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ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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似島臨海少年自然の家は昔、日露戦争より陸軍第二検疫所という軍事施設がありました。 その軍事施設の一角に「ドイツ人俘虜収容所」が設けられました。 「俘虜(ふりょ)」というのは、現在でいう「捕虜(ほりょ)」のことです。 大正6(1917)年、大阪収容所が移転することになり、日露戦争時の陸軍検疫所建物に、 ドイツ将兵536人、オーストリア兵9人が収容されました。 似島陸軍第二検疫所に連れてこられたドイツ人に、 バウムクーヘンを日本で初めて焼いた『カール・ユーハイム(Karl Juchheim;1886-1945)』、 甲子園で初めてホットドックを販売した『ヘルマン・ヴォルシュケ(Hermann Friedrich Wolschke;1893-1963)』 日本にサッカーを伝えた「似島イレブン」の一人『フーゴー・クライバーHugo Klaiber;1894-1976)』 といった、後の日本に深くかかわった捕虜たちもいました。 似島陸軍第二検疫所の併設された「ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所」について、ここでは紹介していきます。 ※ 参考資料・情報提供:チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会 ※ 参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会 ※ 情報提供:宮崎佳都夫 様 ※ 参考資料:官報(国立国会図書館 デジタルアーカイブ) ※ 参考資料:新広島(フジテレビ系列) 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』 ※ 参考資料:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜 ※ 資料提供:写真家 藤井 寛(ふじい ひろし) “似島独逸俘虜収容所井戸”“独逸俘虜技術工芸品展覧会”写真 ※ 資料提供:2014年度「調査研究報告」〜ハム・ソーセージでドイツと日本を結んだ〜 ヘルマン・ウォルシュケさんの足跡をだどる会 ※ 参考資料:「ユーハイムグループ」 【このページの内容】 1 ドイツ人が捕虜として日本に連れてこられたいきさつ 2 日本各地のチンタオ・ドイツ人俘虜収容所 3 板東俘虜収容所 4 似島俘虜収容所 5 似島俘虜収容所の様子 6 『カール・ユーハイム(Karl Juchheim:1886-1945)』 7 『ヘルマン・ヴォルシュケ(Hermann Friedrich Wolschke1893-1963)』 8 似島イレブンと『フーゴー・クライバーHugo Klaiber;1894-1976)』 |
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ドイツ人が捕虜として日本に連れてこられたいきさつ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
欧州各国は、世界各地を植民地化していました。 植民地獲得競争に遅れをとったドイツは、明治4(1871)年にドイツ帝国が成立すると、直ちに植民地の獲得に乗り出しました。 ドイツ帝国は、明治17(1884)年に南西アフリカを、明治19年(1886)年には東アフリカを保護領として獲得しました。 しかし、アフリカの植民地は、ドイツにとっては必ずしも望ましい土地ではなかったようです。 特に南西アフリカでは、て大規模な反乱が起こりました。 激しい戦闘が繰り広げられ、また原住民が思うようにならないため、植民地経営も計画通りにいかなかったようです。 そこで、目をつけたのが中国でした。 市場として巨大な中国に、拠点を築くのがドイツの念願でした。 明治18年(1885)年、南太平洋のマーシャル群島を獲等したのを始めとして、やがてスペインからカロリン諸島、マリアナ諸島等を二千万マルクで買い取りました。 南太平洋ではグアム島を除くほぼ全ての島を手中にしました。 これらは、中国進出への第一歩だったといえるでしょう。 しかし普通の方法では、中国の領土を手に入れることはできませんでした。 当時、イギリス、フランス、ロシアなどが領土を手に入れていましたが、それは紛争や戦争などの軍事的な行動により獲得したものでした。 明治28年(1835)年の時点ですでにドイツは、将来中国に設けるべきドイツ東アジア艦隊の基地として、三都湾、膠州湾、舟山島、厦門、膨湖諸島、香港に近い大鵬島の六ヶ所を挙げていました。 その中でも膠州湾が最適であると考えていたようです。 <宣教師殺害事件とドイツ帝国の中国進出> 明治30年(1897年)11月14日、山東省曹州府鉅野県張家荘という、山東省でも地の利の悪い辺鄙な村にあった教会堂で、ドイツ人宣教師2名が殺害される事件が起こりました。 この事件は、ドイツにとって格好の口実ができたことになります。 二週間後には早くも、ディーデリヒス中将率いるドイツ東洋艦隊の軍艦三隻が青島沖に進出しました。 青島には当時、約2,000の清国兵が駐留して、大小五つの兵営がありました。 列強の軍艦が頻繁に出没していたことから、清国側も警備を強化していたようです。 しかし清国の軍隊はドイツの艦船が湾内に入ることも、上陸することも阻止しませんでした。 清国側は儀礼訪問のためにドイツの艦船が訪れたと誤解していたようで、歓迎の意を表そうとしたようです。 実は、ドイツ軍の軍艦もそのように錯覚させる行動を見せていたのです。 軍艦から続々とドイツ兵が上陸しても、清国兵たちは何の警戒心も見せませんでした。 ドイツ軍は町を確認し、万一攻撃する場合には一番条件がよいと思われる場所に集結すると、ドイツ軍は清国の章高元司令官に対して、三時間以内に武器を放棄して15キロ先の町滄口まで退却することを要求しました。 これに対して、何の警戒もしていなかった清国兵は、なすすべもなく要求に従わざるを得なかったのです。 <九九ヵ年の租借(そしゃく)> 明治31(1898)年3月6日、ドイツと清国の間で独清条約が締結されました。 その主な内容は… ○ 宣教師二名殺害への賠償金 ○ 青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借 ○ 青島・済南間430キロ、及び張店から博山までの支線40キロの鉄道敷設権 ○ 沿線15キロ以内での鉱山採掘権等の取得 賠償金以外のものがドイツにとってねらっていた利権でした。「99ヵ年の租借」という方法は、ドイツが初めて考え出したものです。 この案をやがて他の列強の国々も模倣することになります。 ドイツは総督府を置くとともに、海軍に所属する海兵隊と砲兵隊合わせて約1,500の兵員を駐屯させ、市街地の形成に取り掛かかりました。 ドイツ占領時の青島は、清国の兵営こそ小さなものを含めて五つほどありましたが、実質的には2,000人ほどがほそぼそと暮らす小さな村に過ぎませんでした。 住民たちは専ら漁業を営んでいましたが、それは畑となる耕作地が乏しかったことと、そもそも山東半島には満州族が多く、女性は纏足をしていたために畑仕事をすることができませんでした。 周辺の山の多くは、住民が木を切って薪にするために禿山同然の状態で、勢い土地も肥沃ではありませんでした。 <日本軍の侵攻と、ドイツ人捕虜> 大正3(1914)年6月28日、セルビアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されました。 それがきっかけとなり、1ヶ月後の大正3(1914)年7月28目第一次世界大戦が勃発することとなります。 やがて日本は日英同盟の誼から、大正3(1914)年8月23日にドイツに宣戦を布告し、陸海軍合わせて7万余の大軍を、中国山東半島の青島を攻撃するために派遣しました。 青島は明治31(1898)年以来、ドイツが極東進出の拠点とした租借地の要の都市でしたので、そのため、多くのドイツ人が日本軍の捕虜となり、日本に連れてこられることになります。 <山東半島とは> ドイツが欲しがった膠州湾や青島がある山東半島、ここには孔子の生地曲阜や名山で知られる泰山を有する山東省があり、中国でも早くから文明・文化が開けたところです。 山東半島の気候は比較的温暖で、養蚕が行われ白菜、落花生等の農産物に富み、大規模な塩田で知られた膠州湾の後背地は、石炭を始めとする鉱物資源も豊かです。 明治42(1909)年から大正3(1913)年の五年間の統計では、平均すると最高気温は7月が29度6分、8月は32度1分、9月が28度2分、最低気温は 12月が零下8度2分、1月で零下11度9分、2月は零下10度1分となっているそうです。 最低気温はかなり低いですが、中国の中では気候の面で比較的恵まれているといえます。 <青島の名称の由来> 青島の名は、沖合いに小さな島「青島」があることに由来します。 中国では、島に面する海岸部近くの集落にその島の名が付けられることがあるそうです。 |
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日本各地のチンタオ・ドイツ人俘虜収容所 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本軍の侵攻により、青島郊外で本格的な戦闘が始まりました。戦争が激化するとドイツ将兵が日本軍の捕虜となる事態が起こりました。 そこで大正3年(1914年)10月、久留米に最初の俘虜収容所が設置されました。 日独戦争でのドイツ兵俘虜(ドイツ人だけではなく、オーストリア人やハンガリー人等の様々な俘虜がいた)は4,697人でした。 <俘虜収容所開閉一覧表> 久留米‥大正3年10月 6日開始、大正9年3月12日閉鎖 熊本‥‥大正3年11月11日開始、大正4年6月 9日閉鎖 (久留米へ移転) 東京‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月 7日閉鎖 (習志野へ移転) 姫路‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月20日閉鎖 (青野原へ移転) 大阪‥‥大正3年11月11日開始、大正6年2月19日閉鎖 (似島へ移転) 丸亀‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月21日閉鎖 (板東へ移転) 松山‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月23日閉鎖 (板東へ移転) 福岡‥‥大正3年11月11日開始、大正7年4月12日閉鎖 (久留米、習志野等へ) 名古屋‥大正3年11月11日開始、大正9年4月 1日閉鎖 徳島‥‥大正3年12月 3日開始、大正6年4月 9日閉鎖 (板東へ移転) 静岡‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転) 大分‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転) 習志野‥大正4年 9月 7日開始、大正9年4月 1日閉鎖 青野原‥大正4年 9月20日開始、大正9年4月 1日閉鎖 似島‥‥大正6年 2月19日開始、大正9年4月 1日閉鎖 板東‥‥大正6年 4月 9日開始、大正9年4月 1日閉鎖 階級によって異なってはいましたが、平均すると俘虜一人当たり1ヶ月に、葉書と封書を合わせて3通の郵便を差し出すことが許されていました。 しかも俘虜郵便扱いとして無料でした。 家族からの便りは、健康で過ごしているかを尋ねるものが多かったようです。 〔家族にあてた手紙の一例〕 「前略 今日、君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のデイーデリヒセン気付だ。それを除けばここでは、まだまあまあってところだ。ただ、やはり一人、また一人とまいり始めている。7月7日付けの小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけれど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」 <俘虜の給与> 俘虜郵便の規定同様にハーグ条約によって、俘虜には俸給が支給されていました。 支給月額は、日本の同等将校・兵卒が受けるのと同一額ででした。 この規定に沿って、海軍将校への俸給を四捨五入して円単位では… 中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円でした。 ちなみに、下士以下は日給30銭でした。 俘虜の中で最高月俸はマイヤー・ヴァルデック海軍大佐の280円でした。 菓子職人のカール・ユーハイムの場合は二等兵扱いであったため、月給換算で9円(4〜5万円)ほどでした。 ※ 当時の100円は今日(2000年代)において40万円〜50万円なので、4,000〜5,000倍に相当しました。 マイヤー・ヴァルデック海軍大佐の場合だと、約131万円/月となります。 ※ 明治元年、白米10kgの価格は55銭程度でした。 2000年代の全銘柄平均の白米10kgの価格はおよそ2,100〜2,700円なので、1円は4,000〜5,000円程度の価値があるといえます。 ドイツやチンタオで待つ、家族に送金することも許されていました。 また、家族からの仕送りも許されており、家族からの届く荷物を楽しみにしていた俘虜も多くいたようです。 <俘虜の労役> 強制労働はハーグ条約で禁止されていました。 日露戦争に勝利した日本は、なんとか世界の一等国の仲間入りを目指していましたので、国際条約を遵守しました。 第一次世界大戦時の日独戦争に関する「大阪俘虜収容所記事」によると、大正4年(1915年)1月から収容所の炊事室の炊事当番には、1日当たり下士7銭、兵卒4銭の手当てが支給されていたようです。 また、民間の麺麹所での就労では1日50銭の賃金を受けています。 大正5(1916)年頃からは、徳島、習志野、名古屋、大分の各収容所で俘虜の労役が始まり、特に徳島では活発に行われました。 やがて収容所の整理統合が行われると、名古屋、板東、久留米では大規模な形で労役が行われるようになります。 下級兵卒にとっては、ちょっとした収入源にもなったようです。 <俘虜の懲罰> 収容所に容れられた俘虜にとっての義務は、朝晩二回の点呼を整列して受けること以外には、ほとんど強制された義務はありませんでした。 しかし5年余の収容期間には、各収容所で大なり小なり俘虜の懲罰がかなりの頻度で行われました。 <傷痍軍人> 俘虜関係の諸文献では、サッカーやテニス、組み体操や競歩など、日の当るスポーツが取り上げられることが多くみうけられます。 しかし、義肢、義足や義眼の俘虜もおり、日本に移送されてから、負傷兵に義足などが「贈られた」、と公的な文書に記されています。 <俘虜収容所の変遷> 日独戦争が終結して、4,700人近い俘虜を収容する収容所が必要になりました。 当初、収容先としては寺を使用する事が多かったようです。 その理由は、当時は大勢の人間を収容できる施設としてはお寺以外に、学校などわずかしかなかったからです。 そこで当初、西日本を中心に20ヶ所の収容所が設置されました。 俘虜収容所が設置された都市は、管轄する陸軍省の意向でしたが、収容所の設置をめぐっては誘致合戦も行われました。 数百人の俘虜が滞在することは、経済効果も大きかったのです。 戦争は一向に終わる気配がなく、年月が過ぎていきました。 そこで仮収容所的な寺から、本格的な収容兵舎を建設する必要が生じました。 このとき、12カ所の収容所を、6ヶ所に統合しました。 最初からの収容所である久留米と名古屋はそのまま存続しましたが、新たに習志野、青野原、似島、板東の4ヶ所の収容所が設けられることになりました。 |
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似島俘虜収容所 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日独戦争は一ヶ月半で終わりましたが、欧州では戦争は終結せず終わる気配がありませんでした。
収容所の運営は各収容所の所長に任されており、似島俘虜収容所のおおらかな雰囲気は、当時の所長であった菅沼来(すがぬま らい)のおかげともいわれいます。
その『シーボルト博物館』には俘虜(捕虜)として捕られられていたドイツ人俘虜たちが、家族等にあてた手紙(はがき)が残されています。
第一次世界大戦ごろから、日本も国際社会に知られるようになっていきます。そんな中、日本は国際条約(ハーグ条約)にのっとり、捕虜の扱いは寛大でした。
整理・統合後の収容所では、やがて各種の展覧会や音楽会、スポーツ大会が開かれました。
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似島俘虜収容所の様子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ドイツ菩提樹 独日文化交流育英会寄贈 日本名:フユボダイジュ(学名:Tilia cordata Mill) ヨーロッパからカフカスに分布するシナノキ科の落葉高木。 原産地は東欧。枝葉が密生し、樹形はドーム状になる。 香りの良い淡黄色の花を開く。 このボダイジュは、似島臨海公園敷地内にドイツ軍俘虜収容所が設置して あったことを記念するとともに、独日友好を祈念するためにドイツから贈られたものです。 平成16年(2004年)2月 広島市 |
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『カール・ユーハイム(Karl Juchheim;1886-1945)』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今では誰もが知る洋菓子、バウムクーヘンはドイツ人捕虜によって、日本で初めて造られました。 カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは明治19(1886)年にドイツのカウプ・アム・ラインで、父フランツと母エマの13人兄弟の10番目の息子として生まれました。 カールは幼いときから、菓子職人になるのが夢でした。 国民学校を卒業後に菓子店で修行をしながら、夜間の職業学校へ通い、22歳の時、菓子店協会の会長に勧められて、当時ドイツの租借地であった中国・青島市で、ジータス・ブランベルグの経営する喫茶店に就職します。 翌年、ブランベルグから店を譲り受けて、自らの喫茶店「ユーハイム」を開店しました。 カールの造るバウムクーヘンは、本場ドイツの味と同じと、在留ドイツ人の間で大評判になりました。 1914年春に帰郷し、エリーゼ・アーレンドルフと婚約、夏に青島市にて結婚式を挙げます。 そして、二人は青島市(チンタオ)にて、店を開きます。 しかし、この直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦します。 イギリスはドイツに宣戦布告。 イギリスと同盟を結んでいた日本軍は、青島市に駐留するドイツ軍を攻撃し、青島は11月に陥落してしまいます。 投降したドイツ軍将兵は3906人でしたが、日本軍は4000名の大台に乗せるべく員数合わせのために、翌年9月になって在留民間人を捕虜に加えたと云われています。 この中に非戦闘員(民間人捕虜)だったカール・ユーハイムが含まれており、当時妻エリーゼは妊娠初期でした。 カール・ユーハイムは非戦闘員でしたが、19歳〜49歳の男性は準戦闘員とされており、捕虜となることを逃れていたカール・ユーハイムもとうとう捕まり、日本に連行されることになります。 カールは大阪俘虜収容所へ移送されたましたが、青島に残した妻と、未だ見ぬ子を思い悩む日々を送ったことでしょう。 大正6(1917)年2月19日、似島独逸人俘虜収容所が開設されるのにあわせて、インフルエンザ予防のため、捕虜全員が広島にある似島検疫所へ移送されました。 大正7(1918)年11月、ドイツは降伏します。 ドイツが降伏してからは、カール・ユーハイムたちには、よりいっそうの自由が与えられることになります。 大正8(1919)年3月になって広島県が、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品の、展示即売会を開催することになりました。 カール・ユーハイムはヘルマンに勧められてバウムクーヘンなどの菓子造りの担当になりました。 カール・ユーハイムはバウムクーヘンを焼くための堅い樫の薪や、当時はなかなか手に入らなかったバターなど、材料集めに苦労したそうですが、バウムクーヘンを焼き上げることに成功します。
広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)で、開催されたドイツ作品展示会にて製造販売を行います。 これが日本で初めて造られたバウムクーヘンです。 カール・ユーハイムは青島市が日本軍に占領されていた頃、日本人はバターの量が少なめが良いとの経験則を持っていました。 この日本人向けにアレンジした味のバウムクーヘンは、大評判を呼び好調な売れ行きとなりました。 日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、殆どのドイツ人は本国への帰国を希望しましたが、カール・ユーハイムは青島市に戻る予定でいたようです。 しかし、青島市ではコレラが流行しているとの情報を知り、日本残留を決意します。 ちょうど明治屋が銀座に喫茶店「カフェ・ユーロップ」を開店することになり、社長・磯野長蔵から製菓部主任の肩書きで迎えられることになります。 カールの造菓子は高い評価を得るようになり、最も人気があったのはバウムクーヘンでした。プラムケーキも品評会で外務大臣賞を得たこともありました。 カール・ユーハイムはようやく生活の基盤も整い、妻・エリーゼと息子・カールフランツを青島市から呼び寄せ、この店の3階で親子三人、仲睦まじい生活ができるようになります。 大正11(1922)年2月、カフェ・ユーロップとの契約が終わりを迎え、今後の生き方を模索している中、ロシア人・リンゾンから横浜市中区山下町で経営していたレストランを、売りたいとの話が持ち込まれます。 カール夫妻は横浜まで視察に出向きます。 売却額は3,000円(約8,400万円)でしたが客の入りは悪く、リンゾンの滞納した家賃や滞った仕入先への支払を肩代わりする条件までつけられました。 カール・ユーハイムは断ろうとしましたが、エリーゼは「神の声を聞いた」として購入することにします。 店の名前はカールの姓とエリーゼ(Elese)のEをとって「E・ユーハイム」と名付け、ドイツ風の軽食も出す喫茶店にしました。 近隣には昼食を手頃な価格で出す店がないこともあって、店は評判を呼び大いに繁盛しました。 しかし、大正12(1923)年9月1日、関東大震災によって横浜は瓦礫の山となりした。 山下町も壊滅的な被害となり、E・ユーハイムも焼失していまいます。 残っていたのはポケットに入っていた5円札一枚で、それ以外の全ての財産を失ってしまいました。 カール一家は神戸市垂水区塩屋の知人宅に身を寄せ、神戸で再起を図ることになりました。 何もかも失ったカールはトアホテルへ勤めようとしたが、バレリーナのアンナ・パヴロワの勧めで、生田区(現・中央区)三宮にあるサンノミヤイチと呼ばれる三階建ての洋館に店を構えることにします。 救済基金から借りた3,000円を元手に、喫茶店「ユーハイム」を開店。 横浜時代に育てた弟子達も応援に駆けつけました。 しかし、借金だらけで床に麻袋を敷いて寝る日々だったようです。 第一次大戦と捕虜生活、関東大震災を生き延びてきた気丈な二人は、「ワタシタチハ ヨコハマデ イッショウブンノ カナシイオモイヲシマシタ デモ ワタシ タッテイマス」という、エリーゼの言葉で頑張り抜きます。 カールの エリーゼの「お母さんの味、自然の味」「体のためになるから美味しい」「小さく、ゆっくり、着実に」といった優しい心。 二人の仕事に対する厳しさと、優しさがユーハイムの菓子造りの、伝統として受け継がれています。 ユーハイムでは売れ残りのケーキは、窯で焼いて捨てるという習慣があり、現在も弟子達に引き継がれています。 弟子達に対しては衛生面に気を付けるように厳しく指導していました。 毎日入浴し、三日に一度は爪を切り、汚れのついた作業着は着ない。 カフェ・ユーロップに勤務していた時代には、初任給が15円のところ、風呂代と洗濯代として毎月3円を支給していたということです。 原料についても常に一流店が扱う一流品を仕入れました。 その姿勢は国内で良いものが手に入らないと、ラム酒はジャマイカから、バターはオーストラリアから取り寄せるなど徹底していました。 開店してから一年ほど経つと、ユーハイムの菓子を仕入れて売り出す店も現れるなど、経営は順調に拡大していきます。 大丸の神戸店が洋菓子を売り出し、近隣の洋菓子店がバウムクーヘンを模倣して売り出したましたが、ユーハイムの人気が衰えることはありませんでした。 昭和12(1937)年頃からカール・ユーハイムの体調に変化が現れます。 エリーゼはカール・ユーハイムの振る舞いに尋常ならざるものを感じ、カール・ユーハイムを精神病院に入院させます。 カール・ユーハイムには病識がなく問題行動を度々起こすようになり、ドイツで治療を受けさせることにしました。 カール・ユーハイムは数年後に帰国しましたが、以前のように働くことはできませんでした。 昭和20(1945)年にカール・ユーハイムは六甲山にあるホテルで静養することになりましたが、昭和20(1945)年8月14日にエリーゼと語り合ったまま世を去っていきました。 カール・ユーハイムは死の直前に、 昭和17(1942)年にドイツ軍に徴兵されていた、息子のカールフランツは死んだと断言。 そして、最後の言葉は「俺にとって菓子は神」と言って、息を引き取きとりました。 エリーゼは「死ぬことが少しも恐ろしくなくなった」と語ったほど、カール・ユーハイムの死に顔は優しく安らかだったということです。 翌日、日本では玉音放送が流れ、ポツダム宣言の受諾が発表されました。 そして、昭和20(1945)年9月2日に太平洋戦争が終結します。 昭和22(1947)年になってカール・フランツは昭和20(1945)年にウィーンで戦死していたことが判明します。 カールの死後、遺族はドイツに強制送還されます。 カール・フランツが大戦中にドイツ軍に従軍したこと、エリーゼが在日ドイツ人婦人会の副会長を務め、本国へ帰国した経歴があることが理由でした。 昭和23(1948)年になり、かつてユーハイムに勤務していた弟子達が、ユーハイムの復興を目指します。 昭和28(1953)年にエリーゼはドイツから戻り、会長として迎えられ、その後も社長として陣頭指揮にあたりました。 エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、昭和46(1971)年5月に他界しました。 ユーハイムは戦後の洋風化ブームや、1977年から1978年にかけてNHKが放映した連続TV小説「風見鶏」から起こった異人館ブームで業績は急拡大します。 神戸から全国百貨店に展開する洋菓子メーカーとして、モロゾフと双璧的存在となります。 ちなみに、日本ではなじみ深いバウムクーヘンも、本場ドイツでは普段あまり見かけることはありません!(びっくり) それは、バウムクーヘンをつくるのがとても大変だからです。 ドイツではバウムクーヘンは"卵"“砂糖”“バター”“粉”だけで、しかも手作りでつくられています。 とても、手間暇がかかり、材料代も高いので、売値も高くなり、クリスマス等特別な催しがあるときにしか焼かれないそうです。 |
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『ヘルマン・ウォルシュケ(Hermann Friedrich Wolschke;1893-1963)』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神奈川県厚木市にはヘルマン・ウォルシュケの工場があります。ここは、ハムやソーセージの老舗です。 ヘルマン・ウォルシュケの生まれ故郷は、旧東ドイツの炭鉱町、『ゼンフテンベルグ』です。 明治26(1893)年、『ゼンフテンベルグ』のラウノのという小さな町に生まれます。
ヘルマン・ウォルシュケは大正5(1916)年に大阪の収容所に送られます。 その後、全国12カ所に設けられていた独逸人俘虜収容所は、習志野、名古屋、青野原、板東、久留米、似島の6カ所に整理統合され、それにあわせてヘルマン・ウォルシュケも大正6(1917)年2月19日クスターフ・ハッツ中佐以下543人の一員として似島に収容されます。 似島時代、食肉加工職人だったケルン、シュトルの三人で、広島のハム製造会社で技術指導をしました。広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売会では、バウムクーヘンを出品するようにユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品しました。 大正8(1919)年12月25日付の中国新聞の記事には、当時29歳のヘルマン・ウォルシュケは、他の独逸俘虜2人がハムの製造に熟練しており、廣島市廣瀬町水入町旭ハム製造所酒井商会に出かけて製造方法を教えていました。 第一次世界大戦のとき、中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となったドイツ兵は4,000人をこしました。 大正5年(1916年)、捕虜の中には、カール・ヤーン、バン・ホーテン、ローマイヤー、ヘルマン・ウォルシュケなどの食肉加工の技術者がいました。 第一次世界大戦の終結を迎えて、大正8年(1919年)捕虜のほとんどがは帰国の途につきましたが、ヘルマン・ウォルシュケはローマイヤーなどとともに日本に残りました。 大正11(1922)年には明治屋に雇われ、もっぱらソーセージやハムの製造指導を行いました。 解放後は、明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になりました。 独立してからはいろいろなメーカーにも協力したそうです。 ベーブルースが来日した昭和9(1934)年、ヘルマン・ウォルシュケはホットドッグを作って日本で初めて甲子園の観客に売りました。 ほとんどの日本人にとって、未知の食べ物でした。 めずらしさと、美味しさのため、球場では爆発的に売れます。 ソーセージの普及をねらって銀座街頭での試食会を企画したこともあるようです。 ヘルマン・ヴォルシュケは大柄でやさしい人だったそうです。 経営者というよりコツコツと働くことのすきな、根っからの職人でした。 昭和初期には農村不況対策として畜産振興が叫ばれるようになります。 狛江にも東京府連(後に都農業会)の施設が旧野川と六郷用水合流点辺りにでき、仔豚の斡旋や近隣から出荷される牛や豚の解体・加工を始められていました。 敗戦後、この施設は民間に払い下げられたましたが、ヘルマン・ウォルシュケは敷地の一角を借り受け、自営の工場を造り、ハム、ソーセージの本格的製造に乗り出します。 後に現在高野の工場のあるところに移り、事業を拡張していくことになります。 昭和14(1939)年、第二次世界大戦が勃発し、東西ドイツの分裂。1961年(昭和36年)東西ベルリンが閉鎖されます。 東ドイツにあたるヘルマン・ウォルシュケの故郷はますます遠くなっていきました。 日本とドイツは、第二次世界大戦中は同盟国でしたが、ヘルマン・ウォルシュケは幽閉生活を余儀なくされます。 ソーセージづくりも禁じられました。
第二次世界大戦が終わり、戦後からは商売も軌道にのり、順調に売り上げも上がっていきました。 望郷の念にあったのか、故郷のドイツに風景が似ているということで、軽井沢に別荘を建てて住み始めます。 軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業し、終生日本で暮らしました。 教会でドイツ人牧師ハロルド・エーラさんから群馬県の養護施設小持山学園の話を聞いたことが機縁となり、学園と深い交流を持つようになります。 毎月届けた、ハムやソーセージは、学園の子どもたちの栄養向上にたいへん役立ったということです。 晩年は、故郷についてほとんどヘルマン・ウォルシュケは語らなくなっていました。 昭和32(1957)年、ヘルマン・ウォルシュケのもとに一通の手紙が届きました。 その手紙はなんと32年前に投函された手紙でした。 混乱の中、戦時中を除いて、日本とドイツを行き来した手紙は、日本に6回も帰ってきた後、ようやくヘルマン・ウォルシュケの元に届いたものでした。
この手紙によって、封じ込めていた望郷の念がヘルマン・ウォルシュケの心にあふれ出します。 「死ぬまでに、もう一度故郷に帰りたい…。」 当時、入国がきわめて困難だった東ドイツでしたが、ヘルマン・ウォルシュケは奔走し、故郷に帰れる段取りがつきました。 全ての手続きが終わり、1963年3月27日、1週間後に出国と決まったそのとき、突然の心臓発作にて死去してしまいます。 69歳でした。 日本で暮らして半世紀、「ホットドッグ」を日本に広めたヘルマン・ウォルシュケの墓は、東京狛江の泉竜寺にあります。 墓碑には、「遙かなる祖国ドイツを誇り、第二の祖国日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されています。 今は神奈川県厚木市で、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏(二代目)が後を継いでソーセージ製造に従事しました。
大量生産に頼らない、父親から受け継いだ職人の技は、じっくりと時間をかけて作られ、その意志は現在も生きています。 |
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似島イレブンと『フーゴー・クライバーHugo Klaiber;1894-1976)』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日独戦争に敗れて日本に送られる以前、ドイツ兵たちは青島の練兵場兼グラウンドで、時にイギリス海軍の兵士たちとサッカーの試合を行っていました。 一方日本では、サッカーはまだまだ未知のスポーツでした。 似島の俘虜たちは、既に大阪収容所時代にサッカーチームを結成していて、1軍と2軍の2チームがあったようです。 大阪収容所の俘虜は大正6(1917)年2月に似島へ移されたましたが、ボールの文字と背景の生垣から、まだ大阪時代に撮られた写真と思われます。 大阪収容所時代に結成されたサッカー好きの軍人たちからなる、ドイツ人サッカーチームです。 大正8(1919)年1月26日、当時の広島高等師範学校のグラウンドで、日本初といえるサッカーの国際親善試合が行われました。 この様子は、一人の日本人、山田正樹によって克明に記録されています。
対戦したのは広島高等師範学校、広島県立師範、高等師範付属中、広島一中の生徒たちの合同チームと、似島収容所のドイツ兵俘虜でした。 山田正樹の手記によると、試合は終始ドイツ兵捕虜チームの優勢で、二試合行った試合の結果は、1試合目が『5−0』、2試合目が『6−0』で、ドイツ兵俘虜チームの圧倒的な勝利でした。 日本の学生チームは1度もボールをゴールに入れることができませんでした。 日本学生チームはこのとき、ドイツ兵捕虜チームの技術力に愕然となったそうです。 当時、日本ではボールのキックはつま先で蹴るのが基本でした。 つま先でのキックはコントロールが難しく、パスをまわす組織的な試合運びは不可能に近い状態でした。 一方のドイツ兵捕虜チームは踵をつかったヒールパスや、足の内側を使うサイドキックなどを使いました。 日本人が初めて触れた、近代的なサッカーでした。 手記には… 「ゴールイン6、コーナーキック7、ゴールキック27を敵に与えて、破れしこと是非もなし。彼ら独逸人は単に個人の敵のみならず、実に人類全ての強敵なり」 ドイツ兵捕虜チームの強さに奮起して、日本のサッカーは強くなっていったといわれています。
当時、高等師範学校の主将を務めた田中敬孝は、ボートを漕いで島に渡り、似島の俘虜たちからサッカー技術の指導を受けたとも伝えられています。 なお、バウムクーヘンで知られるカール・ユーハイムも大阪時代にサッカーをしていて、ゴールキーパーを務めたそうです 「似島イレブン」が勢揃いしている写真の人物については、わからないものが多いですが、数人の俘虜については人物の特定ができています。 大阪収容所時代のサッカーチームの写真〈右から1番目〉のシューアマンは広島高等師範学校等の学生たちとの試合から約3ヶ月後、大正8(1919)年4月6日に似島俘虜収容所にて肺炎のため死亡しています。 享年27歳。 大正7(1918)年〜大正8(1919)年にかけて"スペイン風邪"(インフルエンザ)が猛威をふるっており、全世界で5,000万人が死亡したといわれています。 日本においても39万人が"スペイン風邪"によって亡くなったそうです。 シューアマンの遺灰は死亡して約1年以上後にに家族の元に返されました。
『似島イレブン』のその後の消息はほとんどわかっていません。 唯一わかっているのが、フーゴ・クライバーです。 26歳のときドイツに帰国後にクライバーはこのように語っています。 「似島独逸人俘虜収容所では、とても健康的な生活を送ることができた。収容所の隣にはグラウンドがあり、同じ出身地の仲間とチームを作り、そこで何度も日本人とサッカーをしました。」 大正10(1921)年、フーゴ・クライバーはサッカーチームを創立します。 当時、ドイツは敗戦後の混乱と不安の中にありました。
大正15(1926)年5月26日、フーゴ・クライバーは住民として再登録し、その翌年パウラメイケーザフォンオルクシュタルという女性と結婚し、バンバエルという町に引っ越しました。 テュービンゲン近郊の村ヴァンバイルに引っ越しをしたフーゴ・クライバーはでサッカークラブ(S.Vヴァンバイル)を結成します。 昭和7(1932)年、地区リーグで優勝をしています。
結婚15年目、最愛の妻パウラが結核によってこの世を去ります。 その辛さに耐えかねたのか、フーゴ・クライバーは町から姿を消してしまいます。
フーゴ・クライバーにはエウァルド・クライバー(Ewald・Kliber)という息子がいました。 昭和17(1942)年、フーゴ・クライバーの息子のエウァルド・クライバーは戦死します。享年23歳でした。 フーゴ・クライバー自身も第二次世界大戦中はフランスの捕虜になったようです。
そのクラブは今日なお存続していて、会員数は700人に及んでいます。 フーゴ・クライバーのサッカーへの情熱は、今なお受け継がれています。 『S.Vヴァンバイル』を創立したフーゴ・クライバーは今でもヴァンバイルの町の恩人として親しまれています。 実は、フーゴ・クライバーにはもう一人息子(クラウス氏)がいたのです。 ヴァンバイルの町から姿を消した、フーゴ・クライバーはスイスにほど近い、『ジップリンゲン』という町にいました。 最愛の妻と死別した2年後、フーゴ・クライバーは再婚して、クラウス氏(1932年)をもうけました。 晩年は、再婚した妻と居酒屋を経営して過ごしました。 昭和51(1976)年、82歳でフーゴ・クライバーは死去します。 フーゴ・クライバーは終生サッカーを愛し続けました。
そこから育ったサッカー選手には、現在浦和レッズで監督を勤めるギド・ブッフグァルトがいます。 平成6(1994)年「浦和レッズ」に入団します。 平成16(2004)年のJリーグセカンドステージでは見事、浦和レッズを優勝に導きました。 ギド・ブッフヴァルトは… 「私は、ヴァンバイルでサッカーを始めました。あそこで育ちましたからね。昔、私のクラブの会長が日本で初めてサッカーの試合を行ったという話には驚いています。世界が狭いというか、小さくなっているのを感じます。いよいよワールドカップです。日本代表は前回、地元開催でのベスト16位ですが、今回は本当の意味で、初めてベスト16が達成できると信じています。」 と述べています。 このエピソードは、平成18年(2006年)1月22日テレビ新広島(フジテレビ系列) で、『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』として放映されて話題を呼びました。
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