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原爆と似島




1945(昭和20)年8月6日 午前8時15分 広島に世界で初めて原子爆弾が投下されました。
原爆で負傷した多くの人々が似島の第二検疫所へ助けを求めてやってきました。
     昭和20(1945)年8月7日の似島と広島市



処置をされた人は
原爆投下後20日間で、約1万人とも言われています。
しかし、懸命の治療のかいもなく、ほとんどの方がこの地(似島)で亡くなられ、葬られました。
戦後、発掘調査により多くの遺骨が収集されました。
ここでは、原爆と似島のかかわりについて紹介していきます。
閲覧の際、被爆された負傷者の方々、原爆死没者の方々の写真が掲載されています。広島(似島)で実際にあったことですが、
お子様がご覧になる際は、ご配慮をお願いいたします。そして、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを是非話してあげてください。

※ 参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
※ 情報提供:宮崎佳都夫 様
※ 情報提供:広島平和祈念資料館
  「広島平和記念資料館 企画展
  「広島平和記念資料館 企画展 似島が伝える原爆被害 犠牲者たちの眠った島

※ 参考文献「似島 ー廣島とヒロシマを考える」 原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会

 【このページの内容】
 
 1 原子爆弾投下 そのとき似島では(手記等)
 2 原爆と似島…原爆投下〜終戦

 3 原爆と似島…終戦後の似島 1971(昭和46年)11月
 
4 補 足 〔特殊潜航艇「まるゆ」〕
 5 原爆と似島…終戦後の似島 1990(平成2年)11月
 6 原爆と似島…終戦後の似島 2004年(平成16年)7月

 

 原子爆弾投下 そのとき似島では(手記等)

 〜 プロローグ 〜
 1945(昭和20)年になると、日本軍の勢いは衰え、日本の大きな町は、空襲により壊滅していました。
 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下されました。
 たちまち広島の街は燃え上がり、天高く立ち昇るキノコ雲、その下で起きる大火災。
 だれもが、今までみたことのない状況に、広島市周辺の人々は、何が起きたのかさえわからず戸惑うばかりでした。
 似島陸軍第二検疫所は、医者や衛生兵、兵士などは戻ってこない日本兵を待ちわびて、建物はガランとしていました。
 似島の沖合いにある江田島では、少年兵が秘密の訓練をしていました。
 金輪島の工場では、学生も動員されて、戦争用具を休む間もなく作っていました。
 1945年8月6日午前10時ごろ、広島の被爆者を沢山積んだ船が、似島の第二検疫所の桟橋に次々とつき、
 たちまち検疫所はひどいやけどと怪我の被爆者であふれかえりました。
 おびただしい怪我人で第二検疫所だけでは手に負えず、江田島の少年兵、金輪島の学生、宇品にいた兵士、
 似島の婦人会の人たちが集められ、臨時野戦病院に指定された第二検疫所で寝ずの治療にあたりました。
 似島での原爆被害は、ガラスが割れたり、家が壊れたりしました。
 外にいた人々も原爆の光と熱さを感じたようですが、火傷はしなかったそうです。
   
   広島に投下された原爆のキノコ雲  


 「寝ないで手術」 元似島野戦病院医院長 京都市 西村幸之助
 昭和51(1976)年秋、私と小原さんはなつかしいこの似島を訪れました。
 ここには病院跡と思われるコンクリート、壊れかけた兵舎、消毒浴槽のコンクリート、煙突、5,000人分の衛生材料を
 入れていた防空壕が残っていました。
 中でも私の心を打ったのは、古びたトタン屋根の中に「無縁仏」と書かれた粗末な石が安置され、
 一升瓶に水を入れて供えてあったことでした。
 
花と線香の煙がただよっていました。ここで死んでいった多くの人たちの霊をなぐさめ、二度と戦争をおこしてはならないとい
 う私たちの心をあらわすために、ここに慰霊碑をつくろうと決心しました。
(原爆被爆者診療の地)
 あの日、私は石として、この隊の隊長として被爆者一万人あまりを収容し治療をしました。運ばれてきた人のほとんどが裸で、
 ひどい火傷をしていました。強い爆風で、飛び散ったガラスの破片が全身に突き刺さった人。針工場の女工さんは、全身に何万本
 もの針が突き刺さっていました。
 怪我や火傷の軽い人でも放射能のせいで、3〜4日で死亡されていました。
 流動食を用意しても、だれも食べませんでした。
 病院のあちこちから
 「軍医さん、衛生兵さん、助けて、助けて」
 と悲しそうな声が聞かれました。
 私たちは必死でしたが、ほとんどの人は1〜2日で死んでいかれました。
 
なかでも母親の死亡にもかかわらず、無心に乳房を吸い続けている赤ちゃんをみて、さすがの私も涙を堪えることが
 できませんでした。

 また、手が足りないために、死亡された患者さんがあっても運び出すひまもなく、重症患者と一緒に寝かせていました。
 次の日になっても呼び集められた兵士達の手で運び出され、砂浜で火葬しました。
 立ち上る煙をみて、みんな泣きました。
 病院の手術室では、片平軍医と私が中心になって、三日三晩、ねるひまもおしんで手足の切断手術をしました。
 
四日目の朝には、5,000人分の麻酔薬や衛生材料が全部なくなりました。
 まだ、150人の手術患者がいるのに、あと3人分の縫い合わせ糸しかありません。
 手術をしなければ全員死亡です。そので麻酔無しの手術の希望者を募集しました。
 一人の女子高生が希望しました。
 男子でさえ一人の申し出もないのに、勇敢にも申し出た女子高生をみて、私は一瞬ためらいましたが、
 どうしても助けたいと思い直し、私は心を鬼にして手術することにしました。
 いよいよ手術開始。
 このときの断末魔のようなうめき声は、いまだに私の耳に焼き付いて離れません。
 今でも生きてらっしゃるか?と心を痛めています。
 ※ 後日大阪あたりで、元気に過ごしているその少女と出会うことになります。
 手術できなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました。
 薬さえあれば助けられたかもしれないと思うと、残念でなりません。
 私たち病院船の部隊は、この戦争でいろんなひどい患者を診てきました。
 しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。
 まさに、人類が経験したことのなかった大量無差別虐殺行為であります。
 ひと口で言えば、この世の地獄でした。
 こんな事を二度と繰り返させてはなりません。
   
  似島検疫所(第二)の救護所
1945年(昭和20年)8月7-20日頃

資料:平和祈念資料館
撮影/陸軍船舶司令部
 


 「麻酔なしの腕切断」
 元似島野戦病衛生下士官 大阪府大東市 小原好隆
 私は、似島陸軍検疫所付属病院の衛生下士官として、勤務していました。
 あの8月6日も晴天で、朝から息苦しいくらいの暑い日でした。
 午前7時頃から、呉・江田島方面は、グラマン数百機による空襲でしたが、8時ごろには空襲警報は解除されました。
 病院裏山の防空壕に逃げていた患者を病院に送り、事務室に患者病床日誌を置いたときでした。
 西空に大型機特有の爆音が聞こえました。
 友軍機でないことがすぐにわかりました。
 南太平洋で毎日追い回されたB29の爆音だったからです。
 患者の生命である病床日誌を抱えたとき、
 「班長、B29らしきもの、宮島上空を北上中」
 との報告でした。
 病院に急ぎ
 
「全員ベッドの下に入れ」
 と命令したのですが、患者がベッドの下に入る間もないくらいで、ピカッと光り、ガラス戸や鍵のかかった扉まで
 戸外にとびちりました。
 かなり強力なものであることは感じていましたが、どこで何が起きたのかわからないので、患者には当分静かに
 しているように伝えました。
 事務室、診察室などの片付けをしていうちに9字を過ぎたと思います。
 宇品の船舶司令部よりの緊急命令で、
 
「最大限の患者収容の準備をせよ」
 とのことでした。
 10時ごろに宇品より第一船が着きました。
 患者を一見し、おどろき、声もでませんでした。
 
それまで、フィリピン、ジャワ、ガダルカナル、ニューギニア、レイテと敵前上陸作戦や各戦地で、
 傷ついた戦友の治療にあたってきましたが、これだけひどい姿はありませんでした。

 老人も幼子も次々と運ばれ、次の患者が運ばれるまでに死んでいるというしまつでした。
 なんと言うことでしょう。
 学校の校庭くらいの広い集合所は、人が通れるところだけ残して、一面死体の山でした。
 ただでさえ高熱で焼けただれているのに、猛烈な熱さに照りつけられ、ウジ虫が発生して白くなっている傷口が、
 ひどいにおいを発しました。
 黒いフットボールが積み重ねられているようでもありました。
 多くの人は、毛布の上に横になると同時に安心し、気が緩み、次々と死んでいかれたのでしょう。
 この苦しみにたえて、似島まで逃れて来られた方々をお助けできず、残念であり、申し訳なく思います。
 何年も過ぎた今でも、当時の様子が目に浮かんでなりません。
 兄弟三人が、別々につれて来られているのが分かり同じ部屋にしてあげました。
 上のお姉さんは、とても弱っていましたので心配でした。
 男の子達は、着物の黒い模様のところだけ火傷をしていた程度でしたから、無事成長されていると思います。
 いつも、お会いできたらいいのに…と祈っています。
 
手や足を切り落とす手術もたくさんしました。
 麻酔薬もなくなり、麻酔無しの手術も行わなければならなくなりました。
 道具の消毒も間に合わず、少々の手術の消毒はクレゾール石けん液で行いました。
 ゴム手袋は破れて、手の皮も赤くなり、破れそうになりました。
 左手の肘から(皮が)下がっていた少女も、切断しなければ生命があぶない状態でした。
 少女は
 
「死にたくありません。麻酔薬無しでよいから手術してください。死にたくない。死にたくない。」
 とくりかえし、
 「お願いします」
 というので、手術にとりかかりました。
 その時の少女の心中を思うと、私は涙が出て止まりませんでした。
 手が切り離されるときに少女が
 
「ギャー」
 といった声は、一生忘れることはできません。

 
今でも元気で生きながらえておられることを。お祈りしています。
 8月15日には、患者さんにも終戦を伝えました。
 悲しい顔も安心した顔も無く、つぶれた目から涙だけ流れていました。
 だれも何もいいません。
 何のために、この多くの人たちが傷つけられたのか。
 このときの悔しさは、とても言葉では表せません。
 8月25日には、患者を内陸の病院に移しました。 
 そのときに生きていた患者や、約500人あまりでした。

 船で送られてくる間に亡くなった人を含めて、一万人あまりが送られてきたのではないかといわれています。
 そのほとんどが、遺骨となってしまわれたのです。
 9月6日、病院船第五十三班も解散になりましたが、私は後始末のために残る組の一員でした。
 9月16日に、大風水害となり、ただひとつの炊事道具だった釜も、兵舎の床上まで洗い流され、裏山から砂が流れ出し、
 防空壕も埋まっていました。
 8月6日からの地獄のようだった似島は、手術室の血も、死体置き場のひどいにおいも、何事も無かったように、
 洗い清められていきました。
 被爆者であることをかくして、生きる人もあるようです。
 しかし、苦しみ多い人生であるなら、なおさら、これからの人たちが、自分と同じ苦しみを味わうことのないように
 しなければならないのです。
 私は、被爆のおそろしさを、確実に正しく伝え残し、再び、核の使われることのない平和を、世界の子どもたちの未来のために
 求めたいと思います。
   
   似島検疫所内の様子
資料:はだしのゲン
 


 「被爆者であふれた臨時野戦病院」 元似島野戦病院衛生上等兵 神戸市 吉原利男
 私は陸軍病院船部隊の兵隊でした。
 太平洋戦争が始まると、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)あたりでの仕事が多くなりました。
 この方面の戦争で傷ついたり、病気になった兵隊を日本に運んだのです。
 最初は勝ち戦を続けた日本軍もやがて各地の戦いで敗北しはじめました。
 そうなると、病院船も戦地に近づけなくなりました。
 私たちは、五年も続けたこの仕事を辞め似島に上陸することになりました。
 1945(昭和20)年8月6日、強烈な閃光がはしり、しばらくして、ドンという腹にこたえるような音が聞こえました。
 続いて、ガチャンという窓ガラスの割れる音があちこちでおこりました。
 私たちは、外に飛び出し、裏山に登りました。
 すると、広島市内は真っ黒いカーテンを張ったようで何も見えないのです。
 不思議に、空の一角に妙な格好をした入道雲がもくもくのぼっていくのを見ました。
 10時過ぎ、下士官が
 
「担架を持って桟橋に急行せよ」
 と大声を張り上げて命令しました。
 船の中の人々を見て、アッと驚きました。
 顔も頭も身体中、大火傷を負って血だらけの人ばかりです。
 男も音暗も年寄りも若者も子どもも服は破れ、焦げ、泥と血まみれの半裸の姿でした。
 うめき声が船を覆っていました。
 
その数、およそ300人ほどだったでしょうか病室では火傷の手当て、手術と忙しく立ち回っていました。
 
「おーい、また船がついたぞ−」
 第二船、第三船、第四船、つぎつぎと運び込まれた被爆者の数は一万人にもなったのです。

 第一に治療、そして患者名簿作成、食事の世話とてんてこまいの忙しさでした。
 長い、夏の太陽も、ようやく西にかたむきかけた頃、ようやく患者の給食の世話が一段落しました。
 私たちは、交代で不寝番にたち懐中電灯を持って、患者の様子を見て回りました。
 この時、不思議なことを発見しました。
 ここに着いたときには火傷と怪我だけであったのに歯茎から血がにじみ出ている者、顔や手足、
 身体のいたるところに斑点を出している者をみつけたのです。
 「兵隊さん、水を一杯ください。のどがやけつくようでがまんできません」
 というのです。
 水は良くないと思いながら、お茶を入れて飲ましてやりました。
 
「ああー、おいしかった。兵隊さんありがとう」
 
「よかったのう、明日の朝までぐっすり寝なさいよ」
 といって、その場を立ち去りましたが、朝を待つことなく息を引き取って人も沢山いました。

 死んだ人は、一番奥の建物に運び、家族が訪ねてくるのを待ちましたが、誰も引き取りに来ないまま
 火葬される人も数知れずいたのです。
 私たちは、8月の終わりまで、ここに留まって患者の世話をし、9月6日に似島をあとにしましたが、
 ここでの出来事は一生忘れることはできないでしょう。
   
   似島へ運ばれる被爆者
資料:はだしのゲン
 


 「薬品不足のなかで、つぎつぎに死者が」 元似島野戦病院薬剤少尉 別府市 林一郎
 一瞬、自分の目を疑いました。
 次から次と乗せられてくる人の姿は、この世のものではありませんでした。
 髪の毛はもつれぐしゃぐしゃになり、着ている物はボロボロで焼けただれ、ほとんど身につけておりませんでした。
 似島検疫所の、我々病院船五十三班に、本土決戦のため野戦病院開設の命令がありましたが、それどころではありません。
 患者を一列に並ばせ、はさみではがれた皮膚を切り取り、チンク油を塗りつけるしか方法がありませんでした。
 この仕事を1時間ばかりしましたが、私の手の指に染みこんだ、皮膚の焦げた臭いは一週間ばかり取れず、食事の度に困りました。
 手術室では、毎日、何人もの患者が膝から下を切り落とされました。
 その足を庭に並べておいたあとの芝生がまるで枯れてしまったように色が変わりました。
 放射能のせいだったのでしょう。
 薬も不足し、わを焼いて灰にし、マーキュロ液(赤チン:皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられる局所殺菌剤に
 混ぜて火傷に使いました。
 リンゲルも不足し、海水を濾過した水で割合を合わせ、生理食塩水として注射しました。
 
治療の甲斐無く死が近づいた患者が、突然立ち上がり、開いた窓にかけより、窓に片足をかけたまま息を引き取る姿が、
 よく見られました。
 死の直前、あの恐ろしかった原爆の時を思い出して、逃げようとしたのでしょうか。

 とても不思議な出来事でした。
 また、原爆の日には、広島にいなかったのに、家族を探しに似島に来て看病にあたっているうち、日に日にやせ衰え、
 そのまま死んだ人もありました。
 あれから何年も過ぎた今、テレビや映画で核爆発や核戦争の画面をよく目にします。
 しかし、体験した当時のひどさに比べれば、まだまだ及びません。
 実際はこんな生易しいものでは無かったという印象を受けます。
 終わりに、あの亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
   
   似島へ運ばれる被爆者
資料:はだしのゲン
 


 「検疫所にいる人みんなで看護」 元似島衛生隊本部事務職員 西宮市 梅宮日出子
 8月6日の午前10時頃だったでしょうか。
 船一杯に異様な姿の被爆なさった方々が、次々と検疫所(第二検疫所)に上がって来られました。
 顔は焼けて真っ黒、両眼は飛び出して、唇はどす黒く腫れ、衣服は焼け、裸同然でした。
 不思議に思いましたのは、衣服の白いところだけがスダレの様に残っていることでした。
 手はちょうど手袋をぶら下げたようにして腫れ上がり、そこに皮膚がだらりととぶら下がっていました。
 このような人々が、次々と何百人も上がって来られました。
 どの方も
 
「水をください」
 と言われましたので水をあげましたが、次々と死んでいかれました。
 あのときの様子は戦争中だったから、気絶もせずに、野戦病院の看護師でもない私でもしっかりしておれたのだと思います。
 まるで、地獄のようでした。
 検疫所の中は見る間に人で一杯になりました。
 人手がないので私も手術の手伝いをしました。
 身体一面にガラスの破片が突き刺さって、それを取る手術でした。
 見ていて、その痛さが伝わってきて、鳥肌が立ってしまいました。
 私は恐ろしさに身体が震え、持っている器具がガタガタと鳴りました。
 若い女の人の手のない姿を見ると、これからこの人はどうやって生きていかれるのかと思うと、涙があふれ、
 どう慰めてあげればよいのか分かりませんでした。

 でも看護したみなさんが、、目の前で次々と亡くなられ、無性に悲しく、悔しく思いました。
 あれから何年もたちました。
 似島を遠くから拝んでいた私も、やっと慰霊碑の前に立つことができました。
 心静かに、苦しんで亡くなられた方々の霊に手を合わせることができて、本当によかったと思っています。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 
 


 
「運んでも運んでも増える死体 その中に姉が」 元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 尼崎市 笠江春美
 私は広島市と向かい合った江田島の幸の浦(こうのうら)で、8月6日を迎えました。
 ピカーッ、目がくらんだ後、ドーン、腸がえぐられるような音がして、みんななぎ倒されました。
 しばらくすると、広島の上空にドーナッツ状のキノコ雲が上がりました。
 やがて全隊が船に乗り、広島市に救援に向かいました。
 しかし、上陸できないので、正午過ぎに似島へ。
 似島は今にも死にそうな人たちでいっぱいでした。
 本心、近づくのが怖かった。
 気を取り直し、
一人の黒く焼けただれた人の腕をとり、力をかけた、皮膚だけが私の手に残った。
 男か女かわからないその人は、ムーウッとうなり倒れてしまわれた。
 やがて6日の夜、建物いっぱいに詰め込まれた被爆者の熱で、部屋はどこも異常に温度が上がり、
 
「水をっ!」
 「水をください」

 と、それは言葉にならないうめき声を残して、多くの方々が亡くなられました。
 はじめのうちは赤チンやヨウチンを傷口に塗るだけの治療のまねごとをしていましたが、その手を払いのけるようにして、
 
「水をください」
 とまといつかれました。
 あげてはいけないと命令が出ていたので、誰もあげませんでした。
 焼け焦げた我が身をかきむしり、空をつかんで、次々と亡くなられました。
 そのあまりの多さに、私たちは死体運び出しの役を命令されました。
 暗いローソクの中の作業。
 足下に
 
「水をくれ」
 とまとわりつく被爆者の姿。
 もう、あれは地獄でした。
 とうとう私は命令をやぶって、一人の被爆者に水をあげてしましました。
 ひしゃくにすがりぐくようにして、一口水を飲み
 
「兵隊さん、ありがとう」
 とかすれた声で言い、ひしゃくをしっかり握りしめたまま、前につんのめった。
 それまででした。
 びっくりしました。
 私は命令に背いたことを反省し、あたりをそっとうかがうと、仲間も同じ事をして回っていました。
 どうせ助からない命なら、ほしい水を飲ませてあげようと思ったのは、私一人ではありませんでした。
 8月7日のあ差までに、10人中9人までが亡くなられたように思います。

 たまらなく、やるせなくなってまだ明けない闇の夜の広島の空を仰ぐと、空を赤々とこがして広島市が燃えていました。
 8月7日、明るくなった庭をみると、遺体の山があってとても驚きました。
 そこには小さな泉もあたので、部屋から這い出した人たちが折り重なって死んでおられました。
 あらためて、水がほしかったのだろうと、不憫に思いました。
 あの日は、朝から死体運びでした。
 死体の中には腐り始めたものもあり、とくに焼けただれた死体は強烈な臭いで、もうウジ虫がいっぱい這い回っていました。
 タオルで顔を覆い、担架に乗せて、馬匹検疫所近くの近くの待避壕に放り投げました。
 まるで汚いものを捨てるような気持ちでした。
 今考えると、恥ずかしい話です。
 今の似島中学校のあたりから、人を焼く煙が、何日も何日も立ち昇り、焼ける臭いは島を包んでいるようでした。
 近くの焼却炉の煙突からも、同じような煙が見えました。
 8月9日ごろになって、やや落ち着いた感じになりました。
 そこへ一人の少女が訪ねて来られ、たった一人の姉を探して、方々の収容所へ行ったが見つからず、
 ここ似島が最後の探し場になる。
 ぜひお手伝いしてほしいと言われたので、私と戦友が案内役に立ちました。
 4日間、死体運びばかりしていたようなものだったので、案内役が迷う始末。
 あちこち一緒に探し回ったが、少女のお姉さんは見つかりませんでした。
 あきらめて詰め所に戻って班長に言うと
 
「そうかあー」
 といった後、すぐに
 
「桟橋に行ってみろ、新しい死体が船に積んであるぞ」
 と言われました。
 私たちはすぐに桟橋に行き、船に乗せてもらいました。
 戸板に乗せられた死体がいくつか並べてありあmした。
 
少女は一人をみつめ、おおよそ男女の区別もつかないような腫れ上がった唇をあけ、歯形をみて、
 よよと泣き崩れ、遺体に取りすがりました。
 そのときになって、私にやっと人間らしさが戻り、心にあついものを感じました。

 そして、そこに居た見習士官が群島で頭の髪を切り、少女に渡して下船を命令しました。
 泣きじゃくる少女をよそに、船はゆっくり出て行きました。
 8月15日、江田島幸の浦(こうのうら)で、腹痛と下痢を我慢して、天皇の声を聞きました。
 戦友達も、腹痛と下痢を我慢して、敗戦の知らせを聞きました。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 


「防空壕へ死体をぎっしりつめました」 元陸軍船舶特別幹部候補生第二期生 福岡県 服部春一
 8月6日、その日も朝から太陽はジリジリ照り続けていました。
 いつも通りの作業のため、庭に整列していますと、カメラのフラッシュをたいた時のような光を浴びて、
 ほおに「ピリッ」とするものを感じ、直後すさまじい爆発音を聞いて、防空壕に飛び込みました。
 なかなか消えないキノコ雲を見ながら、夕方四時過ぎまで作業をしていると、私たち10名に似島の検疫所行きが
 命令されました。
 桟橋には、たたみ表につつまれた死体や、そのままのものが無造作に置かれてありました。
 間もなくこれらの死体を馬の焼却炉に運ぶよう命令されました。
 大八車に6〜7個積んでいきましたが、何度も落ちました。
 手足を持つと、よく焼けているので、皮や肉がズルズルとむけて、支給された軍手も一回運ぶとベトベトになって、
 跡には素手で持つようになりました。
 死んで間もない死体は柔らかく、運ぶのに苦労しました。
 ある程度時間がたつと堅くなって扱うのが楽でした。
 馬の焼却場は人間だと30人くらい焼けるそうですが、一回の時間がかなりかかるということで、
 とうとう大きな馬小屋も死体で一杯になりました。
 8月7日は早朝より死体運び。
 昼近くなるとくさりかけて、ひどい臭い。
 ガスがたまって大きな腹になりました。
 そこでこのおびただしい数の死体を、今の似島中学校のグラウンドに穴を掘って焼くことになりました。
 すでに穴は掘られていました。
 この中に死体を投げ込んで、何層にも積み重ね、火をつけるのです。
 8月8日、後から後から運び込まれる死体を焼くこともできなくなり、山のあちこちに掘られた横穴式防空壕に
 入れることになりました。
 今の似島中学校グランド南端の小山の中腹のたくさんの防空壕が私たちの仕事場でした。
 死体を2人1組で担架に乗せ、山道を50mぐらい登って、奥が20mくらいの横穴の奥から積み重ねるのです。
 その中は屍臭が一杯で死体の腹に一杯になったガスが肛門から出ようものなら、もっとすごい臭いでした。
 中に入るときは、1,2、3と合図して息を止め、小走りで奥に行き、死体を重ねるように投げ捨ててくるのですが、
 出るまでに息を止めきれず、入口の近くでとうとう息をします。
 外に出て4〜5回深呼吸をして屍臭から逃れようとしますが、鼻の先にくっついてなかなか離れませんでした。
 そんなときは、下り道にあった便所の臭いをすって、悪臭から逃れようとしました。
 便所の臭いの方が屍臭に比べると格段によかったのです。
 穴の中の死体がうまく重ならないと、くさいのを通り越して、頭が痛くなり、みんなの手前の方にポトンと
 おいていくようになりました。
 たちまち入口近くまで死体になり、穴の奥に行けなくなったのをみた将校が、怒って死体の上を歩いて奥の方につめるよう
 に命令しました。
 私も死体の上を歩いて中に入りましたが、バランスが取りにくく転びそうになりました。
 とうとう入口まで一杯になり、今度は物干し竿を持ってきて、死体をついて奥の方に押し込むのですが、
 時々ガスが飛び出したときにはみんな散ってしまいました。
 今思うと、なんとひどいことをしたものだと思います。
 死者をまるで汚物のように扱い、本当にすまないことをしたと思います。
 でもこんなにしないと、あのおびただしい数の死体を処理できなかったし、命令を聞かなかったら、
 私自身もひどい目にあっていただろうと思います。
 戦争はもう二度としてはいけません。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:中国新聞
 


「馬匹検疫所の火葬まで、人を二人焼きました」 元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 青森県 義之英公
 私の任務は、死体を焼く仕事でした。
 グラウンドに掘られた穴で死体を焼くのです。
 鉄の棒を握って、数十百の死体をまるで地獄の火夫みたいな姿でした。
 夕方近くになってやっと交代がきました。
 その申し送りによると、私は仲間と一緒に次の仕事があるというので、鍋島大尉と名前を思い出せない
 伍長の収容されている建物に急ぎました。
 私たちが行くちょっと前にお二人は亡くなられたらしく、軍医さんたちが聴診器や担架を下げて建物をでてくるところでした。
 二人の死体は、すぐとなりの馬の火葬場に運ばれて、2つある火葬釜に入れられました。
 まもなく私たちの手で、釜に点火され、やがてゴウゴウと音をたてて燃えだし真下。
 軍医はそれを見届けると検疫所の方へ帰って行かれました。
 私たちは外へ出て見送りながら、ふと見上げると、高いコンクリートの煙突の先から、
 モクモクと白い煙と黄色の煙が混ざり合って、立ち上り、東の方へたなびいていました。
 私たちは2時間交代で燃やし続けました。
 この時はじめてまとまった睡眠がとれたように思います。
   
   原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 


「お弁当を差し出した少女」 被爆当時小学三年生 田中清子
 被害を受けた者は皆似島へ行けと言うことでした。
 私たちも、そこへ行くことにして、川から船に乗りました。
 お母さんの座っている前に、私と同じ年くらいの女の子がいました。
 その女の子は身体中に火傷や、怪我をしていて、血が流れていあmした。
 苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、突然私の母に、
 
「おばさんの子ども、ここにいるの?」
 と訪ねました。
 その女の子はもう目が見えなくなっていたのです。
 お母さんは、
 
「おりますよ」
 と返事をしました。
 するとその女の子は
 
「おばさん、これおばさんの子どもにあげて…」
 と言って、何かを差し出しました。
 それはお弁当でした。
 それは、その女の子が朝学校に出かけるとき、その女の子のお母さんがこしらえてあげた弁当でした。
 お母さんが、その女の子に
 「あなた、自分で食べないの?」
 と聞くと、
 
「私、もうだめ。それをおばさんの子どもに食べさせて…」
 と言ってくれました。
 私たちは、それをいただきました。
 しばらく川を下って船が海に出たとき、女の子は
 
「おばさん、私の名前をいうから、もし私のお母さんにあったら、ここにおると言ってね」
 と言ったかと思うと、もう息を引き取って死んでしまいました。

 私は、その女の子がかわいそうでかわいそうでなりませんでした。
 私はお母さんと一緒に泣きました。
   

 原爆と似島…原爆投下〜終戦


1945年8月6日 午前8時15分

広島に世界で初めて原子爆弾が投下されました。


 資料:「広島平和記念資料館」




最初の原子爆弾には、ウラン235が使われました。ウラン235は核分裂を起こすと、中性子を発生しそれが次々と他のウラン235を分裂させ、膨大な熱量と放射線を発させました。1gのウランが完全反応したときの熱量は石炭3,000kg分以上だといわれています。広島に投下された原子爆弾には64kgのウラン235が搭載されていました。これは、石炭に換算すると192,000t 分にも匹敵します。

※実際に核分裂反応をしたウラン235は、1kg弱と言われています。
(TNT火薬換算で約16kt)


資料:「広島平和記念資料館」




当時、推定34万人の人々が広島にいました。

そのうち、原子爆弾投下直後に被害で亡くなった方は14万人以上といわれています。


資料:「広島平和記念資料館」




原子爆弾炸裂の中心温度は250万度にもなり、大量の放射線が浴びせられました。
一瞬で人も家も焼け、その後、音速をこえる衝撃波がおそってきました。
原子爆弾炸裂によって生じたこの衝撃波によって、建物の大半は破壊されました。
なんとか全壊を免れた建物も、今度は原子爆弾炸裂地点の空気が真空状態になり、一気に吹き返しにさらされ、次々と崩れ去りました。
木造の家屋だった広島の家はあっという間に延焼し、焼け野原と化してしまいました。


資料:「広島平和記念資料館」



遠く離れた似島にも被害がありました。これは原子爆弾投下によって破壊された窓です。
原子爆弾が投下された直後、似島の陸軍の施設は本土の施設との連絡が途絶え、強風により窓ガラスが割れました。

ようやく手旗信号により、特殊爆弾により被害を受けた広島から被害者がくるので、検疫所は臨時野戦病院として解放するよう命じられました。

菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏



8月6日午前9時ごろ、検疫所に司令部から島伝いに手旗信号で指令がおりました。
「似島に医療班を待機させ、
広島から500人の患者を受け入れる準備をしろ」という内容のものでした。
このときまだ似島では何が起きたのかわかっていませんでした。
すぐに医療チームが編成され、患者を受け入れる準備がされました。それから10分後、広島の街から似島に向かう、多くの船が見えはじめました。
その船は予想以上の数で、まるで押し寄せるようにやってきました。

宇品(うじな)より負傷者(ふしょうしゃ)が発動機船や伝馬船で運ばれて来ました。ロープに身体をしばりつけて水面下をえい航されて来た死者もありました。真っ白になった顔が海水に(あら)われている姿(すがた)をいつも思い出します。」
 「広島平和記念資料館 企画展
 似島が伝える原爆被害 犠牲者たちの眠った島


資料:絵:福井巌




あまりの負傷者の数と予想をはるかにこえた状況に、救護で待っていた人々はとまどいました。
特に、負傷した人々に女性や子どもが非常に沢山多いことに驚き、大やけどの状態に愕然となりました。
負傷者を下船させるために兵士たちも懸命に手伝いましたが、次々に海に転落する負傷者が何人もいました。
負傷した人々にはもはや海面に浮き上がる力もなく、助けたくても負傷者の下船のためその場を離れられず、転落したまま命を失った人も多くいました。


資料:西村繁男「絵で見る広島の原爆」



検疫所の職員によると、原爆が投下されるまで、終戦間際は開店休業状態だったそうです。
それは、戦地に赴いた兵士達がいかに生きて帰還できなかったかを物語っています。
しかし…
8月6日午前10時頃、最初の船から50名ほどのけが人が降ろされてから、5分と間をおかずに次々と船がやってきました。
あっという間に500人の収容人数を超え、さらに同10時台に700〜800人のけが人が似島に運び込まれました

臨時野戦病院になった検疫所も桟橋も軍医や兵士だけではは手に負える状況ではありませんでした。
船が多すぎ、桟橋にたどり着けずに、沖合で待機する船もたくさんありました。


資料:「広島平和記念資料館」



8月6日夕方になると、似島の検疫所は
30棟以上の建物全てが負傷者で一杯になりました。
それ以降に運ばれてきた人たちは入る場所がありませんでした。
そこで、すのこの上、軒下、木の下で過ごしました。

まだ、戦争は終わっていません。空襲警報が発令されると、負傷者も防空壕へ向かいました。やけどでむけた皮膚は地面にすれてシャリシャリと音を鳴らして防空壕へ入った負傷者は、二度と壕からでることはありませんでした。

資料:撮影/陸軍船舶司令部 寄贈/御園生圭輔

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8月の蒸し暑さ、不衛生さ、十分な医薬品の不足などによって、やけどはどんどん化膿し、全身がウミで覆われたり、ウミで目が開かなかくなったりと負傷者の症状は悪化の一途をたどりました。
「生きて、家族にあおうね」「死ぬんじゃないぞ!」負傷した人々は、お互いに声をかけあって、励まし合いました。
しかし、
「死にたくない」とつぶやく患者…
「死なせて、死なせて」とガラス片で首を切る女性、窓から飛び降りようとする男性、海に飛び込もうとする老人…あまりの苦しさに、死に急ぐ患者も次々と現れました。

資料:撮影/尾糠政美

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原子爆弾の恐ろしさは、兵士だけでなく、女性、子ども、老人関係なく全ての命を奪っていくことです。
こんな、小さな子どもたちも原爆によって命を奪われました。


日を追う毎に、亡くなっていく負傷者が増えてきました。
最初は、遺体を焼いていましたが、間に合わず、穴をほって埋めたり、防空壕に遺体を入れたりしていました。

資料:「広島平和記念資料館」

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治療には、オキシドール、ブドウ糖やリンゲル液などを使いました。ただ当時は、体の1/3をやけどしたら死ぬと言われており、なんとか命をつないでいる状態でした。
そのうち、治療薬も底をつきました。
そこで、食用油、灰など薬になりそうなものなら何でもつかいました。

資料:「広島平和記念資料館


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しばらくすると、患者に未知の症状が現れ出しました。
初めのうちは「赤痢(せきり)」ではないかと思われていました。
高熱が続き、一日に何十回となく血便がでます。
そのため、伝染病棟に隔離される人たちもいました。
不思議と、症状はやけどや外傷の少ない人ほど進行が早く進みました。
吐き気、全身の脱力感が起き、歯茎などから出血し、出血が増えて体力が衰え、亡くなっていきました。
熱はみな40度を超えて、ぜーぜーと呼吸がみだれ、「肺炎(はいえん)」の症状にもにていました。
また、髪の毛が抜けたり、皮膚の表面に「紫斑(しはん)」もでました。
「紫斑(しはん)」は最初は赤い小さな斑点で、やがて黒っぽい紫色になっていきます。これは皮下出血をした症状です。

こうした患者たちが
「急性放射線障害(きゅうせいほうしゃせんしょうがい)」〔原爆症〕だとわかるのは、後のことでした。


資料:「広島平和記念資料館

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救助には陸軍船舶司令部、通称
「暁部隊(あかつきぶたい)」の少年兵もあたりました。
海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊で、司令部は宇品にありました。
部隊は「野戦船舶本廠(やせんせんぱくほんしょう)」「船舶歩兵団(せんぱくほへいだん)」「船舶訓練部(せんぱくくんれんぶ)」「船舶衛生隊(せんぱくえいせいたい)」「船舶防疫部(せんぱくぼうえきぶ)」などにわかれていました。
幸の浦(こうのうら)の少年兵たちは「船舶練習部」の第10教育隊という名前で
水上特攻訓練を受けていました。

資料:「広島平和記念資料館

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広島には日清戦争のころからずっと陸軍の最重要拠点でした。
しかし、大部分が原子爆弾によって全滅してしまいました。
かろうじて無事だったのは
「暁部隊(あかつきぶたい)」だけでした。
似島の救助に最も早く出動したのも暁部隊でした。
原爆投下後、35分後には、司令部から市民救助の指令がでていたそうです。

似島にはこの当時、1700人あまりの住民が暮らしていました。
住民は当時も大部分が検疫所の反対側になる家下(似島港のあたり)にありました。似島の住民も広島に出向き100人あまりが亡くなったようです。
原爆の衝撃が収まったころには、家下にも負傷者を担ぎ込む船がおしよせてきました。、お寺にも300人ほどが運ばれました。

資料:「広島平和記念資料館

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似島の人々は広島にでた家族を心配する余裕もなく、住民総出で負傷者の救助にあたりました。
似島の住民の中には検疫所で働いていた人もいました。

広島の街からも、やけどや負傷を免れた人が救助を手伝いました。
しかし、多くの方が「急性放射線障害」によって亡くなられました。

資料:「広島平和記念資料館

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これは、
「千人塚」といいます。千人とは多くの方々という意味です。
1945年(昭和20年)、検疫所の所長以下職員が、白木の柱に『千人塚』と墨書し、塚を建てました。

菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏提供
 原爆と似島…終戦後の似島 1971(昭和46年)11月

昭和46年(1971年)似島中学校農業実習地(馬匹検疫所跡地)から推定517(617)体の遺骨と推定100体分の骨灰が発掘されました。また、亡くなった方々が身につけていたものなどの遺品も発掘されました。発掘が開始されると、多くの遺骨が折り重なるように掘り出されました。


資料:撮影/佐々木雄一郎




 原爆で犠牲になった死没者の遺品が数多く発掘されました。
当時、遺体は最初、穴に入れて日中火葬していました。
しかし、当時終戦を迎えていなかったこともあり、夜は水をかけて火を消していました。
それは、夜間に火をつけると、空襲での標的になる可能性があったからです。



資料:撮影/中谷吉隆


『当時、懸命の治療につかれた、薬瓶やアンプル』

次々と遺体が増える中、火葬が間に合わなくなりました。そのため、火葬することなく、遺体を穴に埋めました。
それが、遺骨は遺品として発掘されることになります。

資料:
撮影/尾糠政美



発掘された遺骨は、身元がわからないまま、棺に納められました。

資料:撮影/中谷吉隆





馬匹検疫所跡地で遺骨が見つかったことが契機となり、広島市は発掘調査を行いました。
似島の人たちも発掘作業を手伝いました。
宮崎さんも自分の船「宮多丸」で宇品(南区の広島港)まで遺骨を運搬しました。
発掘された遺骨は、広島にもどされました。
しかし、遺骨の身元が分からず、
広島平和記念公園内の「供養塔」に納められました。

資料:撮影/中谷吉隆




平和記念館(現:平和記念資料館)で、似島の被爆者の遺品が公開されました。
このとき、身元の分かった人はいなかったそうです。


資料:朝日新聞社



1972(昭和47)年に慰霊碑が建てられました。

「昭和20年8月6に 広島市は人類最初の原子爆弾によって 一瞬のうちに二十数万人の死傷者を出した 負傷者は各所に避難し ここ似島にも一万人余におよぶ人人が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し 混乱のなかとはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも二十有余年の歳月が過ぎた。
 昭和四十六年十一月 はからずもこの地から遺骨が発掘され推定五百十七柱を発掘し 原爆供養塔に号祀した
 ここに一周年を迎え 諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たにしてこの碑を建立する
昭和四十七年十一月
市長 山田節男


↓ 補 足 〔特殊潜航艇「まるゆ」〕 ↓
(上)千人塚の後、赤の○で囲んだ左側が「特殊潜航艇」(マルユ)
菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏提供



 



一番上の写真は現在の似島中学校あたりに建てられていた「千人塚」(せんにんづか)です。
その写真に
赤の○で囲った左側の部分に船らしきものが停泊しています。

 これは、
「潜航輸送船」(三式潜航輸送艇)です。
正式名称を陸軍潜航輸送艇、秘匿名称を
「まるゆ」と呼ばれた、陸軍のための潜水艦がありました。
当時の陸軍が、航空に次ぐ優先順位で総力を挙げて建造に取り組んだ「決戦兵器」でした。
武器は前部上甲板に搭載された戦車砲の改造型のみで、食糧・弾薬・医薬品等の物資輸送を任務としました。

この潜航艇は太平洋戦争中のガダルカナル島の戦いで、日本陸軍が補給に苦しんだことをきっかけに開発されました。
制海権を急速に失った日本軍は、ガダルカナル島の戦いで日本の輸送船団が壊滅してしまいます。
高速の駆逐艦を利用した輸送部隊も撃破され、食料弾薬の十分な補給ができなくなります。
そこで敵に発見されにくい潜水艦での補給を行うことが計画されたのが製造のきっかけとなります。

38隻が1型として建造されます。
航行能力が低かったため、昼間は沈座してやり過ごし、夜間だけ浮上して航行することとされ、急速潜行能力は求めないものとされました。
1型は1944年から就役して潜行輸送隊に配備され、フィリピンや沖縄への補給任務を行いました。

積載できる物資が少なかったことや航続距離が短かったことから2型の開発が行われます。
2型は海軍の協力のもとに開発されましたが、就役を待たず終戦を迎えます。

小型なこともあり、居住性能はかなり劣っていたようです。
便所はドラム缶を使用したために艇内に臭気が充満していました。
狭いまるゆは艇長室でさえ1畳大の広さしかなく、乗組員達は「本物の」潜水艦に出向く度に、その「広さ」を羨ましがったそうです。。

第二次世界大戦中に陸軍で潜水艦を建造していたのは日本陸軍だけでした。
そのため、日本の陸海軍の意思疎通の悪さ、協調・協力のなさの例として挙げられることが多いようです。


敗戦した日本は、連合軍(アメリカ)の命令により、「潜航輸送艇」(マルユ)の一部は似島沖に集められました。
それが、一番上の写真になります。

煙突のようなものが3本くらいみえるのは、「潜航輸送艇」(マルユ)の艦橋で、何台もならんで浮かんでいるために、このようにみえます。


 原爆と似島…終戦後の似島 1990(平成2年)11月

資料: 「広島平和記念資料館 企画展
   

平成2(1990)年9月旧
陸軍馬匹検疫所焼却炉跡(現在の市営住宅の場所)からスコップ300杯分の骨片、骨灰が発掘されました。

※「馬匹」と書いて「ばひつ」と読みます。 


撮影佐々木雄一


この遺構は、似島臨海少年自然の家から約600m南にある市営住宅用地内で発掘された馬匹検疫所焼却炉の一部を当地に移設したものです



被爆時、似島には約1万人の負傷者が収容されたものの、死亡者が続出しました。
遺体の一部がこの焼却炉において荼毘に付されました。



陸軍馬匹焼却炉(一部)
推定、1000体の遺体がここで焼かれたと言われています。



陸軍馬匹焼却炉の説明板

広島市



陸軍馬匹焼却炉(一部)
 原爆と似島…終戦後の似島 2004年(平成16年)7月

1990(平成2年)、犠牲者を火葬した馬匹焼却炉の遺構を広島市が調査しました。そのとき、人とも馬とも分からない骨灰や骨片がでてきました。

これで、もう遺骨はないだろうと世間の人は思いました。

しかし、似島の人は「まだ、残っている」と確信していました。




「被爆した肉親の行方探しがかなわず、残念そうに島を去る遺族の方々の表情をたくさん似島の人々はみていました。

また、墓標のあった場所を覚えている人もいました。

その場所は、民間のみかん畑だったので、1971(昭和46)の調査対象から外れていました。





「わたしたちが生きているうちに、骨を遺族に返してあげたい。このままいしておくわけにはいかない。」

似島のお年寄り達や町内連合会の方々が広島市に調査を依頼しました。

似島の人と広島市の職員と話をし、記憶を頼りに調査を行いました。




調査を開始すると似島の人の証言通り遺骨が発見されました。

広島市が調査区域を追加拡大したのは、似島の人たちの記憶が決めてとなりました。



平成16(2004)年7月
発掘場所から隣接した場所からさらに、
85体の遺骨と65の遺品が発掘されました。



原子爆弾が広島に投下されて59年…亡くなられた方達の遺骨は、発掘され「供養塔」に納められました。



原爆によって似島で亡くなられた方達の冥福が祈られました。



発掘された遺品の数々。
原爆死没者の遺品六十五点の公開展示が、7月29日に原爆資料館東館の一階ロビーで行われました。
59年前の原爆投下直後、ケガややけどをして、似島に運ばれたかもしれない…肉親を求めて公開展示に原爆死没者の遺族があつまりました。



65点の遺品が見つかりました。
その遺品が遺族の元に戻ったのは今回が初めてでした。

似島の原爆死没者の遺骨発掘調査から見つかった名札から肉親がわかりました。妹(当時14歳)のもので、名札はお兄さんに引き渡されました。


お兄さんは「被爆から五十九年目にして、初めて妹の声が私の耳に届いたように思う。無念さ、悲しさは言葉に表せない」と語ったそうです。

 

 

 

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