯛尾へ、その反対にといった運ぶ作業が中心でした。
 品物はまず、ドラム缶、弾丸(砲弾・高射砲弾・機関銃弾・小銃弾)・巻いた太いロープ、帆布、衣類、
 部品の入った木箱など様々なものでした。
 これらのものを、数人のグループごとに与えられていた船で、私たち自身が運転して運んだのです。
 時にはエンジンが途中で止まり、油まみれで調べても、どうしても動きません。
 そのまま、瀬戸内海を漂流したこともありました。
 一番苦しい作業は、船からドラム缶を降ろし、洞穴の中に積み上げる仕事でした。
 誰かが手を離すと、私たちの方に転がってきて命を落としてしまいます。
 必死の仕事でくたくたになりました。
 また、一番危険な作業は、
似島金輪島につくられた弾薬庫に大砲や高射砲の弾を運ぶときでした。
 トロッコの運転は、ちょっとした油断も許されません。
 坂道もありましたので、ぶつけたり、落としたりしたら弾が爆発して、私たちは木っ端みじんになります。
 また、トロッコから一つ一つ降ろして、洞穴や弾薬庫へ収めていく場合も、まさに真剣勝負でした。
 うっかりすると爆発するからです。
 機械などの大きい荷物が宇品線や大きい船から降ろされ、それを運ぶときなどは、二つの小舟を結びつけた船の上にのせ、
 前を引っ張って運んでいました。
 このように、
金輪島似島をはじめ、宇品の沖合一帯は、陸軍船舶司令部を中心として大切な軍の物資が洞穴や弾薬庫、
 及び倉庫などに収められ、必要に応じて積み出されていく秘密の基地であり、その仕事を、私たち師範学校の学生が、
 軍隊と一緒に受け持っていたのです。
 学徒動員は、このあたりでは私たちだけでなく、女専の生徒や、県立の女学生が、事務の仕事やミシンの
 仕事などをするため、動員されました。
 宇品沖の基地は、戦争もおわりごとの1945年になる空襲を免れることはできず、何回か空母から
 飛び立った飛行機が襲いかかるという空襲を受けました。
 金輪島あたりはとくにやられました。
 私たちも飛行機の機関銃で狙い撃ちされ、死ぬ思いをしたことがあります。
 金輪島には、潜水艦・戦艦、鯛尾にの北側には航空母艦がとまり、ドック入りすることもありました。
 また、
鯛尾にはマルレと呼ばれた訓練基地もあったようで、ベニヤ板で作った小さな船がすごいスピードで走っていました。
 この船は、特攻隊員(大学生がほとんど)が一人乗り込み、250kgの爆雷をかかえたまま、
 敵戦艦に体当たりするということでした。
 その後、空襲を受けたとき、だんだんと味方の高射砲は撃たれなくなり、湾内の戦艦も空母も急いで動くことなく、
 無残にも次々と攻撃を受けては横に倒れて沈んでいきました。
 そういった海の状況を見るようになった8月6日、午前8時ごろ、師範学校から
金輪島についた私たちは、
 上陸して休憩をしていましたが、8時15分、広島は原爆を受けたのです。
 学生の控え室の窓枠は吹っ飛び、柱は"くの字”になりました。
 広場に飛び出した私たちは、広島の上空にさまざまの色に変色する巨大な雲をみたのです。
 
似島では、重傷の被爆者が、ドッと送り込まれ、そこにいた検疫所の医者や衛生兵、兵士たちが中心になって、
 全力で治療にあたったと言われています。
 このとき似島で多くの被爆者の救護にあたられ、治療活動に従事されたのが、病院船衛生兵第53班の兵隊たちでした。

 
   


 戦後、似島学園となり、戦災児教育所として昭和21年に開設されました。



 明治28(1895)年
 陸軍第一検疫所として建設

 明治38(1905)年に捕虜収容所が併設


  後に現在の似島学園が跡地に建てられる。



第一検疫所(現 似島学園写真は似島学園

 戦後の昭和21年(1946年)に戦災孤児、原爆孤児の施設として開設され、その後、広島市立似島学園小・中学校、幼稚園、高等養護部などが設置された。

似島第一消毒所(第一検疫所) 全景

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図
似島第一消毒所(第一検疫所) 施設内
 
資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図

 似島第一消毒所(第一検疫所) 施設図

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図
 似島第一消毒所(第一検疫所) 施設図 

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図

 似島第一消毒所に於ける被検疫人員の未消毒桟橋上陸 似島第一消毒所 消毒機 
似島第一消毒所 薬物消毒所 

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図


 資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図

 陸軍似島検疫所第一消毒所の閉鎖を伝える告示

陸軍省告示第三十号

本年陸軍省告示第二十五号を以て開設したる似島及び大里倫治陸軍検疫部本部出張所は本年十月三十一日限り閉鎖す

明治三十七年十月三十一日

陸軍大臣 寺内正毅


資料:官報(国立国会図書館)
 


焼却炉跡(現:似島学園北端)

 似島学園北西端近くの海岸に残っている「赤レンガの煙突」は、検疫所の感染物・汚染物の焼却場の一部と考えられる。
(ドイツ人捕虜が亡くなったときに、火葬場として使用されたとも伝えられる)


軍用水道跡(現:似島学園北端)

第一検疫所の建設と同時に、検疫業務用の水を確保するため、山水を貯めておく「軍用水道」が造られた。現在も、似島学園がシイタケを栽培している山手にあり、今でも山水が流れ込んでいる。


第一検疫所桟橋跡(軍用桟橋)

 検疫所時代は、帰還兵の出入りの桟橋として使用されていたが、後は、軍用桟橋として使用された。桟橋から倉庫群を通り、南側の弾薬庫までトロッコのレールが敷かれ、弾薬、その他の荷物の運搬に使用していた。西側の桟橋は重火器の荷揚げに、東側の桟橋は軽火薬の荷揚げに使用していた。

後藤新平の像

似島第一検疫所の創設のために尽力した人物で、彼の前半生は、内務官僚として検疫行政に、後半生は、台湾民生長官、満州鉄道初代の総裁、内務大臣として活躍した。

通路用トンネル(現:似島学園)

明治38年(1905年)に、第一検疫所が改修され、捕虜収容所となり、その後、倉庫や弾薬庫として使用された。そのような施設を行き来するために、写真のような通路用のトンネルが何か所もあった。現在は、似島学園の貯油庫として使用されている。
   弾薬庫の周囲を囲っていた土塁への階段

 第一検疫所の一部は太平洋戦争末期には、陸軍の弾薬庫になりました。
弾薬庫は老朽化により取り壊されましたが、現在でも弾薬庫を取り囲んでいた土塁と土塁の上に上るための階段は残っています。
   歩哨所

 監視のために、兵士が見張りをしていた歩哨所(ほしょうしょ)。
 3カ所残っています。


   【第二検疫所】(現 自然の家・平和養老館)…明治38(1905)開設   

   
  似島(明治43年)  


 明治37年(1904年)
に、2つ目となる「第二検疫所」が造られました。
 日露戦争の開戦で、より多くの帰還兵の検疫が必要になりました。
 第二検疫所ではフォルマリンによる薬品消毒と蒸汽による蒸気消毒が行われました。
 薬品消毒は2基、蒸気消毒は2基を備えていました。

 
薬品消毒(フォルマリン消毒)

@ 可消毒物件の搬入搬出に要する時間 4分
 A 所定温度に達する時間 13分43秒
 B フォルマリン噴入に要する時間 1分
 C 消毒時間 10分
 D 安母尼亜(アンモニア)噴入に要する時間 40秒
  
※ フォルマリンとはホルムアルデヒド水溶液のことです。
フォルマリンの中和剤としてアンモニアが使用されました。
    ホルムアルデヒド水溶液+アンモニア→ヘキサミン(ヘキサメチレンテトラミン)になります。
    ヘキサミンは膀胱炎等の治療薬にも使われている物質です。


総時間で29分23秒。

24時間の消毒回数は49回。
60人分/回
5,880人/24h(日)

毛布及び外套は…
156枚/回
15,288枚/2基・24h(日)

の能力がありました。

 
     
 

蒸気消毒

蒸汽消毒は、多少の差はあるものの、基本的には『似島第一検疫所』と同じ仕組みのものが使われました。

1回の消毒に要する平均時間(初回の暖気30分を除く)
@ 蒸籠(消毒物の入った籠)の挿入及び取り出し 1分30秒
A 消毒腔蒸汽挿入十磅(10ポンド)に到達する時間 2分50秒
B 同、上蒸汽零磅(0ポンド)に降下する時間 1分43秒

総時間で15分

常用被服 60人/回
絨外套 80枚/回
毛布 75枚/回
絨衣袴 150枚/回

の能力がありました。

 

 第一次世界大戦勃発以降、俘虜収容所は全国各地につくられました。、それら収容所は
似島俘虜収容所(広島)・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)と最終的に6つに統合されます。

 中でも似島の収容所は板東収容所とともに最終的に整備された俘虜収容所であり、唯一島に作られた収容所になりました。

 大正6(1917)年には第一次世界大戦によるドイツ人
捕虜545人が大阪から移送されました。
このドイツ人捕虜の中には菓子職人の
カール・ユーハイムがいました。カール・ユーハイムは似島検疫所内で、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げました。

 昭和5(1930)年から始まった日本と中国との戦争、これにつづく日本と世界との戦争の間も第二検疫所は利用されてきました。

 太平洋戦争が始まり、帰還する兵士も減り、爆弾を積んだアメリカ軍機が瀬戸内海に爆雷を投下したため、舟の往来もできず、検疫所は開店休業状態になります。
このころの第二検疫所内で陸軍船舶防疫班が4つつくられました。そのうちの3つの班は外国にでて、1つの班だけが第二検疫所内に留まっている状態になりました。また、病院船部隊も乗る船がなく病院船衛生第53班の兵士たちは、船舶衛生兵とともに似島の検疫所で働きました



 昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、広島市へ原子爆弾投下が投下されました。

 似島は 爆心地から海を隔てて約8kmという比較的近い地点に位置します。この際、第二検疫所は被爆者救護のために重要な役割を果たしました。第二検疫所の被害はほとんどありませんでした。
 第二検疫所には
薬品類や医療器具の備蓄が約5,000人分あったことから、市内から船で被爆者が次々と運ばれました
 広島市内中心部の病院や救護所がほぼ壊滅し残ったものも多数の被爆者が訪れた原因の一つとなりました。
 予定500人の収容予定が、予定を越える被爆者に第二検疫所は麻痺状態となりました。
 また、広島市は太田川水系の三角州に形成された街で、広島市中心部へは船で遡って行くことが出来たことから、ここに駐屯していた暁部隊は船で救護に向かいそのままここまで運び込んだといういきさつもあります
 倉庫として用いられていた第一検疫所には被爆者は運ばれず、第二検疫所に運ばれました

 昭和20(1945)年8月6日午前10時ごろ、被爆者の第一陣が検疫所に到着しました。その後も受け入れが続き、薬もすぐ底をつき、夜には島内施設ではパンクする状況となり別の収容所への移送も行われました
 第二検疫所に運ばれた負傷者は
被爆後20日間で10,000人に及んだといわれています
 船で運ばれる途中でなくなった被爆者や第二検疫所でなくなった者、更に宇品や金輪島・己斐の町などからも運び込まれたことから、死体が溢れかえり、当初は火葬されていましたが、それよりも死体が増え続けることから、第二検疫所周辺に掘られた
防空壕に入れ単純埋葬されました
 その後、遺体は
馬匹検疫所(現:似島中学校周辺)に火葬されることなくまとめて埋められました。
 身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に
千人塚が建立されました
 
8月12日ごろから負傷者は五日市町・廿日市町・宮島町・大竹町などの他の病院施設に移されていき8月25日には残った500人の負傷者も全て他へ転送され、救護所としての第二検疫所は閉鎖されました

 明治37(1904)年  検疫所開設
 大正6(1917)年  ドイツ捕虜収容所開設
 昭和20(1945)年  被爆者のために検疫所内に 臨時野戦病院開設
 昭和40(1965)年  平和養老館開設
 昭和59(1984)年 ) 似島臨海少年自然の家開設

 第二検疫所跡碑
 自然の家建設にあたって検疫所の遺構は姿を消し、跡碑が建立された。
 自然の家グラウンド隅、昭和61(1986))年3月。

 
 陸軍似島検疫所第二消毒所(第二検疫所)の変遷
 明治28(1895)年ごろの
陸軍似島消毒所第二検疫所
(第二検疫所)

※ 桟橋が2本(第二桟橋、第三桟橋)しかないことがわかる。
(当時は現在の第一桟橋がない)

日清戦争時に使用された、陸軍似島検疫所第一消毒所は、ロシア人の俘虜(捕虜)収容所になり、かわって日露戦争に出兵した兵士たちの検疫の場として設けられた。


この、施設図は「明治三十七八年戦役検疫誌」をもとに、再現したものである。

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図
 大正6(1917)年2月19日〜大正9(1920)年4月1日までは、ドイツ人俘虜(捕虜)収容所と陸軍似島検疫所第二消毒所は併設されていた。

施設図中央の紫の破線で囲った部分がドイツ人俘虜(捕虜)収容所箇所。

第一次世界大戦時、日本軍が青島侵攻時に陥落させたドイツの租借地に住む、19歳〜49歳までの男性を俘虜(捕虜)として連行した。
大阪収容所の閉鎖にともない、職員を含めドイツ人俘虜(捕虜)を陸軍似島検疫所第二消毒所内にドイツ人俘虜(捕虜)収容所を設け、約500人に及ぶ俘虜を収容した。
俘虜(捕虜)には、カール・ユーハイム、フーゴーク・クライバー、ヘルマン・ウォルシュケ等、日本と関わりを深く持つドイツ人たちが収容されていた。
 中国経済局所有の施設図をもとに再現した、陸軍運輸部似島消毒所(第二検疫所)。

昭和10(1935)年ごろの施設図と思われる。

※ 資料の劣化により、読み取れない箇所あり。
 昭和32(1899)年中国財務局実測配置図をもとにして再現した似島陸軍第二検疫所の配置図。

 広島市似島臨海少年自然の家を開設するに当たり、昭和32年中国財務局実測配置図をもとにして、残した記録であると考えられる。

第二検疫所

 明治37(1904)年に、第二検疫所が開設された。
 日露戦争開戦と同時に開設された第二検疫所は、終戦まで利用された。

 太平洋戦争末期になると、帰還する兵士はほとんどなく、ほぼ休業状態にあったが、広島に原子爆弾が投下後、多くの被爆者が似島に渡ってきた。懸命の治療にかかわらず、多くの方がなくなられた。生きて帰ることのできた被爆者は三千人にも満たなかったという。


資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図


広島平和養老館

 第二検疫所の北側の一角に、昭和40(1965)年、原爆で家族や親戚を失って一人になった老人を養護する目的で広島平和養老館が作られた。平成7年には、特別養護老人ホームも併設され、現在に至っている。

原爆被爆者の診療の地」の碑

 この碑は、被爆当日、似島臨時野戦病院を開設し、被爆者の診療看護を中心に行った旧暁6165部隊の病院船衛生53班の皆さんが、被爆者のご冥福を祈って、自費で建てられた。


宇品駅プラットホーム敷石モニュメント
(平和養老館前)


 日清戦争の開戦直後(明治27(1894)年8月4日)に軍用宇品線が開通した。似島で検疫を受けた将兵達は宇品駅から全国各地の師団や連隊にもどっていった。
 検疫所などが設置されていた似島には陸軍施設が集積していた。これらの遺構は、近代日本の歴史を後世に伝えるものである。


第一桟橋



第二桟橋


第三桟橋
検疫所前の桟橋(平和養老館前)

 第1・第2桟橋は上陸専用の桟橋で、荷物の陸揚げ、大陸より帰国した将兵が上陸するための桟橋である。第3桟橋は検疫が済んだ将兵が本土に渡り、故郷へ帰っていくための桟橋である。現在は、桟橋跡の石積みが残っていてる。第二検疫所時代には、桟橋の先に筒状のフロートを設置した浮き桟橋があり、帰還した兵士たちは、小舟に乗り換え、浮き桟橋→未消毒桟橋(第1桟橋及び第2桟橋)→検疫所→既消毒桟橋→浮き桟橋→小舟という動線で移動していた。現在は、どの桟橋にも浮き桟橋もなく、代わりに筏を浮き桟橋として利用し、漁船などを係留している。

 第1桟橋は石を斜めに組む『谷積み』で積まれている。これは、昭和に入って新たに追加された桟橋である。第二検疫所の図面をみると、明治時代には第1桟橋の記載はなく、昭和の第二検疫所の図面には記載がある。
 第2桟橋、第3桟橋は石を水平に積む『平積み』で積まれている。明治、大正時代に多くみられた石積みであり、明治、大正時代までは第2桟橋と第3桟橋のみが第二検疫所で使用されていた。第2桟橋が上陸用の桟橋で「未消毒桟橋」という。復員用(帰還用)の第3桟橋は検疫後に使用された桟橋で「既消毒桟橋」という。
 現、広島市似島臨海少年自然の家を囲っている堀は、施設整備時に整備されたものと、明治、大正時代そのままの堀の部分が混在している。


似島陸軍検疫所跡の碑

 検疫所跡碑は、少年自然の家のグラウンドの一角にある。自然の家の建設にあたり、検疫所の遺跡を残してほしいと要望もあったが、遺跡は残らず、その代わりに跡碑がその証として残された。

 第二検疫所の井戸

この井戸は、明治37年(1904年)日露戦争の開始とともに建設された第二検疫所の重要な生活用水の水源として利用された。
 昭和20(1945)年の原爆投下時には、この井戸の水が、多くの被災者の救護に使われました。


 平成23(2011)年より、広島の平和記念式典で原爆慰霊碑にささげる「献水」に南区では初めて使われることになりました。
 
似島第二消毒所前面(明治38(1905)年ごろ)

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図
似島第二消毒所 薬物消毒所(明治38(1905)年ごろ) 

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図

 似島第二消毒所 全景002(明治38(1905)年ごろ)

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図
似島第二消毒所 点検所(明治38(1905)年ごろ) 

資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
御用船より似島検疫所に向かう凱旋部隊


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
上陸桟橋(未消毒桟橋)


 資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
凱旋部隊の税関検査

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
蒸気消毒所


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
衣類消毒機


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
入浴後の休憩
 

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
浴場


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
将校休憩所
 

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
銃の日光消毒(クレゾール消毒含む)


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
貴重品受渡所
 

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
付属病院


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
荷造りの実況


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
乗船前集合所


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
休憩中の光景
 

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
集合前の光景


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
集合命令
 

資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

 似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
出発前の光景


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳
  似島陸軍検疫所(第二検疫所) 昭和11(1936)年
乗船の実況


資料:似の島陸軍検疫所(廣島・宇品・名勝)記念写真帳

検疫所酒保(けんえきしょしゅほ)
昭和15(1940)年4月30日 陸軍運輸部検疫所(第二検疫所)
※"酒保”とは
軍隊の駐屯地(兵営)・施設・艦船内等に設けられ、
主に軍人軍属たる下士官兵や同相当官を対象に
主に日用品・嗜好品を安価で提供していた売店。
消毒○○(班別不能)
昭和15(1940)年4月30日 陸軍運輸部検疫所
※洗面器に消毒液を入れて、手を洗っている様子が写っている。
 
上陸桟橋
昭和15(1940)年4月15日 陸軍運輸部検疫所(第二検疫所)
※石組みから陸軍第一桟橋とわかる。
 
既消毒桟橋(きしょうどくさんばし)…帰路用の桟橋
昭和15(1940)年4月30日 陸軍運輸部検疫所(第二検疫所)
※石組み、建物から陸軍第二桟橋だと思われる。
 
 消毒語貴重品受取
昭和15(1940)年4月15日 陸軍運輸部検疫所
※検疫前に預かっていた貴重品を手渡している様子。
 
第二検疫所の条例が公布される

官報(第六千八百八十四号)

勅令
朕臨時陸軍似島検疫所条例を裁可し茲に之を公布せしむ
御名 御

明治三十九年六月十一日 陸軍大臣 寺内正毅

勅令 第百四十八号
 「臨時似島陸軍検疫所条例」


第一条 臨時陸軍似島検疫所は申告、韓国及台湾より踏還する陸軍所轄の船舶及之に搭乗する人馬物件に対し検疫消毒を施行す
第二条 臨時陸軍似島検疫所に左の職員を置く
所長 所員 主計 下士
第三条 所長は陸軍運輸部本部長に対し検疫所の事務を管理す
第四条 所長及主計は所長の命を承け検疫所の事務を分掌す
第五条 下士は情感の命を承け事務に服す

附則
本令は明治三十九年六月十五日より之を施行す
臨時陸軍検疫部条例は之を廃止す


資料:官報(国立国会図書館)

似島に臨時陸軍検疫所(第二検疫所)を開設する告示

官報(第七○○号)
 大正三年十二月一日

告示
「陸軍省告示第十八号」
似島に臨時陸軍検疫所を、門司に同出張所を開設す

大正三年十二月一日

陸軍大臣 岡市之助

資料:官報(国立国会図書館)

第二検疫所内に独逸軍俘虜収容所を開設する告示

官報(第一三六四号)
 大正六年二月二十日

告示
「陸軍省告示第四号」
本月十九日大阪俘虜収容所を閉鎖し似島俘虜収容所を開設す

大正六年二月二十日

陸軍大臣 大島健一


資料:官報(国立国会図書館)

似島に臨時陸軍検疫所(第二検疫所)を開設する告示

官報(第千八百八十号)
 大正七年十一月八日

告示
「陸軍省告示第三十号」
臨時陸軍検疫所管制の所定に基づき十一月十日より臨時陸軍検疫所を似島に同出張所を門司に開設す

大正七年十一月八日

陸軍大臣 田中義一


資料:官報(国立国会図書館)

似島俘虜収容所を閉鎖する告示

官報(第二二八○号)
 大正九年三月二十日

告示
「陸軍省告示第三号」
久留米俘虜収容者は大正九年三月十二日、習志野俘虜収容所、名古屋俘虜収容所、青野原俘虜収容所、似島俘虜収容所及板東俘虜収容所は大正九年四月一日限り閉鎖す

大正九年三月十二日

陸軍大臣 田中義一


資料:官報(国立国会図書館)


似島臨海少年自然の家(現)と第二検疫所(旧)の比較
似島臨海少年自然の家 第二検疫所(昭和)


 【馬匹(ばひつ)検疫所】(現 似島小・中学校)…昭和15(1940)年開設   

 明治37(1904)年、帝政ロシアと日露戦争を始めると、戦場からもどってくる兵士の数が約10倍になりました。
 もともとその場所は似島の島民の畑でした。その土地を軍が命令を出し、取り上げました。
 そして、陸軍第二検疫所が開設されます。
 同時に、後の馬匹検疫所の前身となる馬の検疫所(これも馬匹検疫所)を設け、馬の検疫も始まります。
 馬も兵士とともに戦場に送られていたので、帰還する馬も多かったためです。
 この馬の検疫をしていた似島の大黄地区に正式に軍馬の検疫所が開設されることになります。
 昭和15(1940)年、世界では第二次世界大戦が勃発しました。(ドイツがポーランドに侵攻したのは1939年)
 その年に、陸軍運輸部馬匹検疫所(軍用馬の検疫所)が作られました。
 この検疫所の目的は、外地から帰還した軍馬の検疫で、病死した軍馬は焼却炉で焼却されました。
 現在は自然の家に移設されています。
 原爆投下後は、助けを求めて似島にやってきた(搬送された)被爆者たちの多くがが、治療の甲斐なく亡くなりました。
 およそ10,000人に及ぶ被爆者のうち、第二検疫所が臨時野戦病院として使用され、閉鎖された昭和20(1945)年8月下旬に命のある状態で島から他の場所へ生きて移された被爆者は、およそ2,000人〜3,000程度だったと言われています。
 海上挺進戦隊の兵士の証言では500人ほどしかいなかったとの証言もあります。
 このように、多くの被爆者が似島で亡くなり 当初、遺体は、浜で火葬されるなどしていましたが、やがて馬を火葬する「馬匹焼却炉」で火葬が間に合わないものは、近くの防空壕に一時的に安置されていました。
 それでも、増え続ける遺体を弔うことができず、陸軍馬匹検疫所の敷地内に大きな穴を掘り、遺体は火葬されることもなく、折り重なるように埋葬されました。
 やがて終戦を迎えたため、陸軍馬匹検疫所は軍用地であり、戦後長い間、遺体がどのように処理されたのか明らかにされませんでした。。
 昭和46(1971)年、島の人の証言により、発掘調査が行われました。
 島の人の証言は本当でした。
 火葬されることもなく、折り重なるように埋められた遺骨や遺品が数多く出土しました。
 現在では、亡くなられた被災者の霊を弔うために、「慰霊碑」が建てられています。



 昭和15(1940)年 馬匹検疫所開設
 昭和24(1949)年 似島小・中学校が当地に移転
 昭和46(1971)年 似島中グラウンドから被爆者の遺骨が発掘される
 平成 2(1990)年 市営住宅建設用地を整備中に焼却炉の一部が発掘される


馬匹検疫所

 戦地から帰還した軍馬を、帰還将兵と同じように薬風呂に入れたり、獣医師が診察して外地からの病原菌や病害虫の侵入を防いだりするために設置した施設である。


資料:明治三十七八年戦役検疫誌. 附図


馬匹検疫所の跡地より焼却炉の一部を発掘

 平成2(1990)年、旧馬匹検疫所の北側の市営住宅建設用地を整地中、焼却炉の一部と大量の人の骨片が見つかった。その後、焼却炉の遺構は、臨海公園内に移設された。


馬匹検疫所の跡地より焼却炉が発掘された

 この遺構は、平成2(1990)年9月7日から、似島臨海少年自然の家から約600m南にある似島住宅用地内で発掘作業がはじまった。
ここからは、おびただしい骨片と、3つの焼却炉、馬の足洗い場、建物コンクリートの床がほりおこされた。
 旧陸軍運輸部馬匹検疫所の焼却炉の1基を、平成3年にこの地に移設したものである。
 原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるために、保存された。

 平成2(1990)年9月7日 遺骨の発掘調査が始まる。この日骨出土。
         9月10日    おびただしい量の骨が出土。
         9月18日    少年少女のつどいが
                 広島市に炉の島内保存を依頼。
         10月1日    炉の島内保存を広島市が決定。
         10月3日    発掘現場で市主催の慰霊祭が
                 営まれる。
         11月27日    出土した骨片が、平和祈念
                 公園内の原爆供養塔
                 に納骨される。
         12月14日   広島市が、炉の1つを似島臨海
                 公園内の一角に移設。
  平成3(1991)年3月7日    焼却炉の保存工事終わる。


 馬匹検疫所の跡地より発掘された焼却炉の耐火煉瓦
 馬匹検疫所で使われていた、『馬匹焼却炉』です。
 『馬匹焼却炉』には耐火煉瓦が使われていました。
 耐火煉瓦には「SHINAGAWA」の文字がみえます。
 この耐火煉瓦は東京芝浦で、民間としては日本で初めて
 耐火煉瓦を製造した会社です。創業は1875年(明治8年)
 と老舗の会社です。
 1887年(明治20年)東京品川に深川の工場を移して
 「品川白煉瓦製造所」と名前を改称しています。
 『馬匹焼却炉』の耐火煉瓦は 「品川白煉瓦製造所」のものが
 使用されています。


 
 戦争には兵隊だけでなく馬もたくさんつれていかれた。その馬が感染病などの悪い病気にかかっていないか検疫を行うための検疫所が馬匹検疫所である。被爆当時は、亡くなった被害者の遺体を、この馬匹検疫所に運び、死体を積み重ね、重油をかけて焼いたと言われている。
 被爆当時、応急介護の甲斐もなく死亡者が続出したため、その遺体をこの焼却炉で火葬した。この焼却炉から、スコップ300杯(バケツ30杯分)の遺骨が収集された。


慰霊碑(中学校校庭の海岸沿い)

 昭和46(1971)年10月、似島中学校のグラウンドから、被爆当時仮埋葬された被爆者517体の遺骨が見つかった。慰霊碑は、犠牲者の冥福を祈って昭和47(1972)年11月に建てられた。

千人塚

 収容施設で亡くなった人のうち、身元確認ができなかった遺体を火葬して、その
遺体を埋葬したのが「千人塚」である。昭和30(1995)年、千人塚を発掘し2,000体近い遺骨を平和記念公園内の原爆供養塔に納骨し、千人塚を撤去した。


菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏


 
似島検疫所第一消毒所(第一検疫所) 似島検疫第二消毒所(第二検疫所)資料 

陸軍省が明治27〜38年に作成した検疫所の資料を掲載しています。詳しくはこちら

国立国会図書館ホーム
 
 

 

 

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