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原爆と似島




 昭和20(1945)年8月6日 午前8時15分 広島に世界で初めて原子爆弾が投下されました。
 原爆で負傷した多くの人々が似島の第二検疫所へ助けを求めてやってきました。
     昭和20(1945)年8月7日の似島と広島市



 処置をされた人は
原爆投下後20日間で、約1万人とも言われています。
 しかし、懸命の治療のかいもなく、ほとんどの方がこの地(似島)で亡くなられ、葬られました。
 戦後、発掘調査により多くの遺骨が収集されました。
 ここでは、原爆と似島のかかわりについて紹介していきます。
 閲覧の際、被爆された負傷者の方々、原爆死没者の方々の写真が掲載されています。広島(似島)で実際にあったことですが、
 お子様がご覧になる際は、ご配慮をお願いいたします。そして、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを是非話してあげてください。

※ 参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10(1998)年12月 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
※ 情報提供:宮崎佳都夫 様
※ 情報提供:広島平和祈念資料館
  「広島平和記念資料館 企画展
  「広島平和記念資料館 企画展 似島が伝える原爆被害 犠牲者たちの眠った島

※ 参考文献「似島 ー廣島とヒロシマを考える」 原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会

 【このページの内容】
 
1 原子爆弾投下 そのとき似島では(手記等)
 
2 「私たち、なぜ死ななければならないの」 元暁6165部隊 船舶衛生隊病院船第53斑 小原好隆
 
3 原爆と似島…原爆投下〜終戦
 4 原爆と似島…終戦後の似島 1971(昭和46年)11月
 
5 補 足 〔特殊潜航艇「まるゆ」
 6 @原爆と似島…終戦後の似島 1947(昭和22)年
 7 A原爆と似島…終戦後の似島 1955(昭和30)年

 
8 B原爆と似島…終戦後の似島 1971(昭和46)年
 9 C原爆と似島…終戦後の似島 1990(平成2)年11月
 10 D原爆と似島…終戦後の似島 2004(平成16)年7月

 原子爆弾投下 そのとき似島では(手記等)

 〜 プロローグ 〜
 昭和20(1945)年になると、日本軍の勢いは衰え、日本の大きな町は、空襲により壊滅していました。
 昭和(1945)年8月6日午前8時15分、広島市に原子爆弾が投下されました。
 たちまち広島の街は燃え上がり、天高く立ち昇るキノコ雲、その下で起きる大火災。
 だれもが、今までみたことのない状況に、広島市周辺の人々は、何が起きたのかさえわからず戸惑うばかりでした。
 似島陸軍第二検疫所は、医者や衛生兵、兵士などは戻ってこない日本兵を待ちわびて、建物はガランとしていました。
 似島の沖合いにある江田島では、少年兵が秘密の訓練をしていました。
 金輪島の工場では、学生も動員されて、戦争用具を休む間もなく作っていました。
 昭和20(1945)年8月6日午前10時ごろ、広島の被爆者を沢山積んだ船が、似島の第二検疫所の桟橋に次々とつき、
 たちまち検疫所はひどいやけどと怪我の被爆者であふれかえりました。
 おびただしい怪我人で第二検疫所だけでは手に負えず、江田島の少年兵、金輪島の学生、宇品にいた兵士、
 似島の婦人会の人たちが集められ、臨時野戦病院に指定された第二検疫所で寝ずの治療にあたりました。
 似島での原爆被害は、ガラスが割れたり、家が壊れたりしました。
 外にいた人々も原爆の光と熱さを感じたようですが、火傷はしなかったそうです。
   
   広島に投下された原爆のキノコ雲  


 「寝ないで手術」 元似島野戦病院医院長 京都市 西村幸之助
 昭和51(1976)年秋、私と小原さんはなつかしいこの似島を訪れました。
 ここには病院跡と思われるコンクリート、こわれかけた兵舎、消毒浴槽のコンクリート、煙突、5,000人分の衛生材料を
 入れていた防空壕が残っていました。
 中でも私の心を打ったのは、古びたトタン屋根の中に「無縁仏」と書かれた粗末な石が安置され、
 一升ビンに水を入れて供えてあった事でした。
 
花と線香の煙がただよっていました。ここで死んでいった多くの人たちの霊をなぐさめ、二度と戦争をおこしてはならないとい
 う私たちの心をあらわすために、ここに慰霊碑をつくろうと決心しました。
(原爆被爆者診療の地の碑)
 あの日、私は石として、この隊の隊長として被爆者一万人あまりを収容し治療をしました。運ばれてきた人のほとんどが裸で、
 ひどいヤケドをしていました。強い爆風で、とび散ったガラスの破片が全身につきささった人。針工場の女工さんは、全身に何万本
 もの針がつきささっていました。
 ケガやヤケドの軽い人でも放射能のせいで、3〜4日で死亡されていました。
 流動食を用意しても、だれも食べませんでした。
 病院のあちこちから
 「軍医さん、衛生兵さん、助けて、助けて」
 と悲しそうな声が聞かれました。
 私たちは必死でしたが、ほとんどの人は1〜2日で死んでいかれました。
 私たちはなんとか助けたい、なんとか苦しみを軽くしてあげたいという気持ちで8月10日ごろまで休まずに働きました。
 
なかでも母親の死亡にもかかわらず、無心に乳房を吸いつづけている赤ちゃんをみて、さすがの私も涙をこらえることが
 できませんでした。

 また、手が足りないために、死亡された患者があっても運び出すひまもなく、重症患者と一緒にねかせていました。
 次の日になって呼び集められた兵士たちの手で運び出され、砂浜で火葬しました。
 立ちのぼる煙をみて、みんな泣きました。
 病院の手術室では、片平軍医と私が中心になって、三日三晩、ねるひまもおしんで手足の切断手術をしました。
 
四日目の朝には、5,000人分の麻酔薬や衛生材料が全部なくなりました。
 まだ、150人の手術患者がいるのに、あと3人分のぬい合わせ糸しかありません。
 手術をしなければ全員死亡です。そこで麻酔なしの手術の希望者を募集しました。
 一人の女子高校生が希望しました。
 男子でさえ一人の申し出もないのに、勇敢にも申し出た女子高校生をみて、私は一瞬ためらいましたが、
 どうしても助けたいと思い直し、私は心を鬼にして手術することにしました。
 いよいよ手術開始。
 この時の断末魔のようなウメキ声は、いまだに私の耳に焼き付いて離れません。
 今でも生きてらっしゃるか?と心をいためています。
 ※ 後日大阪あたりで、元気に過ごしているその少女と出会うことになります。
 手術のできなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました。
 薬さえあれば助けられたかもしれないと思うと、残念でなりません。
 私たち病院船の部隊は、この戦争でいろんなひどい患者を見てきました。
 しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。
 まさに、キズの酷さ、人数の多さはとくにひどく、赤ちゃんからお年寄りまで人を選んでいません。
 人類が経験したことのなかった大量無差別虐殺行為であります。
 ひと口で言えば、この世の地獄でした。
 こんな事を二度とくり返させてはなりません。
 
   
  似島検疫所(第二)の救護所
1945年(昭和20年)8月7-20日頃

資料:平和祈念資料館
撮影/陸軍船舶司令部
 


 「麻酔なしの腕切断」
 元似島野戦病衛生下士官 大阪府大東市 小原好隆
 私は、似島陸軍検疫所付属病院の衛生下士官として、勤務していました。
 あの8月6日も晴天で、朝から息苦しいくらいの暑い日でした。
 午前7時頃から、呉・江田島方面は、グラマン数百機による空襲でしたが、8時ごろには空襲警報は解除されました。
 病院裏山の防空壕に逃げていた患者を病院に送り、事務室に患者病床日誌を置いたときでした。
 西空に大型機特有の爆音が聞こえました。
 友軍機でないことがすぐにわかりました。
 南太平洋で毎日追い回されたB29の爆音だったからです。
 患者の生命である病床日誌を抱えたとき、
 「班長、B29らしきもの、宮島上空を北上中」
 との報告でした。
 病院に急ぎ
 
「全員ベッドの下に入れ」
 と命令したのですが、患者がベッドの下に入る間もないくらいで、ピカッと光り、ガラス戸や鍵のかかった扉まで
 戸外にとびちりました。
 かなり強力なものであることは感じていましたが、どこで何が起きたのかわからないので、患者には当分静かに
 しているように伝えました。
 事務室、診察室などの片付けをしていうちに9時を過ぎたと思います。
 宇品の船舶司令部よりの緊急命令で、
 
「最大限の患者収容の準備をせよ」
 とのことでした。
 10時ごろに宇品より第一船が着きました。
 患者を一見し、おどろき、声もでませんでした。
 
それまで、フィリピン、ジャワ、ガダルカナル、ニューギニア、レイテと敵前上陸作戦や各戦地で、
 傷ついた戦友の治療にあたってきましたが、これだけひどい姿はありませんでした。

 老人も幼子も次々と運ばれ、次の患者が運ばれるまでに死んでいるというしまつでした。
 なんと言うことでしょう。
 学校の校庭くらいの広い集合所は、人が通れるところだけ残して、一面死体の山でした。
 ただでさえ高熱で焼けただれているのに、猛烈な熱さに照りつけられ、ウジ虫が発生して白くなっている傷口が、
 ひどいにおいを発しました。
 黒いフットボールが積み重ねられているようでもありました。
 多くの人は、毛布の上に横になると同時に安心し、気が緩み、次々と死んでいかれたのでしょう。
 この苦しみにたえて、似島まで逃れて来られた方々をお助けできず、残念であり、申し訳なく思います。
 何年も過ぎた今でも、当時の様子が目に浮かんでなりません。
 兄弟三人が、別々につれて来られているのが分かり同じ部屋にしてあげました。
 上のお姉さんは、とても弱っていましたので心配でした。
 男の子達は、着物の黒い模様のところだけ火傷をしていた程度でしたから、無事成長されていると思います。
 いつも、お会いできたらいいのに…と祈っています。
 
手や足を切り落とす手術もたくさんしました。
 麻酔薬もなくなり、麻酔無しの手術も行わなければならなくなりました。
 道具の消毒も間に合わず、少々の手術の消毒はクレゾール石けん液で行いました。
 ゴム手袋は破れて、手の皮も赤くなり、破れそうになりました。
 左手の肘から(皮が)下がっていた少女も、切断しなければ生命があぶない状態でした。
 少女は
 
「死にたくありません。麻酔薬無しでよいから手術してください。死にたくない。死にたくない。」
 とくりかえし、
 「お願いします」
 というので、手術にとりかかりました。
 その時の少女の心中を思うと、私は涙が出て止まりませんでした。
 手が切り離されるときに少女が
 
「ギャー」
 といった声は、一生忘れることはできません。

 
今でも元気で生きながらえておられることを。お祈りしています。
 8月15日には、患者さんにも終戦を伝えました。
 悲しい顔も安心した顔も無く、つぶれた目から涙だけ流れていました。
 だれも何も言いません。
 何のために、この多くの人たちが傷つけられたのか。
 このときの悔しさは、とても言葉では表せません。
 8月25日には、患者を内陸の病院に移しました。 
 そのときに生きていた患者は、約500人あまりでした。

 船で送られてくる間に亡くなった人を含めて、一万人あまりが送られてきたのではないかと言われています。
 そのほとんどが、遺骨となってしまわれたのです。
 9月6日、病院船第五十三班も解散になりましたが、私は後始末のために残る組の一員でした。
 9月16日に、大風水害となり、ただひとつの炊事道具だった釜も、兵舎の床上まで洗い流され、裏山から砂が流れ出し、
 防空壕も埋まっていました。
 8月6日からの地獄のようだった似島は、手術室の血も、死体置き場のひどいにおいも、何事も無かったように、
 洗い清められていきました。
 被爆者であることをかくして、生きる人もあるようです。
 しかし、苦しみ多い人生であるなら、なおさら、これからの人たちが、自分と同じ苦しみを味わうことのないように
 しなければならないのです。
 私は、被爆のおそろしさを、確実に正しく伝え残し、再び、核の使われることのない平和を、世界の子どもたちの未来のために
 求めたいと思います。

   
   似島検疫所内の様子
資料:はだしのゲン
 


 「被爆者であふれた臨時野戦病院」 元似島野戦病院衛生上等兵 神戸市 吉原利男
 私は陸軍病院船部隊の兵隊でした。
 太平洋戦争が始まると、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)あたりでの仕事が多くなりました。
 この方面の戦争で傷ついたり、病気になった兵隊を日本に運んだのです。
 最初は勝ち戦を続けた日本軍もやがて各地の戦いで敗北しはじめました。
 そうなると、病院船も戦地に近づけなくなりました。
 私たちは、5年も続けたこの仕事を辞め似島に上陸することになりました。
 1945(昭和20)年8月6日、強烈な閃光がはしり、しばらくして、ドンという腹にこたえるような音が聞こえました。
 続いて、ガチャンという窓ガラスの割れる音があちこちでおこりました。
 私たちは、外に飛び出し、裏山に登りました。
 すると、広島市内は真っ黒いカーテンを張ったようで何も見えないのです。
 不思議に、空の一角に妙な格好をした入道雲がもくもくのぼっていくのを見ました。
 10時過ぎ、下士官が
 
「担架を持って桟橋に急行せよ」
 と大声を張り上げて命令しました。
 船の中の人々を見て、アッと驚きました。
 顔も頭も身体中、大火傷を負って血だらけの人ばかりです。
 男も女も年寄りも若者も子どもも服は破れ、焦げ、泥と血まみれの半裸の姿でした。
 うめき声が船を覆っていました。
 
その数、およそ300人ほどだったでしょうか病室では火傷の手当て、手術と忙しく立ち回っていました。
 
「おーい、また船がついたぞ−」
 第二船、第三船、第四船、つぎつぎと運び込まれた被爆者の数は一万人にもなったのです。

 第一に治療、そして患者名簿作成、食事の世話とてんてこまいの忙しさでした。
 長い、夏の太陽も、ようやく西にかたむきかけた頃、ようやく患者の給食の世話が一段落しました。
 私たちは、交代で不寝番にたち懐中電灯を持って、患者の様子を見て回りました。
 この時、不思議なことを発見しました。
 ここに着いたときには火傷と怪我だけであったのに歯茎から血がにじみ出ている者、顔や手足、
 身体のいたるところに斑点を出している者をみつけたのです。
 「兵隊さん、水を一杯ください。のどがやけつくようでがまんできません」
 というのです。
 水は良くないと思いながら、お茶を入れて飲ましてやりました。
 
「ああー、おいしかった。兵隊さんありがとう」
 
「よかったのう、明日の朝までぐっすり寝なさいよ」
 といって、その場を立ち去りましたが、朝を待つことなく息を引き取って人も沢山いました。

 死んだ人は、一番奥の建物に運び、家族が訪ねてくるのを待ちましたが、誰も引き取りに来ないまま
 火葬される人も数知れずいたのです。
 私たちは、8月の終わりまで、ここに留まって患者の世話をし、9月6日に似島をあとにしましたが、
 ここでの出来事は一生忘れることはできないでしょう。
   
   似島へ運ばれる被爆者
資料:はだしのゲン
 


 「薬品不足のなかで、つぎつぎに死者が」 元似島野戦病院薬剤少尉 別府市 林一郎
 一瞬、自分の目を疑いました。
 次から次と乗せられてくる人の姿は、この世のものではありませんでした。
 髪の毛はもつれぐしゃぐしゃになり、着ている物はボロボロで焼けただれ、ほとんど身につけておりませんでした。
 似島検疫所の、我々病院船53班に、本土決戦のため野戦病院開設の命令がありましたが、それどころではありません。
 患者を一列に並ばせ、はさみではがれた皮膚を切り取り、チンク油を塗りつけるしか方法がありませんでした。
 この仕事を1時間ばかりしましたが、私の手の指に染みこんだ、皮膚の焦げた臭いは一週間ばかり取れず、食事の度に困りました。
 手術室では、毎日、何人もの患者が膝から下を切り落とされました。
 その足を庭に並べておいたあとの芝生がまるで枯れてしまったように色が変わりました。
 放射能のせいだったのでしょう。
 薬も不足し、わらを焼いて灰にし、マーキュロクロム液(赤チン:皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられる局所殺菌剤に
 混ぜて火傷に使いました。
 リンゲル液も不足し、海水を濾過した水で割合を合わせ、生理食塩水として注射しました。
 
治療の甲斐無く死が近づいた患者が、突然立ち上がり、開いた窓にかけより、窓に片足をかけたまま息を引き取る姿が、
 よく見られました。
 死の直前、あの恐ろしかった原爆の時を思い出して、逃げようとしたのでしょうか。

 とても不思議な出来事でした。
 また、原爆の日には、広島にいなかったのに、家族を探しに似島に来て看病にあたっているうち、日に日にやせ衰え、
 そのまま死んだ人もありました。
 あれから何年も過ぎた今、テレビや映画で核爆発や核戦争の画面をよく目にします。
 しかし、体験した当時のひどさに比べれば、まだまだ及びません。
 実際はこんな生易しいものでは無かったという印象を受けます。
 終わりに、あの亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
   
   似島へ運ばれる被爆者
資料:はだしのゲン
 


 「検疫所にいる人みんなで看護」 元似島衛生隊本部事務職員 西宮市 梅宮日出子
 8月6日の午前10時頃だったでしょうか。
 船一杯に異様な姿の被爆なさった方々が、次々と検疫所(第二検疫所)に上がって来られました。
 顔は焼けて真っ黒、両眼は飛び出して、唇はどす黒く腫れ、衣服は焼け、裸同然でした。
 不思議に思いましたのは、衣服の白いところだけがスダレの様に残っていることでした。
 手はちょうど手袋をぶら下げたようにして腫れ上がり、そこに皮膚がだらりととぶら下がっていました。
 このような人々が、次々と何百人も上がって来られました。
 どの方も
 
「水をください」
 と言われましたので水をあげましたが、次々と死んでいかれました。
 あのときの様子は戦争中だったから、気絶もせずに、野戦病院の看護師でもない私でもしっかりしておれたのだと思います。
 まるで、地獄のようでした。
 検疫所の中は見る間に人で一杯になりました。
 人手がないので私も手術の手伝いをしました。
 身体一面にガラスの破片が突き刺さって、それを取る手術でした。
 見ていて、その痛さが伝わってきて、鳥肌が立ってしまいました。
 私は恐ろしさに身体が震え、持っている器具がガタガタと鳴りました。
 若い女の人の手のない姿を見ると、これからこの人はどうやって生きていかれるのかと思うと、涙があふれ、
 どう慰めてあげればよいのか分かりませんでした。

 でも看護したみなさんが、、目の前で次々と亡くなられ、無性に悲しく、悔しく思いました。
 あれから何年もたちました。
 似島を遠くから拝んでいた私も、やっと慰霊碑の前に立つことができました。
 心静かに、苦しんで亡くなられた方々の霊に手を合わせることができて、本当によかったと思っています。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 
 


 
「運んでも運んでも増える死体 その中に姉が」 元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 尼崎市 笠江春美
 私は広島市と向かい合った江田島の幸の浦(こうのうら)で、8月6日を迎えました。
 ピカーッ、目がくらんだ後、ドーン、腸がえぐられるような音がして、みんななぎ倒されました。
 しばらくすると、広島の上空にドーナッツ状のキノコ雲が上がりました。
 やがて全隊が船に乗り、広島市に救援に向かいました。
 しかし、上陸できないので、正午過ぎに似島へ。
 似島は今にも死にそうな人たちでいっぱいでした。
 本心、近づくのが怖かった。
 気を取り直し、
一人の黒く焼けただれた人の腕をとり、力をかけた、皮膚だけが私の手に残った。
 男か女かわからないその人は、ムーウッとうなり倒れてしまわれた。
 やがて6日の夜、建物いっぱいに詰め込まれた被爆者の熱で、部屋はどこも異常に温度が上がり、
 
「水をっ!」
 「水をください」

 と、それは言葉にならないうめき声を残して、多くの方々が亡くなられました。
 はじめのうちは赤チンやヨウチンを傷口に塗るだけの治療のまねごとをしていましたが、その手を払いのけるようにして、
 
「水をください」
 とまといつかれました。
 あげてはいけないと命令が出ていたので、誰もあげませんでした。
 焼け焦げた我が身をかきむしり、空をつかんで、次々と亡くなられました。
 そのあまりの多さに、私たちは死体運び出しの役を命令されました。
 暗いローソクの中の作業。
 足下に
 
「水をくれ」
 とまとわりつく被爆者の姿。
 もう、あれは地獄でした。
 とうとう私は命令をやぶって、一人の被爆者に水をあげてしましました。
 ひしゃくにすがりぐくようにして、一口水を飲み
 
「兵隊さん、ありがとう」
 とかすれた声で言い、ひしゃくをしっかり握りしめたまま、前につんのめった。
 それまででした。
 びっくりしました。
 私は命令に背いたことを反省し、あたりをそっとうかがうと、仲間も同じ事をして回っていました。
 どうせ助からない命なら、ほしい水を飲ませてあげようと思ったのは、私一人ではありませんでした。
 8月7日のあ差までに、10人中9人までが亡くなられたように思います。

 たまらなく、やるせなくなってまだ明けない闇の夜の広島の空を仰ぐと、空を赤々とこがして広島市が燃えていました。
 8月7日、明るくなった庭をみると、遺体の山があってとても驚きました。
 そこには小さな泉もあたので、部屋から這い出した人たちが折り重なって死んでおられました。
 あらためて、水がほしかったのだろうと、不憫に思いました。
 あの日は、朝から死体運びでした。
 死体の中には腐り始めたものもあり、とくに焼けただれた死体は強烈な臭いで、もうウジ虫がいっぱい這い回っていました。
 タオルで顔を覆い、担架に乗せて、馬匹検疫所近くの近くの待避壕に放り投げました。
 まるで汚いものを捨てるような気持ちでした。
 今考えると、恥ずかしい話です。
 今の似島中学校のあたりから、人を焼く煙が、何日も何日も立ち昇り、焼ける臭いは島を包んでいるようでした。
 近くの焼却炉の煙突からも、同じような煙が見えました。
 8月9日ごろになって、やや落ち着いた感じになりました。
 そこへ一人の少女が訪ねて来られ、たった一人の姉を探して、方々の収容所へ行ったが見つからず、
 ここ似島が最後の探し場になる。
 ぜひお手伝いしてほしいと言われたので、私と戦友が案内役に立ちました。
 4日間、死体運びばかりしていたようなものだったので、案内役が迷う始末。
 あちこち一緒に探し回ったが、少女のお姉さんは見つかりませんでした。
 あきらめて詰め所に戻って班長に言うと
 
「そうかあー」
 といった後、すぐに
 
「桟橋に行ってみろ、新しい死体が船に積んであるぞ」
 と言われました。
 私たちはすぐに桟橋に行き、船に乗せてもらいました。
 戸板に乗せられた死体がいくつか並べてありあmした。
 
少女は一人をみつめ、おおよそ男女の区別もつかないような腫れ上がった唇をあけ、歯形をみて、
 よよと泣き崩れ、遺体に取りすがりました。
 そのときになって、私にやっと人間らしさが戻り、心にあついものを感じました。

 そして、そこに居た見習士官が群島で頭の髪を切り、少女に渡して下船を命令しました。
 泣きじゃくる少女をよそに、船はゆっくり出て行きました。
 8月15日、江田島幸の浦(こうのうら)で、腹痛と下痢を我慢して、天皇の声を聞きました。
 戦友達も、腹痛と下痢を我慢して、敗戦の知らせを聞きました。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 


「防空壕へ死体をぎっしりつめました」 元陸軍船舶特別幹部候補生第二期生 福岡県 服部春一
 8月6日、その日も朝から太陽はジリジリ照り続けていました。
 いつも通りの作業のため、庭に整列していますと、カメラのフラッシュをたいた時のような光を浴びて、
 ほおに「ピリッ」とするものを感じ、直後すさまじい爆発音を聞いて、防空壕に飛び込みました。
 なかなか消えないキノコ雲を見ながら、夕方四時過ぎまで作業をしていると、私たち10名に似島の検疫所行きが
 命令されました。
 桟橋には、たたみ表につつまれた死体や、そのままのものが無造作に置かれてありました。
 間もなくこれらの死体を馬の焼却炉に運ぶよう命令されました。
 大八車に6〜7個積んでいきましたが、何度も落ちました。
 手足を持つと、よく焼けているので、皮や肉がズルズルとむけて、支給された軍手も一回運ぶとベトベトになって、
 跡には素手で持つようになりました。
 死んで間もない死体は柔らかく、運ぶのに苦労しました。
 ある程度時間がたつと堅くなって扱うのが楽でした。
 
馬の焼却場は人間だと30人くらい焼けるそうですが、一回の時間がかなりかかるということで、
 とうとう大きな馬小屋も死体で一杯になりました。

 8月7日は早朝より死体運び。
 昼近くなるとくさりかけて、ひどい臭い。
 ガスがたまって大きな腹になりました。
 そこでこのおびただしい数の死体を、今の似島中学校のグラウンドに穴を掘って焼くことになりました。
 すでに穴は掘られていました。
 この中に死体を投げ込んで、何層にも積み重ね、火をつけるのです。
 8月8日、後から後から運び込まれる死体を焼くこともできなくなり、山のあちこちに掘られた横穴式防空壕に
 入れることになりました。
 今の似島中学校グランド南端の小山の中腹のたくさんの防空壕が私たちの仕事場でした。
 死体を2人1組で担架に乗せ、山道を50mぐらい登って、奥が20mくらいの横穴の奥から積み重ねるのです。
 その中は屍臭が一杯で死体の腹に一杯になったガスが肛門から出ようものなら、もっとすごい臭いでした。
 中に入るときは、1,2、3と合図して息を止め、小走りで奥に行き、死体を重ねるように投げ捨ててくるのですが、
 出るまでに息を止めきれず、入口の近くでとうとう息をします。
 外に出て4〜5回深呼吸をして屍臭から逃れようとしますが、鼻の先にくっついてなかなか離れませんでした。
 そんなときは、下り道にあった便所の臭いをすって、悪臭から逃れようとしました。
 便所の臭いの方が屍臭に比べると格段によかったのです。
 穴の中の死体がうまく重ならないと、くさいのを通り越して、頭が痛くなり、みんなの手前の方にポトンと
 おいていくようになりました。
 たちまち入口近くまで死体になり、穴の奥に行けなくなったのをみた将校が、怒って死体の上を歩いて奥の方につめるよう
 に命令しました。
 私も死体の上を歩いて中に入りましたが、バランスが取りにくく転びそうになりました。
 とうとう入口まで一杯になり、今度は物干し竿を持ってきて、死体をついて奥の方に押し込むのですが、
 時々ガスが飛び出したときにはみんな散ってしまいました。
 今思うと、なんとひどいことをしたものだと思います。
 死者をまるで汚物のように扱い、本当にすまないことをしたと思います。
 でもこんなにしないと、あのおびただしい数の死体を処理できなかったし、命令を聞かなかったら、
 私自身もひどい目にあっていただろうと思います。
 戦争はもう二度としてはいけません。
   
  原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:中国新聞
 


「馬匹検疫所の火葬まで、人を二人焼きました」 元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 青森県 義之英公
 私の任務は、死体を焼く仕事でした。
 グラウンドに掘られた穴で死体を焼くのです。
 鉄の棒を握って、数十百の死体をまるで地獄の火夫みたいな姿でした。
 夕方近くになってやっと交代がきました。
 その申し送りによると、私は仲間と一緒に次の仕事があるというので、鍋島大尉と名前を思い出せない
 伍長の収容されている建物に急ぎました。
 私たちが行くちょっと前にお二人は亡くなられたらしく、軍医さんたちが聴診器や担架を下げて建物をでてくるところでした。
 二人の死体は、すぐとなりの馬の火葬場に運ばれて、2つある火葬釜に入れられました。
 まもなく私たちの手で、釜に点火され、やがてゴウゴウと音をたてて燃えだし真下。
 軍医はそれを見届けると検疫所の方へ帰って行かれました。
 私たちは外へ出て見送りながら、ふと見上げると、高いコンクリートの煙突の先から、
 モクモクと白い煙と黄色の煙が混ざり合って、立ち上り、東の方へたなびいていました。
 私たちは2時間交代で燃やし続けました。
 この時はじめてまとまった睡眠がとれたように思います。
   
   原爆で被爆し、似島検疫所(第二)で
治療をうける
資料:平和祈念資料館
尾糠政美氏撮影
 


「お弁当を差し出した少女」 被爆当時小学三年生 田中清子
 被害を受けた者は皆似島へ行けと言うことでした。
 私たちも、そこへ行くことにして、川から船に乗りました。
 お母さんの座っている前に、私と同じ年くらいの女の子がいました。
 その女の子は身体中に火傷や、怪我をしていて、血が流れていあmした。
 苦しそうに母親の名ばかり呼んでいましたが、突然私の母に、
 
「おばさんの子ども、ここにいるの?」
 と訪ねました。
 その女の子はもう目が見えなくなっていたのです。
 お母さんは、
 
「おりますよ」
 と返事をしました。
 するとその女の子は
 
「おばさん、これおばさんの子どもにあげて…」
 と言って、何かを差し出しました。
 それはお弁当でした。
 それは、その女の子が朝学校に出かけるとき、その女の子のお母さんがこしらえてあげた弁当でした。
 お母さんが、その女の子に
 「あなた、自分で食べないの?」
 と聞くと、
 
「私、もうだめ。それをおばさんの子どもに食べさせて…」
 と言ってくれました。
 私たちは、それをいただきました。
 しばらく川を下って船が海に出たとき、女の子は
 
「おばさん、私の名前をいうから、もし私のお母さんにあったら、ここにおると言ってね」
 と言ったかと思うと、もう息を引き取って死んでしまいました。

 私は、その女の子がかわいそうでかわいそうでなりませんでした。
 私はお母さんと一緒に泣きました。
   


 「屍に乳房をふくませて」 池田昭夫の父 池田 武夫
 昭和20年4月、米軍は沖縄に上陸し、戦は緊迫さを増してきた。
 この時、不思議にも、山県郡太田部六ケ町村から、申し合わせたように、一人ずつ、あこがれの一中に入学した。
 一ヶ月、二ヶ月たつにつれ、一中清心は際だって身についてきた。
 伝統の尊さに驚異の眼を見張って、心密かに将来を嘱望したのは、私一人ではあるまい。
 昭夫は、小さい体に大志を抱いた頑張りボーイだったので、布駅から戸河内まで十里の道を徹夜で歩き、しかもキリンビール社長の息子から
 もらったビール二本を背負って帰り、私を喜ばしたこともある。
 6,7月に一ヶ月の帰省期間があった歳に、
 「広島は大爆撃に遭うからその後に帰れ」といってからかったら
 「寄宿舎を守るのが僕らの責任だ。そんな卑屈なことで祖国の運命は-」とやり込められた。
 8月6日には、鷹野付近で建物疎開に奉仕していた。
 原爆惨禍の甚大な情報を刻々耳にしたが、時を同じくして私の引き受けていた竹屋校疎開学童に多数の腸チフス患者が続発し、
 女先生も死亡したので、これが応急処置のため、愛児のことは放棄する苦衰にあった。
 そこで妻が一縷の望みを抱いて、8日に出広(広島市に出る)した。
 幸いにも似島にいることが判明し、翌9日駆けつけた。
 
検疫所の桟橋や広場には幾百の死体が横たわり、何十という建物には負傷者が一ぱいで、呻吟苦悩して悲惨の極である。
 血眼になって探し回り、やっと最西端の建物で、愛児に逢ったが、1時間前に、母を父を慕って、待ち焦がれながらこときれたとの
 話で、がっかりした。

 
妻は人目も恥じず、乳房を口に当ててやって泣き崩れた。
 しかし、受け持ちの看護伍長の佐々木盛雄さんが同郷のため、リンゲルを3本もうって特別な治療をして戴いたので、
 遺体もない多くの方々に比べて、誠に幸福な最後であり、感謝している次第である。
 右食指を清酒漬(アルコール漬)にして持ち帰り、故山に葬った。

   


 「8月6日午前8時(西村幸之助)隊長宇品船舶司令部連絡のため乗船中に」 大阪府茨木市 坂下直重
 その前夜は、警戒警報が一晩中発令されており、私たちは船で警戒態勢をとっていました。
 夜明け前に解除のサイレンが鳴り、ちょっと一服した後、宇品の専用桟橋を離れ、午前7時頃に似島検疫所へ本部の連絡要員を
 迎えに出発しました。
 その朝は真夏の暑い太陽がギラギラ照りつけ雲一つない晴れ上がった良い天気でした。
 兵隊30人くらい乗せて折り返し宇品へ向かって陸地から約1キロ離れた海上を航行していました。
 私はエンジン調整をしていましたところ、一瞬目の前でピカッと光ったものがありました。
 とっさに3メートルくらいのタラップを飛び上がるようにして甲板上にでました。
 そこへ比治山方面から西に向けて稲妻のような閃光が尾を引くようにして走るのが目に映りました。
 それと同時にドスンと周りをゆるがすような爆発音が聞こえました。
 一瞬海も空も真っ暗闇になりました。
 船上でこれを目撃した私達は、ただ呆然と市内方向を見て全員が立ちすくみました。
 数秒してから、生ぬるい衝撃波のような強い風が身体を横切る。
 静かな海にも小波が立ち、船も揺れました。
 エンジンまでが止まってしまいました。
 又、何秒くらい経ってだろうか。
 うすぼんやりと陸が見えるように、付近が明るくなってきた。
 市内一帯は猛烈な炎と煙に包まれ、一団まりの雲が上空へ吹き上がりました。
 乗船している乗組員から一斉にざわめきの声が上がりました。
 「この戦時中に何を油断していたのか、えらい爆発で陸(おか)の方は無茶苦茶になったぞ」
 と、その時は皆ガス工場か、火薬工場の事故だと思ったのです。
 何をおいても船を陸に着けなくてはと、エンジンルームへ降りる。
 案外すぐにエンジンがかかったので全速で宇品桟橋に向かった。
 約20分で桟橋に着く間、私は甲板に出て陸の様子を見ていましたが、一旦吹き上がった雲は、
 
みるみる間に大きなきのこ型の雲になって広島を覆いました。
 上の方は夕焼け色に変わり、下の方はどす黒い色で、地上に近い所は白っぽい雲が地上からすーと何かを吸い込むような格好をして
 むくむくと上空へ上がっておりました。

 本当に雲だけ見ている限り壮観な光景でした。
 船を桟橋に近づけて見ると、軍用桟橋(凱旋桟橋ともいう)に黒山のような人だかりがうごめいているのが見えます。
 桟橋へ船を横付けした途端、我先へと船めがけて動き出します。
 
その姿はボロボロに焼けちぎれた衣類をまとい、
 顔はぶよぶよに焼けただれ、
 髪の毛はチリチリと焼けてしまっている人、
 全身血だらけになった人、
 手足が焼けちぎれそうになっている人など転げ歩くようにして近付いてきます。
 男女の区別さえつきません。

 このときになって私達は、ただならぬ事態が市内で起きたのだと思いました。
 だれか
 「この船で似島へ運べ」
 という声に、押し寄せた避難者達は我先に船へなだれ込む。
 たちまち船はこの人達で一ぱいになり船はバランスを失い転覆しそうになった。
 私達はバランスを取り戻すために桟橋から船を離すと、そこから海の中へ落ち込んでいく人がたくさんいました。
 必死になって
 「たすけてー」
 と叫ぶ人達へ乗組員も手を出して助け揚げようとするのですが、焼けただれた手をつかんでも皮だけがズルズルとはがれて
 船上へ上がることが出来ません。
 こうして私達の手からすべるように離れて海へ沈んでいった人が幾人あっただろうか。
 もっと元気な人が私達の周囲にたくさんいたら何とかできた筈だのに、6人位の乗組員だけでは手のくだしようがありませんでした。
 
私達は、乗船させた人だけでも安全に似島まで運ばなければ助かる人も助からなくなると思い切って船を陸から離したのです。
 もうあの時は、この世の地獄の鬼になるより仕方がなかったのです。

 船は沈みそうな危険な状態で似島へ向かいました。
 客船でないので甲板上にゴロゴロと焼け黒ずんだ身体を横たえ苦痛にあえぎ、うめき声をあげながらのたうち廻る人達を見ても
 どうすることもできませんでした。
 
宇品、似島をこの日だけでも10回以上運んだと思います。
 しかしこの桟橋へ群がってくる避難者たちは後をたちません。
 二日目になると似島では軍隊が待ち受け、船上で息絶えた人達を薪に重油をかけて焼き出しました。
 一瞬青い炎が立ち、そらじゅう異様な臭いが覆います。
 はじめのうちは丸一日食事もとれない程でしたが、次第に慣れてきてその前で平気で食事をするようになった。
 今、考えると人間は環境にならされるとこんなにも変わるもんかなぁと思いました。
 夜になると街中燃え上がる炎で真っ赤に染まった空を見ながら甲板でぐったりと疲れた体を横たえて休みました。
 甲板上で苦しみながら幾人か亡くなった人もいました。

   


 「似島では…」 広島県府中市 宮奥教藏
 午後は班を編成、手分けして市内十数カ所の救護所を廻り、生存者の救護を行い、私は隊員5名を連れて似島の検疫所を訪ねました。
 仮病棟は倉庫を利用した土間に敷物を詰め、その上に患者氏名があり、毛布一枚と竹コップ一個が支給され、
 中ややっと人が通れる程の間隔で何百人もの患者が火傷には白い軟膏が塗布されたのみで、何の手当、看護もされずに
 見回りの兵隊がおられるのみ。
 患者は傷の痛みで泣き叫ぶ人、壁に
 『患者には水を絶対与えぬように』
 と注意があり、どうするすべもなく、だんだん死んでいくのを見守るだけのような状況。
 亡くなられた方は毛布に包み、入口に出して兵隊が担架で埠頭へ。
 そこから馬匹検疫所の焼却炉で火葬にしておられたが、死人が多いため整理ができぬ始末。
 
島は患者と救護者がごった返し、言葉ではいい尽くされぬ阿鼻叫喚修羅場の様相でした。
 受付で退院の消息を訪ねた処、生存者3名と遺品5柱分、遺骨でなくて遺品(バンド金具)を受け取り、
 後に生存者のおられぬことを確認し、夕方、書いたしの宿舎に帰りました。



私たち、なぜ死ななければならないの

 
「私たち、なぜ死ななければならないの」似島の記憶を辿って
  元暁6165部隊 船舶衛生隊病院船第53班 大東市 小原好隆
  

 ■ 病院船53班 西村(幸之助)部隊の隊歴
  昭和20年8月6日、広島市に原子爆弾が投下された時に、私は暁第6165部隊船舶衛生隊病院船第53班、衛生軍曹として将兵約102名で
  編成され、同時に宇品の暁部隊本部に配属されました。
  戦闘訓練、中支方面の患者輸送業務に従事、昭和16年12月、日米戦の開戦と共に南方各地の敵前上陸に参加し、
  戦況悪化の期には、ラバウル、ニューギニア、豪北のアンボン、ガダルカナル、レテー等ビルマに至るまでの撤収患者輸送に当たる。
  昭和20年5月、沖縄戦の最中に同島沖を通過し、揚子江の河口方面を廻り、朝鮮半島の沿岸を南下し、陸軍最後の病院船
  「ばいかる丸」で白衣の戦友と共に命からがら門司港に到着。
  瀬戸内海も鉄器の爆雷投下のため、航行不能となり、陸路、広島、大阪へ患者輸送をした。
  その間に「ばいかる丸」は周防灘で触雷、沈没した(他の25ヶ班あった病院船部隊も撃沈、玉砕で大部分が消滅)。
  53班の乗った船も述べ23艘に及び(128回)64航海(片道)と多く、出航と着港の時のみしか島を見ることもできない
  1ヶ月も続く長い航海も多くあり、「まにら丸」ではラバウルより患者を満載して、
  帰路パラオ島沖で敵の魚雷5発の攻撃を受ける。
  昭和20年3月には、基隆港で着岸中の「ばいかる丸」でグラマン機の爆撃を受け、大小3,000カ所の穴があき浸水、
  船は5時間燃えて戦友2人が死傷した。
  「瑞穂丸」では、船尾より25糎(cm)砲弾が命中して船員数名の負傷が出る等、ほんとうによく生き延びてこれたと思う。
  来る船もなく、下関にて衛生隊本部と共に次期作戦に備えて、教育訓練等にて待機する。
  昭和20年7月27日、衛生隊本部と共に、広島似島陸軍検疫所に進駐し、広島市戦場化の場合、野戦病院開設のため、
  検疫所防疫班と交代し、野戦病院開設の準備及び訓練と衛生業務に当たる。
  53班も軍医1名を長として下士官兵10名を1班として編成、数班が関門、日本海方面海難救助隊として出向し、
  検疫所付属病院では隊長軍医大尉 西村幸之助、経理・給与係福本秋治軍曹、経理・被服・病室係小原好隆軍曹、
  薬室係 佐伯渡閉庁外兵9名が付属病院(伝染病80床)で、治療班として勤務していた。
  当時、53班も入院、転属等で80名足らずであった。
  救助隊、治療班以外の20数名は衛生隊本部の配下となり、他部隊の兵員と共に次期作戦の訓練班に従事していた。
 ■ 8月6日の53班は…
  
8月6日8時、広島に原爆投下と共に、午前10時頃より被爆者患者の救護・治療に当たる。
  訓練班も即刻、原隊復帰し、病院にて救助作業を行う。
  訓練班の大部分は、7日より市内救護班として出動した。
  9日に海難救助隊、市内へ出動の訓練班と共に帰隊して、全員合流して治療・看護に当たる。
 ■ 8月6日からの似島検疫所(第二検疫所)
  西村部隊は8時に作戦会議のため、林素晴少尉と宇品船舶司令部へ向かって似島出発。
  途中宇品港寸前にしてエンジンの故障のため漂流中に被爆し、帽子も海中に飛んで船の7糎(cm)位厚い窓ガラスもバラバラに
  飛び散ったとのことである。
  宇品の凱旋館が被爆者の初期治療所であり、西村隊長着岸と同時に、ここで治療にあたる。
  暁部隊司令官佐伯中将の命により、似島臨時野戦病院開設の下命を受ける。
  司令官のモーターボートで急遽帰隊し、野戦病院開設、救護に当たる(このボートで似島衛生隊本部に最初の司令部からの命令下達と
  言われているが)実はその前に、9時少し前、暁部隊本部からの連絡は電話不通のため、手旗信号で、島から島へと送り、
  手旗信号が送られてきています。
  この手旗信号を受信したのが、当時似島防衛司令であった西村部隊の大坪一郎准尉でした。
  
(第一報命令)9時前
  「軍医1名・兵5名の救護班を3班編制せよ。迎えの舟は当方より行く。以上」(迎えの舟は来なかった)
  (第二報命令)9時過ぎ
  「似島救護所を開設し、最大限の準備をせよ。以上」(受信の直後、西村隊長がモーターボートにて帰島される)
  (第3報命令)2報に引き続き
  「更に、700名の収容準備をせよ。以上」
  10時頃被爆者を満載して第一船が到着、次々と被爆者を乗せた舟が着岸。
  そのとき約500名位。

  当時、付属病院は収容床数80床なので、対策のため宇品暁部隊司令部との連絡の方法がないままに、
  それ以後は舟に満載された被爆者が次々と来るのみであり、人員等は一切不明で、
  唯、次から次と数日の間は運ばれてきた。
 ■ そのとき私は…
  8時に警戒警報の解除により、裏山裾の防空壕に退避中の20名あまりの患者を病室に誘導して事務室で病床日誌の整理をしていた。
  その時、特殊の飛行爆音を聞き、敵機であるのを直感したので、急ぎ病室へ走った。
  
退避の時間もなく、病室の患者ベッドの下へ入るように伝えると同時に、強烈な探照灯の光のようなピカッと光るものを
  見たと思ったと同時に、山鳴りとも地鳴りとも形容の出来ない物音と共に強い爆風を受けた。
  患者はベッドの下に這い込むのが精一杯でした。
  暫くして外を見れば、10糎(cm)位の倉庫の閂もはずれて、扉も全部開いている。
  病室や事務所の窓ガラスも皆粉々になっている。
  これだけの風圧である故、何か大変な事態の起きたことは想像したが、何であるかは知ることが出来なかった。

  幸いにして患者が全員無事であった事の嬉しかったのは忘れることがない。
  最大限の患者収容準備の命令を受けたのは9時過ぎであったと思う。
  それからの9日朝までは、上を向くことはなかった。
  病室の準備、患者の収容、手術、看護と3日3夜は唯走り廻った。
  何もまとまった事の覚えも食事も寝た事も記憶にないので今だに思い出せない。
  時々原子雲のことを聞かれることがあるが、私は原子雲を一度もみたことはない。
 
■ 患者収容
  第1船で運ばれてきた被爆者を見た時には、愕然として声もでませんでした。
  
これまで中支、南太平洋の各戦場で幾多の戦傷者を扱って来たが、これだけ残酷で悲惨な姿を見たことはない。
  老若男女の区別もつかず、幼児に至るまで無差別に年齢、性別の班別も出来ない程に変貌した全身火傷の
  全裸に近い形であり、さながら地獄絵図そのものである。

  身体の3分の1を火傷にすれば死に至ると聞くのに、全身火傷それに裂傷まで加わり手の施しようもなかった。
  そのためか、6日の一やに650名余の死者があったと言われています。
  この時はじめて、広島へ強力な爆弾が投下されたことを知りました。
  僅かな兵員では治療処置を施すことも出来ず、次から次と送られて来る被爆者の病床作り
  (板床の上に毛布四つ折りだけ)、病室までの収容に狂人のようになって走り廻るのみでした。
  一時も早く治療をと思いながら、それの出来なかったもどかしい思いは、今でも胸が痛みます。
  似島に上陸した患者の処置と言えば、垂れ下がった肉と皮を手で握り、鋏で切り取り、
  マーキュロクロームを塗るだけです。
  この姿で、よくも似島まで逃れて来られたと思いました。
  被爆者の多くは、似島に上陸と同時に、安心感と体力の限界で、そのまま息を引き取る人も多く、
  病院まで行く道も歩くところのない程の死者が出ました。
  
患者用被服倉庫3棟全部開放してあったが、5,000人分の毛布、スーツ等は一やで皆無になってしまったのです。
  女子は全裸が多きため毛布等で隠していたが、傷の疼痛を考えスーツで腰巻き替わりに利用した。

  屋根のある所は倉庫、廊下の全てを利用したが、それでも次々と送られてくる被爆者の収容のため、
  死者があっても手不足で搬出も出来ず、死者を横に滑らせて、その後へ新しい患者を収容
  しなければなりませんでした。
  そうしている時に、自隊の訓練班や衛生隊本部の兵員等の救護班も加わり、
  午後からは幸の浦少年特別特攻隊幹部候補生の人が加わりましたので、吾々病院勤務者は
  治療に当たることが出来ました。
  
この治療も、揚陸用桟橋から病院までの150米の間を、自力で歩き、一列に並べる体力のある人のみが
  治療を受けられたのです

  昼から並んで治療を受けたのは夜7時頃であったと言われた人もあります。
  一列に並んでも治療を受けることが出来ずに、名も知られず、多くの人が並ぶ途中で死んでしまわれたのです。
  一声もかけて上げられず、何もして上げられなかった多くの被爆死者の皆さんには申し訳なく、
  お詫びの言葉もありません。
  申し訳ない気持ちで一杯であります。
  被爆者の大部分が、被服も体も骨の出るまで焼かれて、顔は男女の区別もつかないように膨れあがり、
  目もつぶれて見えず、それを大人も子どもも他人同士が助け合い、手を取り合い乍ら、
  よくもこの似島まで巡り着かれたものだ。
  唯生きたいの一心であったと思います。
  その中に、大手町3丁目で小学生の男子の兄さんが病気で2階で寝ていて、弟が階段の所から覗いた瞬間に
  被爆した兄さんが着ていた浴衣の紐の黒いところだけが皮膚まで焼けていました。
  病室巡回中にこの二人の姉さんんが見つかり、同室にしてあげました。
  男子二人は元気でしたが、姉さんは重傷でしたので心配でした。
  3人共に元気に成長されていること祈っています。
  一度お会いしたいと思います。
 ■治療・看護
  
衛生材料の保管量も裏山防空壕に野戦病院用として5,000人分しかなく、またたく間に皆無となりました。
  海水を濾過してリンゲル液の代用として、軍馬用の容器で10本位のゴム管で章魚足注射もしました。
  火傷用のチンク油もなくなり、灰、硫黄液、下痢止め用のタンニン酸、なんでも火傷に効くと思われるものは、
  代用し、試みました。
  その折に、似島山上の高射砲隊から救助に来た兵隊が、チンク油と白ペンキを間違って塗布したので、
  拭き取るのに患者が痛がり困ったこともありました。
  
繃帯材料も、ガーゼ、脱脂綿も無くなり、繃帯の替わりに兵隊の褌、シャツの裾まで切って
  使用しなければならない状態でした。

 ■手術室
  手術室では、昼夜の手術が続けられ、手足の切断も数知れず、切った手足を片付ける暇もなく、
  窓より外へ投げ出す始末で、窓枠より高くまで切断の手足が、うず高くなりました。
  下半身火傷の将校が瓦斯壊疽(がすえそ)のため、その足を、靴を履いたまま切ったことがあります。
  後日、女子挺身隊の人が、
  「西村部隊の人は麻酔もしないで足を切った」
  と言われたことがあります。
  その時には麻酔薬はありまして、使用していても、患者が多いために、麻酔の効くまでは待つことが出来ず、
  手術を行いますので、患者の苦痛を見た他の人はそのように見えたと思います。
  重傷が多く、次の手術に寸刻の余裕もありませんでした。
  大きい急所の箇所のみ手術室で行い、他の少々の傷は病室へ送り病室で手当を施しました。
  手術室も満員のため、商法の縫合等は家外でも行い、
  敵機の飛来下も家外での手術を休むことなく続けました。
  手術用器具の消毒も間に合わずクレゾール石けん10%の濃度で行い、ゴム手袋も破れて、手の皮も赤くなり、
  皮も破れんばかりになっていました。
  
3日目になり、瓦斯壊疽のため、切断の必要な患者が150名余りいる。
  麻酔薬は皆無であるが、縫合糸は2,3人分位あるので、何れ短時間の内に皆死ななければならないので、
  麻酔薬梨の切断者の希望を求めたが、大人、軍人の申し出は一人も居なかった。
  学徒挺身隊の14,5歳の少女が切ってくださいと申し出ました。
  吾々は軍人、男子のみと考えていましたので、一瞬驚き、唯顔を見合わせるだけで、ためらいましたが
  その少女は「死にたくありません。家に帰りたいです。死にたくありません」
  と叫び続けました。

 ■ 悲惨
  
この少女を助ける道は切断しかありません。
  助かれば左の手を切るから右手なら使えると皆で相談の上、隊長の決断で一同鬼になって切断手術を行いました。
  手が切り離されるときに、この少女が「ギャー」とも「ガアー」とも聞き取れない叫び声は、
  終生忘れることは出来ません。
  この少女の「両親に会いたい、生きたい」の一心を思うと、涙が止まりませんでした。
  この人は気丈な少女でしたので、今でも元気であってほしいと願っております。

 ■ペニシリン余記
  この時、東京の軍医学校教官が森永製薬製のペニシリン(褐色溶液)3万単位20cc(試供品)を50本持参して
  使用したが、少量のため効果は不明であった。
  ペニシリンが軍で使用されたのは、これが最初と聞いた。
  本格的にペニシリンが使用されるようになったのは、9月中旬頃(国際赤十字)ジュノー博士が米軍より
  持ってきてからで、被爆者に使用され、日本では使用法も確定できていない、幻の薬と言われていた。
  当時衛生材料の不足の折り、被爆者にとっては本当に…の恵みであったのです。
  ジュノー博士の功績は偉大偉大であったと思います。
  この少女以外の切断は行わず、150名余の人は、その晩の内に全員が死亡されてしまいました。
  衛生材料が有れば、多少でもお助け出来たのではと思えば残念でなりません。
  
全身火傷の母親が幼児を背負っていた。
  幼児は無傷でした。
  母親が身をもって守ったと思われます。
  その母親が死亡していたので、幼児を背から下ろそうとしましたが、焼けた母親の背の皮とも肉とも
  言いようのないのに融着して離れないので、致し方ないのでメスで母の皮膚を切って背から降ろしました。
  この幼児が冷たくなった母親の乳房に吸い付く姿はこの世のものではなかった。
  兵員一同涙せぬ者はありませんでした。
  この子も、数時間後には母の後を追うようにして亡くなりました。
  このような残酷で悲しいことがあってようでしょうか。

  この罪も無い幼児の命まで奪った残虐行為は、決して忘れてはなりません。
  戦争という悲劇を。
  病室の患者は、一様に、唯水を飲むために生きているのではないかと思うほどに水を求めている。
  
被爆者全員が「水ー、水ー」「水をください」と言い続けている。
  でも、「重傷者には水を与えるな」とうことはよく言われていた。
  似島でも水を飲んだ人は必ず死んだ。
  死んだ直後に、その家族が探して来島される。
  一時でも永く生きていれば肉親と会われたことを肉親と会われたことを思うと、
  1分でも2分でも生きながらえて肉親と会って貰いたいの一心でした。
  この人も後数時間の命と思いながらも、出来るだけ生き永らえることを祈るのみでした。
  
肉親にも会えず、末期の水を貰うことも出来ない哀れさに、衛生兵が水をソッと与える。
  それを止め歩き、水を与えないように病室に張り紙をして廻ったのも自分であれば
  被爆者の皆さんには鬼のように思われたと思う。

  火傷の人は皆、40度以上の高熱がある。
  水がほしい、飲みたいというのは当然であり、それを知る者だけに、被爆者の皆さんにかなえて上げることの
  できない苦しい毎日でした。
  前進火傷で、手も半分が骨の見えるようになった男の人が、私の足をつかみ、
  「兵隊さん水をください」と言った。
  この人も余命も少ないと思いながらも、水を与えることが出来なかった。
  でも、死は間近であると思い、後で持ってくるからと言って、その場を離れようとしたら、私の足に
  この人の手の皮と肉が着いていた。
  死の直前の人が、私の足に血、肉の着くまでの必死の力で「水をほしがった」。
  これほど水を欲しがった人も、私が最後の水を持っていった時には死亡されていました。

  お助け出来なかった。何もして上げられなかった。そのことは何時までも申し訳なく残念であり
  唯、ご冥福を祈るのみです。
 ■ 病室では…
  9日になって、市内の救護に出た訓練生、海難救助隊の隊員が全員合流したので、少し時間ができたので、
  病室を廻ることも多くなった。
  この時は患者も大分少なくなっていたように見えた。
  7日・8日の両日が志望者が一番多かったのではと思われます。
  でも、肉親を探す人は、毎日大勢が島を訪れていました。
  特に、両親を待ちながら親にも出会うことなく、多くの学生が若い命を失いました。
  その人達が「君が代」を唄いながら、また、「私たち、なぜ死ぬの。何も悪いことしていない」と共に
  言いながら、息を引き取っていった。
  本当に君たちは何もしていない。
  これまでは不自由とひもじさと苦しみだけの毎日であった筈である。
  哀れさで、何とも言葉をかけることが出来なかった。
  『この人達を死なせたのは大人の責任だと思う。戦争を止めることも防ぐことも出来なかった大人達だ。
   死の直前までも「君が代」を唄うまで徹底した教育方針、皆、大人の責任である。この子ども達を死亡
   させたのは大人であると思う。これからの子どもには、吾々のような大人になって貰いたくない。
   そのために、戦争体験を大切に継承して、戦争の恐怖と無意味さを知ってほしいと思います。」

  6日に手術した患者の繃帯交換も多少出来るようになって、繃帯を摂れば、悪臭と共に、
  ウジが真っ白に固まりになって、ボロボロと落ちてくる。
  繃帯を除いても、次に使う繃帯が無い。
  その繃帯を洗って使わなければならない。
  傷口を覆わないとウジが湧く。
  生きた人間の体をウジが食う。
  その時、人は死ぬのに、ウジは死なないのかと本当に恨めしく思った。
  一人の患者が手が下がると痛むので、手を吊しに布もなく、針金で首から手を吊っていた。
  手に針金が食い込んで、本当に痛々しい。
  横の毛布を切って吊して上げたが、厚い毛布でも、これで楽になったと非常に喜んでおられた。
  このような事は今の人には、到底考えられない事だと思います。
  火傷で顔かたちもわからないようになり、気の狂った母親がこれも南瓜のような頭になり、
  死んで冷たくなった子どもを抱いて、あやしながら「水をおくれ」と叫んで、病室の隅に座り、
  死んだ子どもを離そうとしない姿の悲惨な状況を見て、この時程、戦争を憎んだことはない。
 
 ・被爆弾の恐怖のためか、高熱のためか、精神異常の人が非常に多かった。
  ・無傷で他人の世話までしていた元気な人が、急に、全身に血斑点を生じ、
   口内出血や吐血等を来して急死する人が多かった。
  ・当時は放射能の事等知らないままに、原因不明で処置の方法がなかった。

 ■ 無念の遺体
  地獄のような中で、夢中の日々が過ぎました。9日の朝、汗と血でベトベトになった衣服を着替えるために
  6日から初めて、兵舎に向かって病院から外へ出ました。
  何と言うことでしょう。
  
検疫の終わった軍隊集合所の広い場所に通路もない程に、数百とも数千とも数知れない遺体の山である。
  熱風で焼かれて、ただれた遺体に、折からの酷暑に照りつけられて、屍臭と共に傷口から、又穴のある
  耳、鼻、口と言わず、ウジが発生して白くなっている。
  風船のように膨れあがった遺体はさながら、黒いフットボールが積み重ねられたようであった。
  遺体の処理には、幸の浦から救援の特別少年特攻隊幹部候補生の少年兵が病馬廠の遺体荼毘場まで、
  終日運んでいました。

  
幾度運んでも次々と増すのみで少しも減らないと、汗を流しながら語っていた。
  この人達も16〜18歳までの若者で、行く先は、一発の爆薬と共に散る身で、待っているのは死のみです。
  明日も知れない自分でありながら、屍を処理しなければならない心中を思えば、哀れであり、
  戦争の残酷さ、戦争の指導者を恨みました。

  この時初めて他の病室を覗いて見たが、ここでも住所、氏名も聞かぬ間に多くの死者があり、
  食事を用意しても食べる人もなく、衛生兵の手が廻らないために、被爆者が各自に食器へ
  チンク油を入れて塗布しているが、チンク油も欠乏して硫黄を溶かして、硫黄液のようなものを
  利用しているとのことで、原因不明で手の施しようがないと言っており、何れも同じであった。
  このようにして、多くの皆さんが、名も知られず、苦しみながら悲しみを残して亡くなりました。
  8月12日〜13日に、再度空襲に備え、一部の患者が、大野、五日市方面へ転送されました。
  後日、知ったことによれば、船で輸送中、途中でグラマン機の低空偵察を攻撃と誤り、
  船から海中へ飛び込み、10数名が海中に消えたとのことであります。
  15日の終戦も知らず、2〜3日のことで命を失われ、本当にいたましい限りであります。
 ■ 終戦
  15日正午、西村隊長からの伝達により、終戦を知りました。
  早速被爆患者に終戦(敗戦)を伝えましたが、誰一人悲しい顔も安心した顔もなく、
  唯無言でありましたが、つぶれて開かない眼から涙だけが流れていました。
  何のために、老若男女に至るまで、この多くの人々が犠牲になったのか、その上に敗戦とは、
  その時の無念さは言葉ではお話し出来ません。
  終戦と共に他部隊は、兵役解除、部隊解散が行われましたが、吾々には被爆患者の治療の責任があり、
  患者のいる以上、吾々には終戦はありません。
  死亡者、転送等で患者の数も少なくなりましたが、必死の看護を続ける中に、死者は少なくなりながらも
  病状については、快くなる人が目立たない、看護に不安な毎日でした。
 ■ 野戦病院閉鎖
  8
月25日、広島県衛生部の職員によって、被爆者は内陸の病院へ転送されました。
  その時には、所属部隊、肉親、関係団体等に引き取られた人、
途中転送以外の生存者は僅か500名余りに
  過ぎませんでした。

  数千人もの多くが犠牲となり、遺体と化されたのです。
  本当に永い永い、地獄の似島の地も静かになり、残るものは、被爆死者の悲しみと遺体の屍臭のみでした。

 ■ 53斑部隊解散
  53斑も、25日、患者転送後は任務も終わり、9月6日に部隊解散が許されました。
  但し南方方面の残留生存者収容業務として、53斑も軍医将校全員と下士官として残ることになりました。
  次期行動の準備中に、9月16日からの枕崎台風により、似島も大風水害となり、残留兵の唯一の炊事道具の
  釜も、兵舎の上まで洗い流されてしまい、裏山の流土で防空壕も埋まっていた。
 
 8月6日からの悲惨で地獄のようであった検疫所は、手術室の血も、遺体置き場であった広場の人の血と
  油で黒くなっていた土も、悪臭も、何事も無かったようにきれいに、洗い清められていた。

  9月21日、命令変更により、53斑の残留者も復員が許されて、その日に将校西村隊長、片平中将、中江中尉の
  京阪神の人を、他部隊将校と同船し、機帆船で尾道港まで帰るのを見送り、夜、松原中尉、林少尉、
  大坪准尉、小原外兵12名で、漁船を雇って柳井港まで、似島を逃げるようにして去りました。
  柳井、小郡と最後の戦友と別れを惜しみながら、各々故郷へ帰りました。
  これで、永かった私の軍隊生活も終わりました。
 ■ 慰霊
  忘れることの出来ない似島も、自分の生活に追われて、何もなすことなく30年の歳月が流れました。
  私も昭和39年より45年まで、広島の役所に勤務していました。
  その間に、似島に渡り、お助け出来なかった被爆死者の皆さんの霊へ対してお詫びしたいと考え、
  宇品の桟橋までは10回近くも行きました。
  乗船間際になれば、何としても、似島の島影や、「あの日」苦しみ、水を欲しがりながら死んでいかれた
  多くの人々のことが目に浮かび、目の前が真っ暗くなるようで、
  一度も島に渡ることが出来ませんでした。
  昭和51年、京都市の西村隊長と、被爆30年も過ぎて、33回忌も近づくので、
  犠牲者の霊をお慰めするために、一度似島へ行こうということになりました。
  その年の晩秋、二人で似島へ行きました。
  家下港より山越えをしたのですが、当時は人が通るのも困難な地道でしたが、今は自動車も通る
  立派な道路になっていました。
  
峠の上に立って病院跡らしき所を見ましたが、見当もつかない程の荒れようであり、
  思案しながら、当時検疫所防疫勤務であった菅沼中尉が西村隊長の親友であり、
  菅沼中尉の下宿された家の事など話していると、一人の婦人が家下の方から登って来られた。
  この人が、奇遇にも菅沼中尉が下宿されていた家の、小松カヤノさんでした。
  早速、小松さんが案内してくださり、小さい山道を下り、病院跡らしい所に出たが、雑草、雑木に覆われて
  見当のつかない変わりようでした。
  病院裏の防空壕の横にあったポプラの木が大きくなり、海岸からの潮風で倒れそうになっているのが
  目に付いたので、これを見当に、雑草を分けながら進むと、
  事務所と病室の中間にあった煉瓦とコンクリート製の危険物薬品庫がそのまま残っていた。

  診療室の顕微鏡の台も雑草の中、昔のままである。
  切断した手足が山積みされた所へ出てみた時、驚いたことに、草木を刈り、古いトタン板で屋根を作り、
  自然石に「無縁仏」と書かれた碑が2カ所にあり、花や線香も供えてある。
  これは当時の惨状を知る平和養老館の老人達の手で祭られたものでした。
  このように荒廃したこの地で、名も知られず、家へも帰れずに昇天された死者の霊が
  待ち望まれたのだと思います。
  
被爆犠牲者の慰霊碑の建立は、永い間の53班隊長の念願でありましたので、
  この地こそと思い、此の所への碑の建立を決心しました。
  早速、西村隊長より戦友生存者に呼び掛けまして、一同の協力を得ました。
  被爆33年目に当たる昭和53年5月3日に、53班の五三を記してささやなかな碑ではありますが、
  旧53班生存者の総意によって建立することが出来ました。
  これで、昇天された多くの霊をお慰め致し、お助け出来なかったことのお詫びと、
  共に荒廃したこの地で、1945年8月、全身を焼かれ、手足を切断され、苦しみながら、
  名も知られずに死んだ被爆死者が、忘却されることがないように、この地が市内に次ぐ、
  聖地であること、戦争のない、平和を願うためにありたいと祈ります。

 ■ 遺族の人々の祈り
  碑の建立以来、8月に毎年お詣りを続けております。
  その折に碑の前で遺族の人ともお会いする機会も多くなりました。
  遺族の皆さん同音に、お子さんが被爆死された14〜15歳当時の面影のままお話を致されます。
  又、似島まで送られて、それ以後は不明のままにお骨も見つからないとのお話を聞く度に、
  尚更お助け出来なかった事が大変申し訳なく思われまして、せめて、似島の何れかの地中に埋められ
  眠ったままの遺骨の一片でも一体でも探し出して、親元にお返ししたいと決心しました。
  それから被爆当時の似島の様子を知る人の証言者探しを続けました。
 ■ 「少年少女のつどい」との出会い
  1982年8月6日。
  碑の参拝者も当初は部隊員のみと思っていましたが、遠く東北、九州方面から参拝者がありますので、
  参拝者方名簿用のボックスを大阪より持参して、同行参拝者の府中市・山本不二雄、
  尾道市・中西次郎、小原の3人でボックス設置中に、丁度、「少年少女のつどい」の皆さんが碑前で、
  被爆犠牲者の慰霊祭を行うために来られていました。
  引率の実行委員の先生外中・小学生の生徒約250名と出会いました。
  
その時に、広島市川内小学校の米田先生から、8月6日からの似島検疫所での状態を話してほしいとのことで、
  相談の上、私が話すことになり、今まで家族にも他人にも一度も話すことのなかった8月6日よりの地獄のような、
  悲惨な検疫所の様子を、戦後初めて、他人へお話致しました。
  話し中に前に並ぶ生徒の皆さんが、「あの日」苦しみながら、両親の名を叫びながら死んでいった姿と
  ダブって見え、いろいろ思う中に、泣けて涙が流れ出して、お話も途中で幾度も止まりました。
  聞く生徒の皆さんにも話が十分理解できなかったと思います。

  でも、苦しみながら死んでいった犠牲者の死を無駄にしてはならない、戦争の恐ろしさやここであった事実を、
  生きていることの大切さ、平和のありがたさをこの人達に語り継がなければと一生懸命話しました。
  それからは、毎年「少年少女のつどい」の行事日程に合わせて、戦友と誘い合い、同行させていただき、
  話も続けてきました。
  近年、戦友も皆80歳の坂を越えまして、死亡、健康等の都合で、島を訪れるのは一人になりました。
  一人でも命のある限り、お詣りは続けたいと願っています。
  「少年少女のつどい」のある限り、53班が消え去っても、必ず似島が平和のため役立つよう、
  この碑は守られると力強く思い、そうお願いしたいと念じております。
  このような出会いの中に、米田先生に遺骨発掘の思いをお話し致しましたところ、早速ご理解頂き、
  それからの米田先生が遺骨発掘の実現のために、身骨を注いでのご尽力には、
  唯監査Hの言葉以外には申しようもありません。
 ■ 旧幸の浦特別少年特攻隊幹部候補生の皆さん
  1985年からの証言者探しも、何の手がかりもつかめないままに、被爆40回忌も近づき、確かな証言も
  得られず、困り果てた末に、1985年3月被団協新聞に対し、証言者捜しの記事の掲載をお願い致しました。
  多くの人々から連絡をいただきました。
  その中に、8月6日より似島で救援の特別少年特攻幹部候補生であった横浜市の菊池さんより、
  川崎市・丸山直治さんを教えて頂き、早速連絡が出来まして、1986年、来広されて、似島の現地で、
  当時の遺体処理、救護等の状況を証言され、初めて証言を得ることが出来ました。
  同時に「少年少女のつどい」の皆さんに、当時の生々しい様子をお話しされました。
  1990年1月、丸山さんより尼崎の笠江春美さんを教えてくださったので、早速お尋ねして、証言を得ました。
  同年8月、似島へ同行くださって、現地での証言で、当時の様子がいっそうと、丸山さんの証言と合わせて
  現地での証言で、当時の様子がいっそうと、丸山さんの証言と合わせて確認できました。
  笠江さんも「少年少女のつどい」の皆さんへ語り部としてお話してくださいました。
  1990年8月、似島小学校前の市営住宅建て替えの整地中に旧馬匹焼却炉の一部が発見されて、
  被爆死者の荼毘場跡として、広島市の発掘調査のため、証言者として笠江さん、福岡県の服部春一さんの二人
  が証言され、1990年9月7日より広島市の発掘調査が行われました。
  1989年8月にも、服部春一さんは来広され、章現地の南風泊の山手の調査をしたが、地形の変貌が激しく
  発見されなかった。
  1990年4月、証言の地である似島中学校グラウンド横での発掘が、広島市教職員外の80名余参加して行われ、
  骨片3個と万年室1本、旧陸軍の食器片などが発見される。
  53班からも上本数人、中西二郎、小原の3名が参加しました。
 ■ 旧馬匹検疫所、病馬焼却炉(被爆死者毘場跡)遺骨発掘調査
  1990年9月7日からの発掘調査は、原子爆弾が投下された8月6日の日を思わせるような暑い日でした。
  朝10時頃から行われましたが、この作業に当たられたのが、似島の70歳位と思われる男女の老人であり、
  この人達は、あのときを知り、被爆者の世話をした人でありますので、猛暑の中で
 
 「一時も早くお仏に光をあててあげたい」
  の合い言葉で一生懸命に作業される姿には、敬服と感謝の外はありませんでした。
  私も発掘のため、大阪ー広島と数回の行き来をしましたが、何も出来ず、
  唯見守るだけで申し訳ないと思います。
  10月3日の市で行われました慰霊祭までの、発掘された骨片は、砂袋170袋あまりの多量でありましたが、
  広島市では個人の確定が出来ない理由で、遺族へは渡されず、平和公園内の供養塔へ合祀されました。
  遺族の人々の一番の願望であったのに、遺族の人々も、お仏も、さぞ残念であったと思います。
  私自身も、今までの願いも一度に消え去ったような気持ちで、何とも言いようのない残念でなりません。
  でも、骨片であろうと、誰の骨であっても、被爆死された御霊は共に喜んでいただけたのではと、
  自分を慰めている次第です。
  皆さんの証言によれば、この似島には、今だ多くの遺体が土中に埋まったままであると思われます。
  一人でも多く、確かな証言を求めて探したいと考えますが、当時を知る人も皆老齢となり、数少なくなるばかりで、
  急がねばと心の急ぐ毎日です。
  
今度の焼却炉の発掘調査で、骨片でも遺骨の発見が出来たのは、今日世界各地で戦争、争いの多い時、
  軍隊の派遣とか、戦争体験の風化の叫ばれている世相にあって、発掘調査、遺骨発見は、必ず一般市民や
  世論の反映と共に、原子爆弾による惨状の地似島への関心を与えたことは、核兵器廃絶に大きく貢献されると信じ
  被爆死された皆さんの無念さの万分の一でも無駄にならないと信じます。

  この発掘調査実現のために、ご尽力されました米田先生外多くの実行委員の先生には教務の多忙な中での
  ご苦労は大変であったと思います。
  幸の浦少年特別特攻隊幹部候補生の皆さんは「あの日」から、遺体の処理から発掘に至るまで、長い年月を
  似島との拘わりをもって、発掘の実現の証言等のご協力は、被爆死者のみ霊の願いでもあり又導きでも
  あったのではと、因縁の深さを感じます。
  1991年8月に、東京都の加藤さん、川崎市の丸山さん、尼崎市の笠江さんの3人が似島を訪れ、
  霊をお慰めになりました。
 ■ 今日の似島
  「あの日」より地獄の様相を呈した検疫所跡も、今は「青少年自然の家」等レジャー施設と変わって、
  当時を語るものは何一つ残っていない。
  広島市によって1990年に発掘された馬匹検疫所の焼却炉が、旧野戦病院跡地に移設されて、
  似島検疫所戦争遺構として残されています。
  この焼却炉が、必ず、戦争の悲惨さ、残酷さを、そして平和の大切なことを後生の証として、
  語り伝承されるものと信じます。
  
尚、被爆死された幾多の少年少女達が、これからの若い一番大切な青春と人生を
  「なぜ、死ななければならないの。私たち、何も悪いことしてないのに」
  と叫んで死んでいったこの似島が、広島市内に次ぐ整地であることを忘れてはなりません。
  「この悲しみは二度といらない」

  軍備だPKOだと、何の理由があろうと、大切な子ども達死なせてはならない。
  お助け出来ず、何もして上げられなかった多くの昇天されましたみ霊のご冥福を誠心からお祈り致します。
  合掌
 原爆と似島…原爆投下〜終戦


 昭和20(1945)年8月6日 午前8時15分
広島に世界で初めて原子爆弾が投下されました。


 資料:「広島平和記念資料館」




 最初の原子爆弾には、ウラン235が使われました。ウラン235は核分裂を起こすと、中性子を発生しそれが次々と他のウラン235を分裂させ、膨大な熱量と放射線を発させました。1gのウランが完全反応したときの熱量は石炭3,000kg分以上だといわれています。広島に投下された原子爆弾には50kgのウラン235が搭載されていました。これは、石炭に換算すると192,000t 分にも匹敵します。

※実際に核分裂反応をしたウラン235は、1kg弱と言われています。
(TNT火薬換算で約16kt)


資料:「広島平和記念資料館」




当時、推定34万人の人々が広島にいました。

そのうち、原子爆弾投下直後に被害で亡くなった方は14万人以上といわれています。

資料:「広島平和記念資料館」




原子爆弾炸裂の中心温度は100万度にもなり、大量の放射線が浴びせられました。
一瞬で人も家も焼け、その後、音速をこえる衝撃波がおそってきました。
原子爆弾炸裂によって生じたこの衝撃波(スーパーソニック)によって、建物の大半は破壊されました。
なんとか全壊を免れた建物も、今度は原子爆弾炸裂地点の空気が真空状態になり、一気に吹き返しにさらされ、次々と崩れ去りました。
木造の家屋だった広島の家はあっという間に延焼し、焼け野原と化してしまいました。


資料:「広島平和記念資料館」



遠く離れた似島にも被害がありました。これは原子爆弾投下によって破壊された窓です。
原子爆弾が投下された直後、似島の陸軍の施設は本土の施設との連絡が途絶え、強風により窓ガラスが割れました。

ようやく手旗信号により、特殊爆弾により被害を受けた広島から被害者がくるので、検疫所は臨時野戦病院として解放するよう命じられました。


菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏


8月6日午前9時ごろ、検疫所に司令部から島伝いに手旗信号で指令がおりました。
「似島に医療班を待機させ、広島から500人の患者を受け入れる準備をしろ」という内容のものでした。
このときまだ似島では何が起きたのかわかっていませんでした。
すぐに医療チームが編成され、患者を受け入れる準備がされました。それから10分後、広島の街から似島に向かう、多くの船が見えはじめました。
その船は予想以上の数で、まるで押し寄せるようにやってきました。
宇品より負傷者が発動機船や伝馬船で運ばれて来ました。ロープに身体をしばりつけて水面下をえい航されて来た死者もありました。真っ白になった顔が海水にわれている姿をいつも思い出します。」
 「広島平和記念資料館 企画展

 似島が伝える原爆被害 犠牲者たちの眠った島

資料:絵:福井巌




あまりの負傷者の数と予想をはるかにこえた状況に、救護で待っていた人々はとまどいました。
特に、負傷した人々に女性や子どもが非常に沢山多いことに驚き、大やけどの状態に愕然となりました。
負傷者を下船させるために兵士たちも懸命に手伝いましたが、次々に海に転落する負傷者が何人もいました。
負傷した人々にはもはや海面に浮き上がる力もなく、助けたくても負傷者の下船のためその場を離れられず、転落したまま命を失った人も多くいました。


資料:西村繁男「絵で見る広島の原爆」



検疫所の職員によると、原爆が投下されるまで、終戦間際は開店休業状態だったそうです。
それは、戦地に赴いた兵士達がいかに生きて帰還できなかったかを物語っています。
しかし…
昭和20(1945)年8月6日午前10時頃、最初の船から50人ほどのけが人が降ろされてから、5分と間をおかずに次々と船がやってきました。
あっという間に500人の収容人数を超え、さらに同10時台に700〜800人のけが人が似島に運び込まれました

臨時野戦病院になった検疫所も桟橋も軍医や兵士だけではは手に負える状況ではありませんでした。
船が多すぎ、桟橋にたどり着けずに、沖合で待機する船もたくさんありました。


資料:「広島平和記念資料館」



8月6日夕方になると、似島の検疫所は
30棟以上の建物全てが負傷者で一杯になりました。
それ以降に運ばれてきた人たちは入る場所がありませんでした。
そこで、すのこの上、軒下、木の下で過ごしました。

まだ、戦争は終わっていません。空襲警報が発令されると、負傷者も防空壕へ向かいました。やけどでむけた皮膚は地面にすれてシャリシャリと音を鳴らして防空壕へ入った負傷者は、二度と壕からでることはありませんでした。

資料:撮影/陸軍船舶司令部 寄贈/御園生圭輔

10

8月の蒸し暑さ、不衛生さ、十分な医薬品の不足などによって、やけどはどんどん化膿し、全身がウミで覆われたり、ウミで目が開かなかくなったりと負傷者の症状は悪化の一途をたどりました。
「生きて、家族にあおうね」「死ぬんじゃないぞ!」負傷した人々は、お互いに声をかけあって、励まし合いました。
しかし、
「死にたくない」とつぶやく患者…
「死なせて、死なせて」とガラス片で首を切る女性、窓から飛び降りようとする男性、海に飛び込もうとする老人…あまりの苦しさに、死に急ぐ患者も次々と現れました。

資料:撮影/尾糠政美

11

原子爆弾の恐ろしさは、兵士だけでなく、女性、子ども、老人関係なく全ての命を奪っていくことです。
こんな、小さな子どもたちも原爆によって命を奪われました。


日を追う毎に、亡くなっていく負傷者が増えてきました。
最初は、遺体を焼いていましたが、間に合わず、穴をほって埋めたり、防空壕に遺体を入れたりしていました。

資料:「広島平和記念資料館」

12

治療には、オキシドール、ブドウ糖やリンゲル液などを使いました。ただ当時は、体の1/3をやけどしたら死ぬと言われており、なんとか命をつないでいる状態でした。
そのうち、治療薬も底をつきました。
そこで、食用油、灰など薬になりそうなものなら何でもつかいました。

資料:「広島平和記念資料館


13

しばらくすると、患者に未知の症状が現れ出しました。
初めのうちは「赤痢(せきり)」ではないかと思われていました。
高熱が続き、一日に何十回となく血便がでます。
そのため、伝染病棟に隔離される人たちもいました。
不思議と、症状はやけどや外傷の少ない人ほど進行が早く進みました。
吐き気、全身の脱力感が起き、歯茎などから出血し、出血が増えて体力が衰え、亡くなっていきました。
熱はみな40度を超えて、ぜーぜーと呼吸がみだれ、「肺炎(はいえん)」の症状にもにていました。
また、髪の毛が抜けたり、皮膚の表面に「紫斑(しはん)」もでました。
「紫斑(しはん)」は最初は赤い小さな斑点で、やがて黒っぽい紫色になっていきます。これは皮下出血をした症状です。

こうした患者たちが
「急性放射線障害(きゅうせいほうしゃせんしょうがい)」〔原爆症〕だとわかるのは、後のことでした。


資料:「広島平和記念資料館

14

救助には陸軍船舶司令部、通称
「暁部隊(あかつきぶたい)」の少年兵もあたりました。
海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊で、司令部は宇品にありました。
部隊は「野戦船舶本廠(やせんせんぱくほんしょう)」「船舶歩兵団(せんぱくほへいだん)」「船舶訓練部(せんぱくくんれんぶ)」「船舶衛生隊(せんぱくえいせいたい)」「船舶防疫部(せんぱくぼうえきぶ)」などにわかれていました。
幸の浦(こうのうら)の少年兵たちは「船舶練習部」の第10教育隊という名前で
水上特攻訓練を受けていました。

資料:「広島平和記念資料館

15

広島には日清戦争のころからずっと陸軍の最重要拠点でした。
しかし、大部分が原子爆弾によって全滅してしまいました。
かろうじて無事だったのは
「暁部隊(あかつきぶたい)」だけでした。
似島の救助に最も早く出動したのも暁部隊でした。
原爆投下後、35分後には、司令部から市民救助の指令がでていたそうです。

似島にはこの当時、1700人あまりの住民が暮らしていました。
住民は当時も大部分が検疫所の反対側になる家下(似島港のあたり)にありました。似島の住民も広島に出向き100人あまりが亡くなったようです。
原爆の衝撃が収まったころには、家下にも負傷者を担ぎ込む船がおしよせてきました。、お寺にも300人ほどが運ばれました。

資料:「広島平和記念資料館

16

似島の人々は広島にでた家族を心配する余裕もなく、住民総出で負傷者の救助にあたりました。
似島の住民の中には検疫所で働いていた人もいました。

広島の街からも、やけどや負傷を免れた人が救助を手伝いました。
しかし、多くの方が「急性放射線障害」によって亡くなられました。

資料:「広島平和記念資料館

17

 これは、
「千人塚」といいます。千人とは多くの方々という意味です。
 似島には多くの遺骨がそのまま放置されていました。
 その遺骨を拾い集め、弔ったのがこの千人塚です。
 1945(昭和20)年、検疫所の所長以下職員が、白木の柱に『千人塚』と墨書し、塚を建てました。


菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏提供
 @原爆と似島…終戦後の似島 1947(昭和22)年
 
 その後、昭和22(1947)年、島内の遺骨
1,500体を発掘、収集して「広島市戦災死没者似島供養塔」と記した白木の墓標を建てて合祀されました。
 昭和22(1947)年に建てられた
「広島市戦災死没者似島供養塔」は、昭和30(1955)まで、毎年慰霊祭が行われました。
 その後、慰霊碑が建てられ、現在も慰霊祭が執り行われています。
 A原爆と似島…終戦後の似島 1955(昭和30)年7月14日
 昭和30(1955)年に、ここから2,000体の遺骨を掘り出し、平和記念公園の原爆供養塔に納められました。

 B原爆と似島…終戦後の似島 1971(昭和46)年10月〜12月

 昭和46年(1971年)似島中学校農業実習地(馬匹検疫所跡地)から推定517体の遺骨と推定100体分の骨灰が発掘されました。
 また、亡くなった方々が身につけていたものなどの遺品も発掘されました。
 発掘が開始されると、多くの遺骨が折り重なるように掘り出されました。


資料:撮影/佐々木雄一郎




 原爆で犠牲になった死没者の遺品が数多く発掘されました。
当時、遺体は最初、穴に入れて日中火葬していました。
 しかし、当時終戦を迎えていなかったこともあり、夜は水をかけて火を消していました。
 それは、夜間に火をつけると、空襲での標的になる可能性があったからです。



資料:撮影/中谷吉隆


『当時、懸命の治療につかれた、薬瓶やアンプル』

 次々と遺体が増える中、火葬が間に合わなくなりました。そのため、火葬することなく、遺体を穴に埋めました。
 それが、遺骨は遺品として発掘されることになります。

資料:
撮影/尾糠政美



 発掘された遺骨は、身元がわからないまま、棺に納められました。

資料:撮影/中谷吉隆





 馬匹検疫所跡地で遺骨が見つかったことが契機となり、広島市は発掘調査を行いました。
 似島の人たちも発掘作業を手伝いました。
 宮崎さんも自分の船「宮多丸」で宇品(南区の広島港)まで遺骨を運搬しました。
 発掘された遺骨は、広島に戻されました。
 しかし、遺骨の身元が分からず、
広島平和記念公園内の「供養塔」に納められました。

資料:撮影/中谷吉隆




 平和記念館(現:平和記念資料館)で、似島の被爆者の遺品が公開されました。
 このとき、身元の分かった人はいなかったそうです。


資料:朝日新聞社



昭和47(1972)年に慰霊碑が建てられました。

「昭和20年8月6日に 広島市は人類最初の原子爆弾によって 一瞬のうちに二十数万人の死傷者を出した 負傷者は各所に避難し ここ似島にも一万人余におよぶ人人が収容され 応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し 混乱のなかとはいえ一部は仮埋葬のままでこの地に眠り悲しくも二十有余年の歳月が過ぎた。
 昭和四十六年十一月 はからずもこの地から遺骨が発掘され推定五百十七柱を発見し 原爆供養塔に合祀した
 ここに一周年を迎え 諸霊の冥福を祈り平和への誓いを新たにしてこの碑を建立する
昭和四十七年十一月
広島市長 山田節男


↓ 補 足 〔特殊潜航艇「まるゆ」〕 ↓
(上)千人塚の後、赤の○で囲んだ左側が「特殊潜航艇」(マルユ)
菊池俊吉氏撮影・菊池徳子氏提供



 



 一番上の写真は現在の似島中学校あたりに建てられていた「千人塚」(せんにんづか)です。
 その写真に
赤の○で囲った左側の部分に船らしきものが停泊しています。

 これは、
「潜航輸送船」(三式潜航輸送艇)です。
 正式名称を五式陸軍潜航輸送艇、秘匿名称を
「まるゆ」と呼ばれた、陸軍のための潜水艦がありました。
 当時の陸軍が、航空に次ぐ優先順位で総力を挙げて建造に取り組んだ「決戦兵器」でした。
 武器は前部上甲板に搭載された戦車砲の改造型のみで、食糧・弾薬・医薬品等の物資輸送を任務としました。

 この潜航艇は太平洋戦争中のガダルカナル島の戦いで、日本陸軍が補給に苦しんだことをきっかけに開発されました。
 制海権を急速に失った日本軍は、ガダルカナル島の戦いで日本の輸送船団が壊滅してしまいます。
 高速の駆逐艦を利用した輸送部隊も撃破され、食料弾薬の十分な補給ができなくなります。
 そこで敵に発見されにくい潜水艦での補給を行うことが計画されたのが製造のきっかけとなります。

 38隻が1型として建造されます。
 航行能力が低かったため、昼間は沈座してやり過ごし、夜間だけ浮上して航行することとされ、急速潜行能力は求めないものとされました。
 1型は昭和19(1944)年から就役して潜行輸送隊に配備され、フィリピンや沖縄への補給任務を行いました。

 積載できる物資が少なかったことや航続距離が短かったことから2型の開発が行われます。
 2型は海軍の協力のもとに開発されましたが、就役を待たず終戦を迎えます。

 小型なこともあり、居住性能はかなり劣っていたようです。
 便所はドラム缶を使用したために艇内に臭気が充満していました。
 狭いまるゆは艇長室でさえ1畳大の広さしかなく、乗組員達は「本物の」潜水艦に出向く度に、その「広さ」を羨ましがったそうです。。

 第二次世界大戦中に陸軍で潜水艦を建造していたのは日本陸軍だけでした。
 そのため、日本の陸海軍の意思疎通の悪さ、協調・協力のなさの例として挙げられることが多いようです。


 敗戦した日本は、連合軍(アメリカ)の命令により、「潜航輸送艇」(マルユ)の一部は似島沖に集められました。
 それが、一番上の写真になります。

 煙突のようなものが3本くらいみえるのは、「潜航輸送艇」(マルユ)の艦橋で、何台もならんで浮かんでいるために、このようにみえます。


 C原爆と似島…終戦後の似島 1990(平成2年)11月

※ 検疫所職員によって、埋葬された遺骨(千人塚)については、昭和35(1955)年に、
平和記念公園内の原爆供養塔に納骨されています。




資料: 「広島平和記念資料館 企画展
   

 平成2(1990)年9月旧
陸軍馬匹検疫所焼却炉跡(現在の市営住宅の場所)からスコップ300杯分の骨片、骨灰が発掘されました。

※「馬匹」と書いて「ばひつ」と読みます。 


撮影佐々木雄一


 この遺構は、似島臨海少年自然の家から約600m南にある市営住宅用地内で発掘された馬匹検疫所焼却炉の一部を当地に移設したものです



 被爆時、似島には約1万人の負傷者が収容されたものの、死亡者が続出しました。
 遺体の一部がこの焼却炉において荼毘に付されました。



 陸軍馬匹焼却炉(一部)
 推定、1000体の遺体がここで焼かれたと言われています。


「馬匹焼却炉」の碑文
旧陸軍運輸部馬匹(ばひつ)検疫所焼却炉
この遺構は、平成2年(1990年)、ここから約600メートル南にある似島住宅用敷地内で発掘された旧陸軍運輸部馬匹検疫所(軍馬の検疫・消毒を行う施設)の焼却炉の一部を移設したものです。昭和20年(1945年)86日、広島市は人類最初の原子爆弾によって一瞬のうちに壊滅し、多くの死傷者を出しました。この年の12月末までに約14万人の人が死亡したとされています。ここ似島にも、約1万人の負傷した原爆被爆者が収容されましたが、応急看護のかいもなく死亡者が続出し、その遺体がこの焼却炉においても火葬されたものです。ここに、原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるとともに、恒久平和への誓いを新たにしてこの遺構を保存します。
平成3年(1991年)2月 広島市




 陸軍馬匹焼却炉(一部)
 D原爆と似島…終戦後の似島 2004年(平成16年)7月

 平成2(1990)年、犠牲者を火葬した馬匹焼却炉の遺構を広島市が調査しました。そのとき、人とも馬とも分からない骨灰や骨片がでてきました。

「これで、もう遺骨はないだろう」と世間の人は思いました。

 しかし、似島の人は「まだ、残っている」と確信していました。




 「被爆した肉親の行方探しがかなわず、残念そうに島を去る遺族の方々の表情をたくさん似島の人々はみました」と話していました。

 また、墓標のあった場所を覚えている人もいました。

 その場所は、民間のみかん畑だったので、昭和46(1971)年)の調査対象から外れていました。





「わたしたちが生きているうちに、骨を遺族に返してあげたい。このままいしておくわけにはいかない。」

 似島のお年寄り達や町内連合会の方々が広島市に調査を依頼しました。

 似島の人と広島市の職員と話をし、記憶を頼りに調査を行いました。




 調査を開始すると似島の人の証言通り遺骨が発見されました。

 広島市が調査区域を追加拡大したのは、似島の人たちの記憶が決めてとなりました。

 平成16(2004)年7月
 発掘場所から隣接した場所からさらに、
85体の遺骨と65の遺品が発掘されました。



 原子爆弾が広島に投下されて59年…亡くなられた方達の遺骨は、発掘され「供養塔」に納められました。



 原爆によって似島で亡くなられた方達の冥福が祈られました。



 発掘された遺品の数々。
 原爆死没者の遺品六十五点の公開展示が、平成16(2004)年7月29日に原爆資料館東館の一階ロビーで行われました。
 59年前の原爆投下直後、ケガややけどをして、似島に運ばれたかもしれない…肉親を求めて公開展示に原爆死没者の遺族があつまりました。



 65点の遺品が見つかりました。
その遺品が遺族の元に戻ったのは今回が初めてでした。

 似島の原爆死没者の遺骨発掘調査から見つかった名札から肉親がわかりました。妹(当時14歳)のもので、名札はお兄さんに引き渡されました。


 お兄さんは「被爆から五十九年目にして、初めて妹の声が私の耳に届いたように思う。無念さ、悲しさは言葉に表せない」と語ったそうです。

 

 

 

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