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ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所






















似島臨海少年自然の家は昔、日露戦争より陸軍第二検疫所という軍事施設がありました。
その軍事施設の一角に「ドイツ人俘虜収容所」が設けられました。
「俘虜(ふりょ)」というのは、現在でいう「捕虜(ほりょ)」のことです。
1917年(大正6年)、大阪収容所が移転することになり、日露戦争時の陸軍検疫所建物に、
ドイツ将兵536名、オーストリア兵9が収容されました。
似島陸軍第二検疫所に連れてこられたドイツ人に、
バウムクーヘンを日本で初めて焼いた『カール・ユーハイムKarl Juchheim1886-1945』、
甲子園で初めてホットドックを販売した『ヘルマン・ヴォルシュケHermann Friedrich Wolschke1893-1963

日本にサッカーを伝えた「似島イレブン」の一人『フーゴー・クライバーHugo Klaiber1894-1976
といった、後の日本に深くかかわった捕虜たちもいました。
似島陸軍第二検疫所の併設された「ドイツ人俘虜(ふりょ)収容所」について、ここでは紹介していきます。

※ 参考資料・情報提供:チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会
※ 参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
※ 情報提供:宮崎佳都夫 様
※ 参考資料:官報(国立国会図書館 デジタルアーカイブ
※ 参考資料:新広島(フジテレビ系列) 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
※ 参考資料:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜
※ 資料提供:写真家 藤井 寛(ふじい ひろし) “似島独逸俘虜収容所井戸”“独逸俘虜技術工芸品展覧会”写真
※ 
資料提供:2014年度「調査研究報告」〜ハム・ソーセージでドイツと日本を結んだ〜 ヘルマン・ウォルシュケさんの足跡をだどる会
※ 参考資料:「ユーハイムグループ


【このページの内容】

 1 ドイツ人が捕虜として日本に連れてこられたいきさつ
 2 日本各地のチンタオ・ドイツ人俘虜収容所

 3 板東俘虜収容所
 4 似島俘虜収容所
 5 似島俘虜収容所の様子
 6 『カール・ユーハイムKarl Juchheim1886-1945
 7 『ヘルマン・ヴォルシュケHermann Friedrich Wolschke1893-1963)』
 8 似島イレブンと『フーゴー・クライバーHugo Klaiber1894-1976



 ドイツ人が捕虜として日本に連れてこられたいきさつ
欧州各国は、世界各地を植民地化していました。
植民地獲得競争に遅れをとったドイツは、明治4年 (1871年) にドイツ帝国が成立すると、直ちに植民地の獲得に乗り出しました。
ドイツ帝国は、明治17年(1884年)に南西アフリカを、明治19年(1886年)には東アフリカを保護領として獲得しました。
しかし、アフリカの植民地は、ドイツにとっては必ずしも望ましい土地ではなかったようです。
特に南西アフリカでは、て大規模な反乱が起こりました。
激しい戦闘が繰り広げられ、また原住民が思うようにならないため、植民地経営も計画通りにいかなかったようです。
そこで、目をつけたのが中国でした。
市場として巨大な中国に、拠点を築くのがドイツの念願でした。

明治18年(1885年)、南太平洋のマーシャル群島を獲等したのを始めとして、やがてスペインからカロリン諸島、マリアナ諸島等を二千万マルクで買い取りました。
南太平洋ではグアム島を除くほぼ全ての島を手中にしました。
これらは、中国進出への第一歩だったといえるでしょう。
しかし普通の方法では、中国の領土を手に入れることはできませんでした。
当時、イギリス、フランス、ロシアなどが領土を手に入れていましたが、それは紛争や戦争などの軍事的な行動により獲得したものでした。

明治28年(1895年)の時点ですでにドイツは、将来中国に設けるべきドイツ東アジア艦隊の基地として、三都湾、膠州湾、舟山島、厦門、膨湖諸島、香港に近い大鵬島の六ヶ所を挙げていました。
その中でも膠州湾が最適であると考えていたようです。

<宣教師殺害事件とドイツ帝国の中国進出>
明治30年(1897年)11月14日、山東省曹州府鉅野県張家荘という、山東省でも地の利の悪い辺鄙な村にあった教会堂で、ドイツ人宣教師2名が殺害される事件が起こりました。
この事件は、ドイツにとって格好の口実ができたことになります。
二週間後には早くも、ディーデリヒス中将率いるドイツ東洋艦隊の軍艦三隻が青島沖に進出しました。
青島には当時、約2000の清国兵が駐留して、大小五つの兵営がありました。
列強の軍艦が頻繁に出没していたことから、清国側も警備を強化していたようです。
しかし清国の軍隊はドイツの艦船が湾内に入ることも、上陸することも阻止しませんでした。
清国側は儀礼訪問のためにドイツの艦船が訪れたと誤解していたようで、歓迎の意を表しようとしたようです。
実は、ドイツ軍の軍艦もそのように錯覚させる行動を見せていたのです。
軍艦から続々とドイツ兵が上陸しても、清国兵たちは何の警戒心も見せませんでした。
ドイツ軍は町を確認し、万一攻撃する場合には一番条件がよいと思われる場所に集結すると、ドイツ軍は清国の章高元司令官に対して、三時間以内に武器を放棄して15キロ先の町滄口まで退却することを要求しました。
これに対して、何の警戒もしていなかった清国兵は、なすすべもなく要求に従わざるを得なかったのです。

<九九ヵ年の租借(そしゃく)>
明治31年(1898年)3月6日、ドイツと清国の間で独清条約が締結されました。
その主な内容は…
○ 宣教師二名殺害への賠償金
○ 青島周辺並びに膠州湾一帯551平方キロを99ヵ年租借
○ 青島・済南間430キロ、及び張店から博山までの支線40キロの鉄道敷設権
○ 沿線15キロ以内での鉱山採掘権等の取得


賠償金以外のものがドイツにとってねらっていた利権でした。「99ヵ年の租借」という方法は、ドイツが初めて考え出したものです。
この案をやがて他の列強の国々も模倣することになった。

ドイツは総督府を置くとともに、海軍に所属する海兵隊と砲兵隊合わせて約1500の兵員を駐屯させ、市街地の形成に取り掛かかりました。
ドイツ占領時の青島は、清国の兵営こそ小さなものを含めて五つほどありましたが、実質的には二千人ほどがほそぼそと暮らす小さな村に過ぎませんでした。
住民たちは専ら漁業を営んでいましたが、それは畑となる耕作地が乏しかったことと、そもそも山東半島には満州族が多く、女性は纏足をしていたために畑仕事をすることができませんでした。
周辺の山の多くは、住民が木を切って薪にするために禿山同然の状態で、勢い土地も肥沃ではありませんでした。

<日本軍の侵攻と、ドイツ人捕虜>
大正3年(1914年)6月28日、セルビアの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されました。
それがきっかけとなり、1ヶ月後の7月28目第一次世界大戦が勃発することとなります。
やがて日本は日英同盟の誼から、8月23日にドイツに宣戦を布告し、陸海軍合わせて7万余の大軍を、中国山東半島の青島を攻撃するために派遣しました。
青島は明治31年(1898年)以来、ドイツが極東進出の拠点とした租借地の要の都市でしたので、ここで、多くのドイツ人が日本軍の捕虜となり、日本に連れてこられることになります。


<山東半島とは>
ドイツが欲しがった膠州湾や青島がある山東半島、ここには孔子の生地曲阜や名山で知られる泰山を有する山東省があり、中国でも早くから文明・文化が開けたところです。
山東半島の気候は比較的温暖で、養蚕が行われ白菜、落花生等の農産物に富み、大規模な塩田で知られた膠州湾の後背地は、石炭を始めとする鉱物資源も豊かです。
明治42年(1909年)から大正3年(1913年)の五年間の統計では、平均すると最高気温は7月が29度6分、8月は32度1分、9月が28度2分、最低気温は12月が零下8度2分、1月で零下11度9分、2月は零下10度1分となっているそうです。
最低気温はかなり低いですが、中国の中では気候の面で比較的恵まれているといえます。

<青島の名称の由来>
青島の名は、沖合いに小さな島「青島」があることに由来します。
中国では、島に面する海岸部近くの集落にその島の名が付けられることがあるそうです。



「チンタオ」と「広島」の位置関係
資料:google map

 日本各地のチンタオ・ドイツ人俘虜収容所

日本軍の侵攻により、青島郊外で本格的な戦闘が始まりました。戦争が激化するとドイツ将兵が日本軍の捕虜となる事態がおこりました。
そこで大正3年(1914年)10月、久留米に最初の俘虜収容所が設置されました。

日独戦争でのドイツ兵俘虜(ドイツ人だけではなく、オーストリア人やハンガリー人等の様々な俘虜がいた)は4697人でした。


<俘虜収容所開閉一覧表>
久留米‥大正3年10月 6日開始、大正9年3月12日閉鎖
熊本‥‥大正3年11月11日開始、大正4年6月 9日閉鎖 (久留米へ移転)
東京‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月 7日閉鎖 (習志野へ移転)
姫路‥‥大正3年11月11日開始、大正4年9月20日閉鎖 (青野原へ移転)
大阪‥‥大正3年11月11日開始、大正6年2月19日閉鎖 (似島へ移転)
丸亀‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月21日閉鎖 (板東へ移転)
松山‥‥大正3年11月11日開始、大正6年4月23日閉鎖 (板東へ移転)
福岡‥‥大正3年11月11日開始、大正7年4月12日閉鎖 (久留米、習志野等へ)
名古屋‥大正3年11月11日開始、大正9年4月 1日閉鎖
徳島‥‥大正3年12月 3日開始、大正6年4月 9日閉鎖 (板東へ移転)
静岡‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転)
大分‥‥大正3年12月 3日開始、大正7年8月25日閉鎖 (習志野へ移転)
習志野‥大正4年 9月 7日開始、大正9年4月 1日閉鎖
青野原‥大正4年 9月20日開始、大正9年4月 1日閉鎖
似島‥‥大正6年 2月19日開始、大正9年4月 1日閉鎖
板東‥‥大正6年 4月 9日開始、大正9年4月 1日閉鎖


階級によって異なってはいましたが、平均すると俘虜一人当たり一ヶ月に、葉書と封書を合わせて3通の郵便を差し出すことが許されていました。
しかも俘虜郵便扱いとして無料でした。
家族からの便りは、健康で過ごしているかを尋ねるものが多かったようです。

〔家族にあてた手紙の一例〕
「前略 今日、君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のデイーデリヒセン気付だ。それを除けばここでは、まだまあまあってところだ。ただ、やはり一人、また一人とまいり始めている。7月7日付けの小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけれど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」


<俘虜の給与>
俘虜郵便の規定同様にハーグ条約によって、俘虜には俸給が支給されていました。

支給月額は、日本の同等将校・兵卒が受けるのと同一額ででした。
この規定に沿って、海軍将校への俸給を四捨五入して円単位では…
中佐200円、少佐137円、大尉82円、中尉55円、少尉46円でした。

ドイツやチンタオで待つ、家族に送金することも許されていました。

※ 一方陸軍将校の俸給は、中佐183円、少佐129円、大尉75円、中尉46円、少尉42円でした。


<俘虜の労役>
強制労働は
ハーグ条約で禁止されていました。
日露戦争に勝利した日本は、なんとか世界の一等国の仲間入りを目指していましたので、国際条約を遵守しました。
第一次大戦時の日独戦争に関しては「大阪俘虜収容所記事」によると、大正4年(1915年)1月から収容所の炊事室の炊事当番には、1日当たり下士7銭、兵卒4銭の手当てが支給されていたようです。
また、民間の麺麹所での就労では1日50銭の賃金を受けています。

大正5年(1916年)頃からは、徳島、習志野、名古屋、大分の各収容所で俘虜の労役が始まり、特に徳島では活発に行われました。
やがて収容所の整理統合が行われると、名古屋、板東、久留米では大規模な形で労役が行われるようになります。
下級兵卒にとっては、ちょっとした収入源にもなったようです。

<俘虜の懲罰>
収容所に容れられた俘虜にとっての義務は、朝晩二回の点呼を整列して受けること以外には、ほとんど強制された義務はなありませんでした。
しかし5年余の収容期間には、各収容所で大なり小なり俘虜の懲罰がかなりの頻度で行われました。

<傷痍軍人>
俘虜関係の諸文献では、サッカーやテニス、組み体操や競歩など、日の当るスポーツが取り上げられることが多くみうけられます。
しかし、義肢、義足や義眼の俘虜もおり、日本に移送されてから、負傷兵に義足などが「贈られた」、と公的な文書に記されています。

<俘虜収容所の変遷>
日独戦争が終結して、4700名近い俘虜を収容する収容所が必要になりました。
そこで当初、西日本を中心にお寺など
12ヶ所の収容所が設置されました。
収容先としては寺を使用する事が多かったようです。
その理由は、当時は大勢の人間を収容できる施設としてはお寺以外に、学校などわずかしかなかったからです。
俘虜収容所が設置された都市は、管轄する陸軍省の意向でしたが
、収容所の設置をめぐっては誘致合戦も行われました。
数百人の俘虜が滞在することは、経済効果も大きかったのです。
戦争は一向に終わる気配がなく、年月が過ぎていきました。
そこで仮収容所的な寺から、本格的な収容兵舎を建設する必要が生じました。
そのときに12ヶ所の収容所を6ヶ所に統合しました。
最初からの収容所である久留米と名古屋はそのまま存続しましたが、新たに
習志野、青野原似島板東の4ヶ所の収容所が設けられることになりました。
 ドイツ人俘虜収容所地図

参考資料:宮崎佳都夫

 俘虜郵便

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

 似島俘虜収容所
似島第二検疫所に併設された「ドイツ軍俘虜収容所配置図」

  似島俘虜収容所要図(PDF)

  似島俘虜収容所要図(JPEG)

 ※ 宮崎佳都夫 様 所蔵資料を参考にしました。

 
第二検疫所内に独逸軍俘虜収容所を開設する告示

官報(第一三六四号)
 大正六年二月二十日

告示
「陸軍省告示第四号」
本月十九日大阪俘虜収容所を閉鎖し似島俘虜収容所を開設す

大正六年二月二十日

陸軍大臣 大島健一

参考資料:官報国立国会図書館 デジタルアーカイブ
 
   
似島俘虜収容所を閉鎖する告示

官報(第二二八○号)
 大正九年三月二十日

告示
「陸軍省告示第三号」
久留米俘虜収容者は大正九年三月十二日、習志野俘虜収容所、名古屋俘虜収容所、青野原俘虜収容所、似島俘虜収容所及板東俘虜収容所は大正九年四月一日限り閉鎖す

大正九年三月十二日

陸軍大臣 田中義一

参考資料:官報(国立国会図書館 デジタルアーカイブ 



(旧住所)広島県安芸郡仁保島村似島

大正6(1917)年2月大阪収容所が移転。日露戦争時の陸軍検疫所建物に、ドイツ将兵536名、オーストリア兵9が収容されました。
大正9(1920)年4月閉鎖されました。


似島(にのしま)俘虜収容所は、広島港から南西に約2キロ、広島湾に浮かぶ似島にありました。
収容所の所長には、大阪俘虜収容所長の菅沼來中佐(後に大佐)が引き続いて所長として就任し、大正9年(1920年)41日の閉鎖までその任についていました。
収容所の敷地の総面積は
16,000u(4850坪)ありました
これは、小学校の敷地の約二つ半ほどの面積に当たります。
敷地には
2面のテニスコートと運動場が設けられ、また4棟の兵卒用バラック、准士官・下士官用1棟、将校用1棟等の建物の総面積は約3500u(1060でした。

似島俘虜収容所の開設に際しては当初、大阪俘虜収容所と松山俘虜収容所の二箇所の俘虜を収容する案もありましたが、最終的には大阪俘虜収容所の俘虜のみの収容になったそうです。

550名の収容俘虜の内160名が、国民軍所属の非戦闘員だったそうです。
菓子職人だった
カール・ユーハイムなどがこれに該当します。
なお先任将校(階級が一番上位)で、かつ早くその地位に就任した将校は、青島(チンタオ)防御の主要
3部隊の一つである、海軍膠州砲兵隊長のグスタフ・ハス(Gustav Hass)海軍中佐でした。

似島に収容所が設置されることになったのは、日清戦争時代にさかのぼります。
中国大陸や朝鮮半島からの帰還兵が持ち込む病原菌を防ぐために、明治
28年(1895年)6月に、広島湾内の似島に臨時陸軍検疫所が設置されました。
この検疫所の設置に尽力したのは、臨時陸軍検疫部事務官長の後藤新平(1857-1929)でした。
後藤新平は後に台湾民生長官、満鉄総裁、東京市長になりました。
後藤は医師でもあり、その生涯の前半を検疫行政に尽力した人物です。
今でも、
旧第一消毒所跡の似島学園の構内には、後藤新平の銅像が建てられています。

似島に、日露戦争時代、陸軍第二消毒所が設置されました。これが、現在の広島市似島臨海少年自然の家です。
日露戦争は、日清戦争とは比較にならないほどの傷病兵がでました。
またロシア兵俘虜も約
8万人と大量に出て、第一消毒所は俘虜収容所に当てられることとなります。
大陸から引き揚げてきた兵士は、新たに設置された
第二検疫所(現:自然の家)で消毒を受けて、それから宇品港に上陸しました。

やがては大陸から引き揚げた軍馬も消毒されることになります。
特に傷を負った馬、菌に冒された馬は第二検疫所から600m南の「馬匹焼却炉」で焼却されました。
馬匹(ばひつ)検疫所(現:似島小中学校)と呼ばれる施設の消却炉跡の一部が移設されて似島臨海少年自然の家に遺されています。
似島検疫所は、日清戦争、日露戦争、北清事変、第一次大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と、実は近代日本の全ての戦争にかかわった場所です。

第一検疫所は日露戦争時代にはロシア兵俘虜の収容所でした。
9ヶ月間、最大時には2391のロシア人捕虜が収容されました。
かなりすし詰め状態での収容ではなかったかと思われます。

ドイツ兵俘虜の収容に際して、当初大阪、松山の俘虜を合わせた約
1000名収容の案がありました。
それが大阪の俘虜だけになったのは、捕虜が多すぎる状態になることを避けたためかもしれません。
似島捕虜収容所の所長には、大阪俘虜収容所長の
菅沼來中佐がそのまま所長として就任し、大正9年(1920年)4月1日の閉鎖までその任にあたりました。収容所の敷地の総面積は約16,000u(約4850坪)程度でした。収容所内には2面のテニスコートと運動場が設けられ、4棟の兵卒用バラック、准士官・下士官用1棟、将校用1棟がありました。
 
約550人の俘虜の内160人が、非戦闘員であったといわれています。カール・ユーハイムなどもこれに該当したと思われます。(
カール・ユーハイムが捕虜となったのは、5,000人にも及ぶドイツ人捕虜の内、かなり後になって捕虜となっていることからもわかる)。なお先任将校、つまり階級が一番上位で、かつ早くその地位に就任した将校は、青島防御の主要3部隊の一つである、海軍膠州砲兵隊長のグスタフ・ハス(Gustav Hass)海軍中佐でした。

似島に収容所が設置されることになった訳は、日清戦争時代に発します。中国大陸や朝鮮半島からの帰還兵が持ち込む病原菌を防ぐために、明治28年(1895年)6月に、広島湾内の似島に臨時陸軍検疫所が設置されました。最終的には検疫所の名称になったこの消毒所の設置に尽力したのは、臨時陸軍検疫部事務官長の
後藤新平(1857-1929)でした。

この似島に、日露戦争時代に陸軍第二消毒所が設置された理由の一つに、日露戦争は、日清戦争とは比較にならないほどの傷病兵が発生し、またロシア兵俘虜も約8万人と大量に出て、第一消毒所は俘虜収容所に当てられることになりました。大陸から引き揚げてきた兵士は、新たに設置された第二消毒所で消毒を受けて、それから宇品港に上陸し復員しました。やがては大陸から引き揚げた軍馬も消毒された。特に傷を負った馬、菌に冒された馬は第二消毒所の近くで焼却された。馬匹(ばひつ)検疫所と呼ばれる施設の消却炉跡の一部が移設されて今日も遺っています。似島検疫所は、日清戦争、日露戦争、北清事変、第一次大戦、シベリア出兵、山東出兵、満州事変から日中戦争、太平洋戦争と、実は近代日本の全ての戦争にかかわった場所でした。

似島収容所が設置されたのは大正6年(1917年)2月19日、大阪俘虜収容所の閉鎖に伴い、550名の俘虜を移しての開設である。この550人という数は、似島俘虜収容所における最大収容数ですが、必ずしも似島収容所で生活を送った俘虜の数ではないとの説もあります。

大阪から似島へ移送された時の状況は、「大阪俘虜収容所記事」に詳述されている内容には…

「大正六年二月十八日午前九時、収容所と衛戍病院を徒歩、及び人力車(負傷兵)で出発し、十一時に大阪駅到着、午後十二時十分乗車、午後一時十七分発車、翌日十九日午前七時二十三分宇品に到着した。なお、途中の広島駅で広島衛戍病院に引き渡される者が下車した。平船三隻を汽船で曳航して午前九時似島に着いた。」

また、大正6年2月17日付けで、山中呉鎮守府参謀長から大角海軍副官宛てに以下の文書が発信されています。

「似島ニ獨国俘虜収容ニ関シ第五師団ニ於イテ執ルヘキ処置左記ノ通リ申出候ニ付之ニ同意シ尚海上ニ於ケル警戒ヲ厳重ナラシムル様希望致置候
一 船艇ノ行動ヲ目視セシメサル為海上ヲ板塀ニテ囲ムコト
二 構外散歩ヲ許サルコト
三 衛兵ハ将校以下十三名一週間交代ニテ駐勤ス
四 俘虜ノ通信ハ一週間一回ニシテ将校一名之ヲ検閲ス
五 必要ニ際シ時ニ携帯品ノ検査ヲ行フ
右ノ外第五師団以外ニ於テハ憲兵二名ヲ常置シ巡査十七名駐在シ海面ハ宇品水上警察署之ヲ担任ス
尚来ル十九日俘虜似島到着ニ付同日午前八時ヨリ九時半迄似島附近ニ現出セサル様軍港附近ニ在ル船艇ニ先導セラレタシ」


俘虜の収容は陸軍の管轄ですが、似島収容所の場合は島にあったことや、すぐ目の前に海軍兵学校のある江田島もあったことから、海軍も関わっています。



    似島収容所管轄下で死亡した俘虜

クラフト(Diederich Kraft):大正6年(1917年)3月1日、大阪衛戍病院で死亡。
グララート(Hans Grallert):大正7年(1918年)8月12日死亡。
パーペ(Otto Pape):大正7年(1918年)3月18日死亡。
ロックザー(Alexander Rockser):大正7年(1918年)7月31日死亡。
ツェフラー(Albert Zeffler):大正8年(1919年)3月27日死亡。
シュルマン〈シューアマン〉(Fritz Schurmann):大正8年(1919年)4月6日死亡。
ポッター(Karl Potter):大正8年(1919年)7月3日死亡。
ブリルマイアー(Joseph Brilmayer):大正9年(1920年)1月16日死亡。
ハルプリッター(Robert Halbritter):大正9年(1920年)1月21日死亡。

 

日独戦争は一ヶ月半で終わりましたが、欧州では戦争は終結せず終わる気配がありませんでした。
そこで各地に分散されていた収容所を整理・統合することになり、やがて収容所としては、
習志野、名古屋、青野原、似島、板東、久留米の6箇所にまとめられました。
似島俘虜収容所が他の収容所と異なる最も大きな点は、唯一島の中に設けられた収容所だったことです。
似島俘虜収容所については、その実態が余り分かっていません。
整理統合後の習志野、名古屋、青野原、似島、板東、久留米の6収容所の中で、似島俘虜収容所は最も情報量が少ないといわれています。
海軍の要衝地が多かったことから、板塀で海への視界が遮られていることからも情報が外部にでにくいといった側面もあるようです。

似島のドイツ人俘虜(捕虜)たちには、強制労働はありませんでした。
ドイツ人俘虜(捕虜)たちに課せられたことは、
朝夕の点呼と週一回の健康診断だけでした。それ以外は、出歩くことは禁じられていましたが、収容所内では自由でした。"捕虜"という言葉のもつ響きにある陰鬱さは、あまりなかったようです。
手紙は検閲こそありましたが、支給され家族に手紙を出すことも許されました。

閉鎖前の12月25日付の中国新聞によると「五百余名の俘虜のうち九十名は二十六日二十八日の午前中広島駅から神戸に向かい豊福丸に乗って母国独逸に戻ることになっており、残った者は便船の都合で正月を迎えた後十五日頃門司港からヒマヤラ丸に乗船する予定になっている」と報じています。

そのため、似島独逸人俘虜収容所が正式に閉鎖される前から俘虜の解放は実施されていました。

但し、200人を超える俘虜が日本に留まります。

似島独逸人俘虜収容所は、1920年(大正9年)3月12日付けの陸軍大臣 田中儀一名の告示により、大正9年4月1日をもって正式に閉鎖されます。


   
  似島俘虜収容所所長
菅沼来(すがぬま らい)
 参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

収容所の運営は各収容所の所長に任されており、似島俘虜収容所のおおらかな雰囲気は、当時の所長であった菅沼来(すがぬま らい)のおかげともいわれいます。

ドイツのヴェルツブルグには、
『シーボルト博物館』があります。
シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796年2月17日 - 1866年10月18日)は日本では長崎の出島でオランダ商館医を勤めたことで知られています。

   
   Philipp Franz Balthasar von Siebold  参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

その『シーボルト博物館』には俘虜(捕虜)として捕られられていたドイツ人俘虜たちが、家族等にあてた手紙(はがき)が残されています。

   
  似島独逸人俘虜収容所のドイツ人が家族等へあてた手紙

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 
 

第一次世界大戦ごろから、日本も国際社会に知られるようになっていきます。そんな中、日本は国際条約(ハーグ条約)にのっとり、捕虜の扱いは寛大でした。
俘虜(捕虜)収容所内では、
『酒保(しゅほ)』と呼ばれる、バーのようなものももうけられていました。
似島俘虜収容所内では、それぞれの特技を生かして、店を経営するものもいました。
給金以外にも収入を得て、本国に送金する俘虜(捕虜)もいました。

   
  似島独逸人俘虜収容所の『酒保』の様子  
 
 
       
    レストラン経営   
 
 
       
   ソーセージ作り パンづくり   
 
 
     参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 
   菓子屋    
     

整理・統合後の収容所では、やがて各種の展覧会や音楽会、スポーツ大会が開かれました。
似島での各種行事等について、宮崎佳都夫氏の『似島の口伝と史実』によると…

○ 講習会
収容俘虜の73パーセントが何らかの講習会に参加したようです。
46名の講師陣により、47のコースが設けられ、各コースには平均3050名の受講者があったと言われます。
その種類は、ドイツ語、日本語、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、数学、機械工学、建設工学、電気学、経済学、法学、歴史、タイプライター等だったそうです。

○ 演劇活動
大阪俘虜収容所時代から始まり、夏季には野外公演を6回、収容所内に施設ができると一気に活発化して、16人の台本作家が出現し、上演作品は20本以上に達しました。
チェーホフの『熊』やルートヴィヒ・トーマの『一等車』などが上演されました。
ルートヴィヒ・トーマの作品は各地収容所で上演されています。
バイエルン方言を用いた戯曲でしたが、当時は人気があったようです。

○ 新聞の発行
大阪俘虜収容所時代の大正5年(1916年)6月から発行されたものを引き継いで、日刊紙「似島収容所新聞」(Zeitung des Lagers Ninoshima)が発行されたましたが、残念ながら今日その全容は分かっていません。
ただ
、「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の記すところによれば、当初は主として日本の新聞記事をドイツ語に訳したものが多かったようです。
後に収容所内の出来事を記す記事も掲載されました。

○ 独逸俘虜技術工芸品展覧会
大正8年(1919年)34日から広島県物産陳列館、今日は「原爆ドーム」で知られる建物で上記展覧会が開催されました。
「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」
には、俘虜たちがどのようなものを出品したかが掲載されています。
9日間で16万人の広島市民が訪れました。
出品内容は、写真、油絵、水彩画、ペン画、額縁、チェス盤、軍艦や漁船の模型、似島収容所の模型、火鉢、靴、編み物、蒸気機関車や蒸気船の模型、蹄鉄、大砲、文鎮、昆虫の標本、鳥篭、鉱物・岩石の標本、スリッパ、幾何学のノート、家の設計図、マッチ棒によるヴァイオリン・チェロ、各種革製品、各種編み物、薬品の調合剤、鉄筋コンクリート構造物、晴雨自動計測器などでした。

   
※ 情報提供:宮崎佳都夫 様

物産陳列館(現:原爆ドーム)で行われた、ドイツ人捕虜による展示即売会でのパンフレット。

全文ドイツ語で、表紙、裏表紙、そして34ページの本文しか現在確認されていません。326点の展示品がリストアップされています。
(一部付番の重複があり、作品番号は323番までとなっています)

本文内容は…
@序文
Aカテゴリー別展示品リスト
B収容所新聞の紹介
C軽食堂の案内
D収容所内劇場の紹介
E広告
F補遺

で構成されている。

序文においては、準備期間が8週間と少なかったことが強調され、関係各位への謝辞が述べられています。
「似島俘虜収容所の展覧会は、まず〆切ぎりぎりという不利な状況の下で開催されることになった。
似島にいる誰もが思っていなかったことが、努力と知恵を総動員して幸運を呼び、勤勉で活力ある収容所の様子を皆様の前にお見せするまでに至ったのは何よりである。〈中略〉大半の作品は製作機械もなく材料は廃材利用という状況から生まれた。。それも強い意志で困難を克服したからである。」


展示リストは「芸術」「手工芸」「技術」「教育活動」の4分野に大きく分けられ、それぞれに海軍砲兵G、ヴィルヘルムによるレトロモダンな扉絵が付いています。

「芸術」分野(作品番号1〜86)は、さらに絵画と写真に分かれています。
絵画は油彩、水彩、鉛筆、パステルを画材とし、写真を元にしたものや模写が大半を占めています。
様々なモチーフが手元にあるということから、収容所の生活が文化水準の高いものであったと想像できます。
また、1人19点出展している俘虜もおり、制作に費やせる自由な時間をたくさん持っていたのではないでしょうか。
写真は、収容所、スポーツ、演劇風景、ポートレートなど、身の周りのものが被写体となっています。

「手工芸」分野(作品番号86〜228 ※86番は重複)は、さらに美術工芸・木工、美術工芸・金属・工芸一般に分かれています。

序文においても触れられていたことですが「旋盤を使わずに作ったチェス駒」や「弾薬筒と弾丸の廃品を使った文鎮・額縁」や「自作の編み針によるハンモック」などといった、道具のない中で製作されたであろうことがよくわかる作品もあります。

「技術」分野(作品番号229〜268)は、さらに建築、機械製造と電気工学、船舶、航空機製造に分かれています。
住宅や収容所などの模型や設計図、電動モーターや蒸気機関車などの模型や設計図、さらには対魚雷駆逐艦や戦闘機といった大がかりな物まで出展されていました。

技術に長けた俘虜同士が組んで製作に当たっているケースが多く、収容所生活においては階級を越えた交流があったことが推察できます。

「教育活動」分野(作品番号269〜305)では、収容されている俘虜の73%がなんらかの教育を受けていたことが記されています。
46人の教師がおり、47コースの授業が開講されていました。
人気はドイツ語、日本語、数学、工学、化学、憲法学、地理、簿記などだったようです。

授業以外にもサークル活動があり、中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、歴史、算数、速記、習字、タイプ、建築、機械工学、電気工学、農業、経済、法学など多岐にわたっていました。

俘虜の一人ボーデッカーの手記(参考:ハンス-ヤヒム・シュミット氏ホームページ)によると、外国語の堪能な商人が会話などを教えていたようです。マンパワーを駆使することによって、不自由な収容所生活における向上心を満たしたことがわかります。
展示作品には、標本や講義ノート、教科書などがあります。

「収容所新聞似島」は、1916年(大正5年)6月に創刊した「大阪収容所新聞」を引き継いだもので、日本の新聞からの翻訳や収容所内において公的な日刊紙であったことが後の広告欄に記載されています。「極東で唯一のドイツ語新聞」とも銘打っていることが窺えます。
「展覧会」には一年分の新聞が展示されていました。

「展覧会」の軽食堂では、収容所で作られた食料品やシュナップ、リキュール、香水、薬品の陳列と即売がありました。カフェコーナーにて、ヴォルシュケ工房のソーセージも提供されていたようです。後の広報欄により具体的な記述があります。

「収容所内劇場」については新聞と同様、大阪収容所からの流れで説明されています。
初演は1916年(大正7年)3月5日。
数少ない娯楽として好評を博していたようで、似島収容所にも1918年(大正7年)に舞台が敷設されました。

チェーホフの「熊」やトーマの「一等車」など、20に及ぶ演目が上演されたようです。

「展覧会」では劇場ポスターと出演者のポートレートが出展されていました。

「目録」の広告欄には印刷所、収容所新聞、日用品店、ベーカリーなど17件が載せられています。
「H.ヴォルシュエの肉料理と肉製品」について、次に訳を付します。

「ランチタイムにもディナータイムにも/ソーセージと肉製品を各種ご用意しました/特別メニュー、盛り合わせのご注文にはいかようにもお応えいたします」

 資料提供:2014年度「調査研究報告」〜ハム・ソーセージでドイツと日本を結んだ〜 ヘルマン・ウォルシュケさんの足跡をだどる会


○ 芸術活動
大正8年(1919年)518日には、広島市内で音楽会が開催されました。しかしその内容については、ほとんど分かっていません。

○ スポーツ活動
収容所内で日常的に、サッカーやテニス等の各種スポーツが行われていました。
大正8年(1919年)126日、開校まもない広島高等師範学校の運動場で、似島の俘虜と広島高等師範学校、県師範学校、付属中、一中とのサッカー交歓試合が行われました。
二試合おこなった結果は、
5060で、俘虜チームの圧勝でした。
サッカーチームは大阪収容所時代に結成されたものと思われます。
きれいなユニホームを着たイレブンの写真が今日遺されていますが、イレブンの足元中央に置かれたサッカーボールには、
「.Mannschaft Osaka 1916と記されています。
大阪から似島への移送は大正
6年(1917年)のことです。
蔦が絡んだ背景の建物は大阪収容所の建物であろうと思われます。

平成18年(2006年)122日(日)、フジテレビ系ネットで特別番組「歴史発掘スペシャル ドイツからの贈りもの―奇跡の絆の物語」が全国ネットで放映され、番組の中で似島サッカーチームが大きく取り上げられました。
対戦したのは似島(大阪)イレブンの第
2チームであったことがほぼ確定されています。

○ 俘虜による労役
労役は各収容所で行われていましたが、『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』(大川四郎編訳)には…

「似島収容所での捕虜らの主たる不満は、いわゆる「ロウエキ(労役)」に在ります。(中略)毎日交代する労働分遣隊を組んだ捕虜らは、日当4銭で土砂を手押し車に乗せ、広島市内各地に運んでいきます。他の収容所では「ロウエキ」は通常きつい苦力労働ではなく、捕虜らからは、むしろ恰好の気分転換として歓迎さえされています」

と記されています。


似島俘虜収容所研究家の宮崎佳都夫氏によれば、島の収容所の近くにはかつて製針工場があって、そこでの労役もあったとのことです。
解放間際には広島市内の各種製造所で、労役というよりは日本人技術者への指導が行われたことは、後述する
ヘルマン・ウォルシュケの項でも明らかです。

○ 遠  足
安芸小富士という絶好の景勝地がありましたが、俘虜のハイキング等は行われなかったようです。
その理由は既に触れたように、海軍の要衝地が近くあったからと考えられます。
しかし解放間近になった
大正8年(1919年)11月に、宮島の厳島神社への遠足が行われた際の写真が、当時の新聞に掲載されました。

     
     
     
  ドイツ人俘虜たちの宮島見物の様子

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 




当ページの下段に似島収容所俘虜の内から、特色あると思われる3人の俘虜を紹介していますが、それ以外の主立った俘虜について記述します。


@  Ehrhardt(エーアハルト),John Theodor(1894-1950)
海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1981年当時ハンブルクに在住していた写真家藤井寛氏は、エーアハルトの妻エリーゼ(Eliese)から、エーアハルトの遺品である「写真帖」を見せられ、その貴重な写真を「新発掘 70年前の俘虜収容所」の記事の中で発表した(『毎日グラフ、1984年11月11日号』)。以下はその記事からの情報である。写真はごく一部が似島の写真であるが、他の30枚の写真は全て大阪俘虜収容所で写されたものである。ヴァイオリンを手にするエーアハルトを始め37名が写っているものがある。他には、本国から届いたクリスマス・プレンゼントの受領、日本人理髪師による散髪、ドイツ風の雪だるま、大阪及び似島での芝居風景、収容所内の売店、似島のポンプ場風景等33枚である。写真には、大阪収容所で結成されたサッカーの「第2チーム」イレブン11名が写っている写真(裏面には、「郵便はがき」の文字がある)もある。なお、この中には、後述するヴァルツァー(Walzer)の遺品中の写真と同じ写真が8枚見られる。「『写真帖』と私」と題された藤井氏の文章によれば、エリーゼはドイツから収容所にいるエーアハルトに手紙を書き送り、1916年7月22日にエーアハルトに宛てて送った、エリーゼと料理学校での女友達と並んで撮ったスナップ写真の葉書が遺されている。1924年に二人は結婚し、一男五女に恵まれた。エーアハルトはハンブルクで運送業を営んでいたが、1950年12月8日に交通事故で死亡した。ブレーメン出身。

A Hass(ハス),Gustav(1872-1932)
海軍膠州砲兵隊長・海軍中佐。日独戦争では海正面堡塁指揮官を務めた。青島時代はキリスト小路に住んでいた。1916年4月24日付で海軍大佐の辞令が下りたが、日本側はその辞令を承認しなかった。1917年1月31日、上海滞在中のクルーゼン(Dr.Georg Crusen,1867-1932)元青島高等判事に宛てて大阪収容所から手紙を出した。その内容は収容所での給与に関する事であった。将校は日本の将校と同額の給与、つまり少尉は40円、中尉は54円75銭を受けているが、少なくとも75円は必要というのがハスの見解であった。その内訳としては、食事代に35円、下士卒手当てに3円、肌着5円、暖房及び入浴設備代3円、靴修繕費5円、衣服10円、医療衛生費3円、新聞書籍費6円。ただ比較のために挙げると、東京の兵器廠に務める役人は1日10時間勤務で月額40円から44円である、との報告をしている【Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931,50頁】。大戦終結してドイツに帰国後、『青島攻防戦における海正面堡塁の活動』の報告書を提出した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。

B Heise(ハイゼ),Johannes(1882-1969)
海軍膠州砲兵隊第1中隊・副曹長。金属製建具等組み立て職人だった。1902年、12年の予定で海軍に応召した。1913年、休暇で郷里に戻った折、一年後には結婚を約束した後の妻とは結局7年離れ離れとなった。ハイゼの数多くの遺品は、娘のエルゼ・ハイゼ(Else Heise)によってヴュルツブルクのシーボルト博物館に寄贈された。大戦終結して帰国後、ハイゼは直ちに結婚し、また郡役所に勤務したが、従軍期間が長いことから、倍の勤務と換算され、ほどなく年金生活に入った。ハイゼは収容中、日本語も中国語も習得しようとは全く考えなかったが、苗字ハイゼを漢字で当てた指輪の印を持ち帰った。それはハイゼ(Heise)の音に近い「Hai-zi」から当てた「海子」で、海軍兵士にちょうどぴったりだと考えたものと思われる。娘のエルゼの記憶では、似島の俘虜達は時に口にするものがろくになかったことがあったが、それでもハイゼは決して日本人の悪口を言うことはなかった、とのことである。1954年ハンブルクで、かつての青島戦士の集まり「チンタオ戦友会」が開催されたが、ハイゼもそれに出席した。エルゼはやがて父の足跡を辿るべく、青島を旅行した【メッテンライター『極東で俘虜となる』82-83頁 】。カッセル近郊のノイキルヒェン(Neukichen)出身。

C Kraft(クラフト),Diederich(-1917)
海軍膠州砲兵隊・2等焚火兵。1917年3月1日大阪衛戍病院で死亡、真田山陸軍墓地に埋葬された。当時35歳だった。【クラフトの死亡時点では、大阪俘虜収容所はすでに閉鎖され、書類上ではクラフトは似島俘虜収容所に移送されていることになっていた】。墓碑に刻まれていた「俘虜」の二文字は、理由及び年月日は不明であるが、今日削り取られている。ヘヒトハウゼン(Hechthausen)出身。

D Kropatschek(クロパチェク),Hans W.(1878-1935)
海軍東アジア分遣隊参謀本部・陸軍少尉。応召前は青島ロシア副領事館の副領事だった。帝国議会議員へルマン・クロパチェク(Hermann Kropatschek)の息子として、ブランデンブルクに生まれた。学校生活を終えると軍隊に入り、1899年少尉になった。1900年から1901年にかけて起こった義和団事件の際には、派遣軍の一員となった。1904年ドイツ参謀本部附きとなったが、1905年青島で商売に従事することになり、傍らロシア副領事館の副領事を務めた。1914年8月3日に総督府から動員令が発せられると、副領事の職を放棄して青島独軍に参加した【Charles B.Burdick:The Japanese Siege of Tsingtau、53頁】。10月7日の晩、ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプ(C.J.vosskamp;1859-)の家を訪問していた時、山東省の省都済南が日本軍によって占領されたとの知らせが届いた。山東鉄道並びにその沿線は既に日本軍の支配下にあったことから、その情報は伝書鳩によるものと居合わせたクロパチェクは推測した。兄が神学者だったことでフォスカンプとは親しかった【Voskamp:Aus dem belagerten Tsingtau、45-46頁】。青島時代はビスマルク街に住んでいた。妻マルガレーテ(Margarete)は、娘(12歳以上)と息子(12歳以下)の三人で大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後は、1922年まで日本に滞在した。その後郷里に戻り、1935年9月23日イルフェルト(Ilfeld)に没した。ブランデンブルク出身。

E Kutt(クット),Paul(-1947)
国民軍・上等兵。日独戦争前はヴィンクラー商会(Winkler & Co.G.m.b.H.)の支配人だった。青島時代はハンブルク街(日本による占領・統治時代は深山町)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳したが、時にクットも参加した。複雑な文章の時はオトマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。宣誓解放された。解放後は青島に戻ったが、1947年青島で没してドイツ人墓地に埋葬された。シュトラースブルク出身。

F Lange(ランゲ),Hermann(1877-1950)
第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。錠前工だった。1897年10月16日軍隊に入り、1902年ごろに青島に赴き機関組立工になった。日独戦争の戦闘で左大腿部銃創及び骨折、右大腿部中央砲弾破片盲貫銃創により、日本移送当初は大阪陸軍病院に入院した。大阪収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点でも大阪衛戍病院に入院していた。似島への移送時点では義肢を付けていた。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。なお、妻と息子は1915年ごろにドイツに帰国した。テューリンゲンのミュールハウゼン(Muhlhausen)出身。

G Morawek(モーラヴェク),Rudolf Edler v.(1882-)
オーストリア野砲兵第17連隊・陸軍砲兵大尉(卿)。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州の哈爾濱市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就いた。資金10万円が上海のオーストリア領事館に預けられ、横浜港に入ったところで逮捕された。1915年2月23日に行われた第2回目の尋問調書が、防衛研究所図書館に残されている。アルテルト(3年)、エステラー(3年)、シャウムブルク(2年半)の4人で大阪と似島の両収容所から二度にわたって脱走を企て、似島では、大正7年(1918年)8月、事前に用意した4個の竹筏を組み合わせて逃亡、巡査に発見され、似島集落で衛兵に逮捕された。4人は2年半から3年の刑を受け、広島の吉島刑務所に収監された。日独講和が結ばれ、俘虜多くが祖国へ帰還した大正9年(1920年)1月22日に、恩赦で釈放された。ハンガリーのセケリ(Szekely)出身。

H  Othmer(オトマー),Prof.Dr. Heinrich Friedrich Wilhelm(1882-1934)
第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。応召前は徳華(独中)高等専門学校教授(中国語学者)だった。1892年から1900まで ノルデン(Norden)のギムナージウムに通い、グライスヴァルト及びベルリンで学んだ。1904年学位取得、1907年末北京に赴いた。1908年5月18日歩兵第78連隊予備少尉、1909年青島の徳華専門学校上級教師。青島時代はホーエンローエ小路(日本による占領・統治時代は治徳通)に住んでいた。1911年看護婦をしていたエリーザベト・ブリ(Elisabeth Buri,1874-1920) と結婚し、ゲルハルト(Gerhard,1912-1996)とヴィルヘルム(Wilhelm,1914-1986)の二人の息子をもうけた。1914年8月、第3海兵大隊予備少尉、大阪収容所に俘虜第一陣として収容されるや、多くの俘虜がまだ途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。このことは多くの俘虜達に刺激を与え、やがて次々に講習会が開催されるようになり、大阪収容所はさながら「学校収容所」になった、と収容所で一緒だったベルゲマン(Bergemann)海軍中尉は書き記している【《Du verstehst unsere Herzen gut》63頁】。オトマーは講習会で教えるだけではなく、自らも学習の手本を示すべく日本語の勉強に打ちこんだ。小学校の国語読本から初めて、平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして『漢字林』から漢字を習得し、『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所、やがて移った似島収容所は、青島を中心とした中国での商売を営んでいた俘虜が多かったが、そうした商人達は折に触れオトマーの部屋に種々の相談に訪れた。似島時代のユーハイムもその一人で、広島県物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するよう勧められ、かつ励まされた。オトマー自身は講演、研究及び勉学以外では、似島でもっぱら野菜作りに励んだ。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加したが、複雑な文章の時はオトマーが手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。妻エリーザベト(Elisabeth)は息子二人(いずれも12歳以下)と三人大戦終結まで青島で暮らした。なお、青島に残ったオトマー夫人を始め総督府の高級官吏及び知識階級者の夫人達の動静は、中国学者にして宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムの妻ザロメの日記で僅かながら窺い知ることが出来る【これに関しては、新田義之『リヒャルト・ヴィルヘルム伝』の第12章「世界大戦と青島」を参照】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。解放後は上海の同済大学教授となり、1922年、エリーザベトの妹マリア(Maria Buri、1892-1971)と再婚して、息子カルステン(Carsten、-1923)と娘グードルン(Gudrun、-1926)をもうけた。ハノーファー・アウリヒ郡のウトヴェルドゥム(Uthwerdum)出身。

I Pape(パーペ),Otto(1885-1918)
所属部隊不明・後備2等機関兵曹。応召前は山東鉄道機関士だった。1918年3月18日似島で死亡し、広島市比治山の旧陸軍墓地に埋葬され、その墓碑は今日なお遺されている(写真4参照)。ブラウンシュヴァイク(Braunschweig)出身。

J Patitz(パーティツ),Friedrich
国民軍・伍長。応召前は青島の台東鎮警察署警部だった。日独戦争中は、元巡査の兵士や中国人スパイに日本軍の偵察をさせた。その際、情報の信憑性を確保するため、常に二人を1日ないしは2日違いでほぼ同じルートを探らせた。二人が出会って相談し、偽の報告をしないようなルートを考えた。二人の情報がほぼ合致すると、報酬として一人につき1ドルを与えた。時にはプリュショー中尉による空からの偵察も、その際の参考にされた。妻オルガ(Olga)は息子(12歳以下)と大戦終結して俘虜の解放が行われるまで青島に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン・ムルデ河畔のトレプセン(Trebsen)出身。

K Precht(プレヒト),Karl(1893-1985)
海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。パン職人。息子のヴィリー・プレヒト(Willi Precht)氏によれば、プレヒトはパン職人の家庭に生まれた。ヴュッルツブルクのフランクフルト街にあったパン屋テレーゼで徒弟修業した。その後フランクフルト、ケルン、ヴィースバーデン、ハノーファーで職人として働いた。1913年10月ククスハーフェンで海軍兵士として訓練を受けて、1914年1月青島に赴いた。プレヒトが収容所から祖国ドイツに送った手紙が今日いくつか遺されている。プレヒト氏は父親の遺品から、1918年末に似島収容所から姉妹に宛てた手紙を発見したが、その内容は以下である。「僕はその後も変わりありません。今はサッカー、ファウストバル、テニスで時間をつぶしています。以前はさらに畑仕事もしていましたが、それは戦略的理由から再び禁じられています。…僕たちも直に故郷へ戻れるでしょう。というのもたった今平和条約が締結されたことを知ったからです」。大戦終結して帰国後、プレヒトはパン職人から方向転換して、煉瓦職人になった。第二次大戦中はニュルンベルクで煉瓦職として働いたが、1945年3月16日の大空襲で家が完全に破壊された。プレヒトの海軍時代の思い出の品は、時には道具箱として、また時にはジャガイモ入れの箱として、空襲でも焼けずに残った海軍箱だけであるという。日本に対する熱い思いを終生抱き、息子によれば、ヴュルツブルクで日本人旅行客を見かけると、おぼつかない日本語で話しかけたという。もし飛行機恐怖症でなかったならば、必ずや日本にまた一度でかけたであろうとも息子のヴィリー氏は語っている。「日本人は世界で一番清潔好きだ。なにしろ毎日風呂に入る」との言葉を家族はよく耳にしたとも語っている。1972年、ヴュルツブルクでの最後の「チンタオ戦友会」には、友人にして同じく戦友のヴィリッヒ(Willig)と出席した【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-86頁 】。下部フランケン出身。

L Profener(プレーフェナー),Johannes
第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。応召前は上海工部局交響楽団員だった。1906年11月7日、前記楽団に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。1914年12月15日、上海総領事有吉明から外務大臣加藤高明宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレーフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあった旨の公信が出されたが、軍籍があることから不許可になった。ハンブルク出身。

M Schwaff(シュヴァフ),August
国民軍・伍長。応召前はシュヴァルツコップ(F.Schwarzkopf & Co.)商会の支配人をしていた。青島時代はホーエンツォレルン街(日本による占領・統治時代は姫路町)319番地に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。なお同年4月20日、シュヴァフは陸軍省宛に釈放の請願書と損害賠償請求書を提出した。釈放の理由としては、戦役中軍務に服さず、開戦と同時に免除されたこと、国民軍、警察または消防隊等の勤務に従事しなかったことなど5項目を挙げた。損害賠償としては、シュヴァルツコップ商会において、自身が俘虜となることで生じた損害、及び現に生じつつある損害として数十万ドルに達するとしていること。また、自身が冷湿にして風が吹き抜ける木造営舎に起居することで、健康上の障害を来たしたことを日本政府の責任としている。妻リリー(Lili)と子供(12歳以下)の二人は、大戦終結して俘虜の解放が行われるまで上海で暮らした。ハンブルク出身。

N Thilo(ティーロ),Friedrich
第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。応召前は総督府山林局長代理だった。8月末からの豪雨で破壊された道路を、部下とともに中国人労働者を使って修復に努め、日本軍が租借地境界に進軍する前に復旧させた【『青島戰史』76頁】。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで上海で暮らした。なお、1914年12月17日付けで、広島衛戍病院から青島ビスマルク街の歯科医ブーヒンガー夫妻に宛てたハガキ(俘虜郵便)が知られている。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州レンツブルク郡のノルトルフ(Nortorf)出身。

O Walzer(ヴァルツァー)Viktor(1872-1956)
所属部隊不明・後備伍長。応召前は為替仲介業を営んでいた。ヴァルツァーは長らく歴史の中に埋没していた人物だった。しかし2002年(平成14年)に、インターネットの研究組織「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」を通じて、調査を依頼された東京在住の篠田和絵氏の祖父であることが判明し、やがて篠田和絵氏はドイツに赴いて、祖父の墓前に詣でる事ができたという、実に感動的な出来事があった。『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第2号に篠田和絵氏ご自身による「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール。ヴァルツァーへ」の文章が寄稿されている。ヴァルツァーはダルムシュタットの大手化学薬品取扱商社メルク(Merck)に勤務していた。27歳のとき、ロンドンに渡り、その後青島に赴き為替仲介の仕事に就いた。青島では長崎出身の日本女性ウメさんと家庭を持って娘二人をもうけ、市内中心のフリードリヒ街(日本による占領・統治時代は静岡町、ユーハイムの店があった通り)に住んだ。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争が始まると、ヴァルツァーとウメさんは離れ離れに引き裂かれた。戦争が終結して似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメさんと接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は姪夫婦の近くに住んだ。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があり、篠田和絵さんの手元にも全く同じ写真があるとのことである。大阪収容所から差し出された手紙、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙が遺品として遺されている。習志野市教育委員会の星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の調査と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第1号、青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究会)】。ラインラントのメッテンドルフ(Mettendoruf)出身。

P Wassermann(ヴァッサーマン),Georg
国民軍・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュミット氏のホームページの「ゲストブック」には、2005年3月20日付けでPakozdi氏が以下の書き込みをしている。「私の義母イルゼ・コッホ(Ilse Kosch;旧姓Wassermann)は、1915年2月4日に青島のファーバー(Faber)病院で出生。義母の父親は青島のドイツ館のオーナーだったのでしょうか?ゲオルク・ヴァッサーマン(Georg Wassermann)は1880年生れですか?情報お願いします」。これに対しては5月23日付けで、マトゥツァトゥ(Matzat)教授が「ゲストブック」に大要以下の文章を寄せている。「Pakozdi氏に次の情報をお伝えします。1910年から1913年の青島住所録に名前が記載されています。1911年では、ヴァッサーマンはティルピッツ街のプショル醸造所レストランの業務主任、1912年にそのレストランのオーナーになり、ヘレーネ(Helene)と結婚、娘エディト(Edith)が1913年に生れたものと思われます。1913年に彼はレストランを売却して、フリードリヒ街の「チンタオ・クラブ」の支配人になりました。この建物は現存します。戦争中、妻と二人の娘は1920年初頭まで青島に留まりました」。ベルリン出身。

  似島俘虜収容所の様子
 似島俘虜収容所

 
全景

〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 俘虜全部の集合

 ドイツ人俘虜たちに課せられたことは、週一回の健康診断と朝夕の点呼だけでした。


〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 将校収容所



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 将校収容所室内


〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 下士卒収容所室内


〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 事務室



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 郵便物検閲



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 小包郵便交付



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 受診

ドイツ人俘虜達は、週1回の健康診断を義務づけられていました。



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 食事


〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 運動



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 娯楽



〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 酒保


酒保(しゅほ)とは、旧日本軍の基地・施設内や艦船内に設けられていた売店に類するもの。


〈資料〉
国立国会図書館
近代デジタルライブラリー 『大正三四年戦役俘虜写真帳』p70〜

 似島俘虜収容所


 井戸の水をくみ上げるポンプ施設の様子


〈資料提供〉
 藤井 寛

※ 「エアハルトの写真帳」
テオドール・エアハルトさんの妻から譲り受けたアルバムより…

 物産陳列館(現:原爆ドーム)で開催された『独逸俘虜技術工芸品展覧会』(ドイツ捕虜による展示即売会)のときの様子

〈資料提供〉
 藤井 寛

※ 「エアハルトの写真帳」
テオドール・エアハルトさんの妻から譲り受けたアルバムより…
 



ドイツ菩提樹

独日文化交流育英会寄贈
日本名:フユボダイジュ(学名:Tilia cordata Mill)

ヨーロッパからカフカスに分布するシナノキ科の落葉高木。
原産地は東欧。枝葉が密生し、樹形はドーム状になる。
香りの良い淡黄色の花を開く。

このボダイジュは、似島臨海公園敷地内にドイツ軍俘虜収容所が設置して
あったことを記念するとともに、独日友好を祈念するためにドイツから贈られたものです。

平成16年(2004年)2月 広島市



 『カール・ユーハイムKarl Juchheim1886-1945

今では誰もが知る洋菓子、バウムクーヘンはドイツ人捕虜によって、日本で初めて造られました。
カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは1886年にドイツのカウプ・アム・ラインで、父フランツと母エマの13人兄弟の10番目の息子として生まれました。
カールは幼いときから、菓子職人になるのが夢でした。

国民学校を卒業後に菓子店で修行をしながら、夜間の職業学校へ通い、22歳の時、菓子店協会の会長に勧められて、当時ドイツの租借地であった中国・青島市で、ジータス・ブランベルグの経営する喫茶店に就職します。

翌年、ブランベルグから店を譲り受けて、自らの喫茶店「ユーハイム」を開店しました。
カールの造るバウムクーヘンは、本場ドイツの味と同じと、在留ドイツ人の間で大評判になりました。

1914年春に帰郷し、
エリーゼ・アーレンドルフと婚約、夏に青島市にて結婚式を挙げます。
そして、二人は青島市(チンタオ)にて、店を開きます。

しかし、この直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦します。
イギリスはドイツに宣戦布告。
イギリスと同盟を結んでいた日本軍は、青島市に駐留するドイツ軍を攻撃し、青島は11月に陥落してしまいます。
投降したドイツ軍将兵は3906人でしたが、日本軍は4000名の大台に乗せるべく員数合わせのために、翌年9月になって在留民間人を捕虜に加えたと云われています。
この中に非戦闘員(民間人捕虜)だったカール・ユーハイムが含まれており、当時妻エリーゼは妊娠初期でした。
カール・ユーハイムは非戦闘員でしたが、
19歳〜49歳の男性は準戦闘員とされており、捕虜となることを逃れていたカール・ユーハイムもとうとう捕まり、日本に連行されることになります。

カールは大阪俘虜収容所へ移送されたましたが、青島に残した妻と、未だ見ぬ子を思い悩む日々を送ったことでしょう。

1917年2月19日、似島独逸人俘虜収容所が開設されるのにあわせて、インフルエンザ予防のため、捕虜全員が広島にある似島検疫所へ移送されました。

1918年11月、ドイツは降伏します。
ドイツが降伏してからは、カール・ユーハイムたちには、よりいっそうの自由が与えられることになります。

1919年3月になって広島県が、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品の、展示即売会を開催することになりました。
カールはヘルマンに勧められてバウムクーヘンなどの菓子造りの担当になりました。
カールはバウムクーヘンを焼くための堅い樫の薪や、当時はなかなか手に入らなかったバターなど、材料集めに苦労したそうですが、バウムクーヘンを焼き上げることに成功します。
     
   ユーハイムが使用した菓子レシピ

 参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 

広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)で、開催されたドイツ作品展示会にて製造販売を行います。
これが
日本で初めて造られたバウムクーヘンです。
カールは青島市が日本軍に占領されていた頃、日本人はバターの量が少なめが良いとの経験則を持っていました。
この日本人向けにアレンジした味のバウムクーヘンは、大評判を呼び好調な売れ行きとなりました。
1918年11月になって、ドイツ軍は連合軍との間で休戦協定を結び、第一次世界大戦は事実上の終戦を迎えました。
日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、殆どのドイツ人は本国への帰国を希望しましたが、カールは青島市に戻る予定でいたようです。
しかし、
青島市ではコレラが流行しているとの情報を知り、日本残留を決意します。
ちょうど明治屋が銀座に喫茶店「カフェ・ユーロップ」を開店することになり、社長・磯野長蔵から製菓部主任の肩書きで迎えられることになります。
カールの造る菓子は高い評価を得るようになり、最も人気があったのはバウムクーヘンでした。プラムケーキも品評会で外務大臣賞を得たこともありました。
カールはようやく生活の基盤も整い、
妻・エリーゼと息子・カールフランツを青島市から呼び寄せ、この店の3階で親子三人、仲睦まじい生活ができるようになります。
1922年2月、カフェ・ユーロップとの契約が終わりを迎え、今後の生き方を模索している中、ロシア人・リンゾンから横浜市中区山下町で経営していたレストランを、売りたいとの話が持ち込まれます。
カール夫妻は横浜まで視察に出向きます。
売却額は3000円でしたが客の入りは悪く、リンゾンの滞納した家賃や滞った仕入先への支払を肩代わりする条件までつけられました。
カールは断ろうとしましたが、エリーゼは「神の声を聞いた」として購入することにします。
店の名前はカールの姓とエリーゼ(Elese)のEをとって
「E・ユーハイム」と名付け、ドイツ風の軽食も出す喫茶店にしました。
近隣には昼食を手頃な価格で出す店がないこともあって、店は評判を呼び大いに繁盛しました。
しかし、1923年9月1日、
関東大震災によって横浜は瓦礫の海となりした。
山下町も壊滅的な被害となり、E・ユーハイムも焼失していまいます。
残っていたのはポケットに入っていた
5円札一枚で、それ以外の全ての財産を失ってしまいました。
カール一家は神戸市垂水区塩屋の知人宅に身を寄せ、神戸で再起を図ることになりました。
何もかも失ったカールはトアホテルへ勤めようとしたが、バレリーナのアンナ・パヴロワの勧めで、生田区(現・中央区)三宮にあるサンノミヤイチと呼ばれる三階建ての洋館に店を構えることにします。
救済基金から借りた3000円を元手に、
喫茶店「ユーハイム」を開店。
横浜時代に育てた弟子達も応援に駆けつけました。
しかし、借金だらけで床に麻袋を敷いて寝る日々だったようです。
第一次大戦と捕虜生活、関東大震災を生き延びてきた気丈な二人は、
「ワタシタチハ ヨコハマデ イッショウブンノ カナシイオモイヲシマシタ デモ ワタシ タッテイマス」という、エリーゼの言葉で頑張り抜きます。

ユーハイムの歴史はドイツ人カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムと、妻のエリーゼから始まりましたが、二人の残したお菓子・技術・言葉は、現在でもユーハイムとユーハイムの職人達に、大切に受け継がれ、ユーハイムの菓子の美味しさの秘密となっています。
カールの
「純正材料が美味しさの秘密」「一切れ一切れをマイスターの手で」「革新が伝統を築く」といった、職人魂を貫く言葉。
エリーゼの
「お母さんの味、自然の味」「体のためになるから美味しい」「小さく、ゆっくり、着実に」といった優しい心。
二人の仕事に対する厳しさと、優しさがユーハイムの菓子造りの、伝統として受け継がれています。
ユーハイムでは売れ残りのケーキは、窯で焼いて捨てるという習慣があり、現在も弟子達に引き継がれています。
弟子達に対しては衛生面に気を付けるように厳しく指導していました。
毎日入浴し、三日に一度は爪を切り、汚れのついた作業着は着ない。
カフェ・ユーロップに勤務していた時代には、初任給が15円のところ、風呂代と洗濯代として毎月3円を支給していたということです。
原料についても常に一流店が扱う一流品を仕入れました。
その姿勢は国内で良いものが手に入らないと、ラム酒はジャマイカから、
バターはオーストラリアから取り寄せるなど徹底していました。

ユーハイムを開店した頃、神戸には外国人が経営する喫茶店がなく、多くの外国人で賑わいました。
開店してから一年ほど経つと、ユーハイムの菓子を仕入れて売り出す店も現れるなど、経営は順調に拡大していきます。
大丸の神戸店が洋菓子を売り出し、近隣の洋菓子店がバウムクーヘンを模倣して売り出したましたが、ユーハイムの人気が衰えることはありませんでした。
1937年頃からカールの体調に変化が現れます。
エリーゼはカールの振る舞いに尋常ならざるものを感じ、カールを精神病院に入院させます。
カールには病識がなく問題行動を度々起こすようになり、ドイツで治療を受けさせることにしました。
カールは数年後に帰国しましたが、以前のように働くことはできませんでした。
1945年にカールは六甲山にあるホテルで静養することになりましたが、8月14日にエリーゼと語り合ったまま世を去っていきました。
カールは死の直前に、
「自分は間もなく死ぬが、戦争は直ぐに終わり平和が来る」と話したそうです。
1942年にドイツ軍に徴兵されていた、
息子のカールフランツは死んだと断言
そして、最後の言葉は
「俺にとって菓子は神」と言って、息を引き取きとりました。
エリーゼは「死ぬことが少しも恐ろしくなくなった」と語ったほど、カールの死に顔は優しく安らかだったということです。
翌日、日本では玉音放送が流れ、ポツダム宣言の受諾が発表されました。
そして、9月2日に太平洋戦争が終結します。
1947年になって
カールフランツは1945年にウィーンで戦死していたことが判明します。
カールの死後、遺族はドイツに強制送還されます。
カールフランツが大戦中にドイツ軍に従軍したこと、エリーゼが在日ドイツ人婦人会の副会長を務め、本国へ帰国した経歴があることが理由でした。
1948年になり、かつてユーハイムに勤務していた弟子達が、ユーハイムの復興を目指します。
1953年にエリーゼはドイツから戻り、会長として迎えられ、その後も社長として陣頭指揮にあたりました。
エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、1971年5月に他界しました。
ユーハイムは戦後の洋風化ブームや、1977年から1978年にかけてNHKが放映した連続TV小説「風見鶏」から起こった異人館ブームで業績は急拡大します。
神戸から全国百貨店に展開する洋菓子メーカーとして、モロゾフと双璧的存在となります。

ちなみに、日本ではなじみ深いバウムクーヘンも、
本場ドイツでは普段あまり見かけることはありません!(びっくり)
それは、バウムクーヘンをつくるのがとても大変だからです。
ドイツではバウムクーヘンは"卵"“砂糖”“バター”“粉”だけで、しかも手作りでつくられています。
とても、手間暇がかかり、材料代も高いので、売値も高くなり、クリスマス等特別な催しがあるときにしか焼かれないそうです。

カール・ユーハイム
Karl Juchheim
1886-1945


〈資料〉株式会社ユーハイム

ユーハイムの妻 エリーゼ

〈資料〉株式会社ユーハイム

ユーハイムの店

奥の棚にバウムクーヘンがたててあるのがみえます。


〈資料〉株式会社ユーハイム

神戸のユーハイムの店

〈資料〉株式会社ユーハイム

 物産陳列館(現:原爆ドーム)で行われた、ドイツ人捕虜による展示即売会でのパンフレット。

全文ドイツ語で、表紙、裏表紙、そして34ページの本文しか現在確認されていません。326点の展示品がリストアップされています。
(一部付番の重複があり、作品番号は323番までとなっています)

本文内容は…
@序文
Aカテゴリー別展示品リスト
B収容所新聞の紹介
C軽食堂の案内
D収容所内劇場の紹介
E広告
F補遺
で構成されている。

 
右上に、バウムクーヘンがのっている。


資料:宮崎佳都夫
   

 『ヘルマン・ウォルシュケHermann Friedrich Wolschke1893-1963)』

神奈川県厚木市にはヘルマンの工場があります。ここは、ハムやソーセージの老舗です。

ヘルマンの生まれ故郷は、旧東ドイツの炭鉱町、『ゼンフテンベルグ』です。
1893年、
『ゼンフテンベルグ』のラウノのという小さな町に生まれます。

   
   ヘルマン・ウォルシュケが生まれた”ラウノ”の町。
現在は、炭鉱の採掘のため町はありません。
 

ヘルマンは1916(大正5年)に大阪の収容所に送られます。

その後、全国12カ所に設けられていた独逸人俘虜収容所は、習志野、名古屋、青野原、板東、久留米、似島の6カ所に整理統合され、それにあわせてヘルマンも1917年(大正6年)2月19日クスターフ・ハッツ中佐以下543人の一員として似島に収容されます。

似島時代、食肉加工職人だったケルン、シュトルの三人で、広島のハム製造会社で技術指導をしました。
広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売会では、バウムクーヘンを出品するようにユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品しました。

1919年(大正8年)12月25日付の中国新聞の記事には、当時29歳のヘルマンは、他の独逸俘虜2人がハムの製造に熟練しており、廣島市廣瀬町水入町旭ハム製造所酒井商会にでかけて製造方法を教えていました。

第一次世界大戦のとき、中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜となったドイツ兵は四千人をこしました。
大正5年(1916年)、捕虜の中には、カール・ヤーン、バン・ホーテン、ローマイヤー、ヘルマン・ウォルシュケなどの食肉加工の技術者がいました。

第一次世界大戦の終結を迎えて、大正8年(1919年)捕虜のほとんどがは帰国の途につきましたが、ヘルマンさんはローマイヤーなどとともに日本に残りました。

11年には明治屋に雇われ、もっぱらソーセージやハムの製造指導を行いました。

解放後は、
明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になりました。


独立してからはいろいろなメーカーにも協力したそうです。

ベーブルースが来日した1934年(昭和9年)、ヘルマンさんは
ホットドッグを作って日本で初めて甲子園の観客に売りました。
ほとんどの日本人にとって、未知の食べ物でした。
めずらしさと、美味しさのため、球場では爆発的に売れます。

ソーセージの普及をねらって銀座街頭での試食会を企画したこともあるようです。

ヘルマン・ヴォルシュケは大柄でやさしい人だったそうです。
経営者というよりコツコツと働くことのすきな、根っからの職人でした。

昭和初期には農村不況対策として畜産振興が叫ばれるようになります。
狛江にも東京府連(後に都農業会)の施設が旧野川と六郷用水合流点辺りにでき、仔豚の斡旋や近隣から出荷される牛や豚の解体・加工を始められていました。
敗戦後、この施設は民間に払い下げられたましたが、ヘルマンさんは敷地の一角を借り受け、自営の工場を造り、ハム、ソーセージの本格的製造に乗り出します。
後に現在高野の工場のあるところに移り、事業を拡張していくことになります。

1939年、第二次世界大戦が勃発します。
そして、東西ドイツの分裂。1961年(昭和36年)東西ベルリンが閉鎖されます。
東ドイツにあたるヘルマン・ウォルシュケの故郷はますます遠くなっていきました。

日本とドイツは、第二次世界大戦中は同盟国でしたが、ヘルマン・ウォルシュケは幽閉生活を余儀なくされます。
ソーセージづくりも禁じられました。

 
 長野県野尻湖にて幽閉生活を送る
ヘルマン・ウォルシュケ(写真左)


参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

第二次世界大戦が終わり、戦後からは商売も起動にのり、順調に売り上げも上がっていきました。

望郷の念にあったのか、故郷のドイツに風景が似ているということで、軽井沢に別荘を建てて住み始めます。
軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業し、終生日本で暮らしました。

教会でドイツ人牧師ハロルド・エーラさんから群馬県の養護施設小持山学園の話を聞いたことが機縁となり、学園と深い交流を持つようになります。
毎月届けた、ハムやソーセージは、学園の子どもたちの栄養向上にたいへん役立ったということです。

晩年は、故郷についてほとんどヘルマン・ウォルシュケは語らなくなっていました。

1957年、ヘルマン・ウォルシュケのもとに一通の手紙が届きました。
その手紙はなんと
32年前に投函された手紙でした。
混乱の中、戦時中を除いて、日本とドイツを行き来した手紙は、日本に
6回も帰ってきた後、ようやくヘルマン・ウォルシュケの元に届いたものでした。
         
  32年前に投函された、友人からの手紙。日本に6回戻ってきた後、ようやくヘルマン・ウォルシュケの手元に届いた。 

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 
 

この手紙によって、封じ込めていた望郷の念がヘルマン・ウォルシュケの心にあふれ出します。
「死ぬまでに、もう一度故郷に帰りたい…。」
当時、入国がきわめて困難だった東ドイツでしたが、ヘルマン・ウォルシュケは奔走し、故郷に帰れる段取りがつきました。
全ての手続きが終わり、1963年3月27日、1週間後に出国と決まったそのとき、突然の心臓発作にて死去してしまいます。
69歳でした。

日本で暮らして半世紀、「ホットドッグ」を日本に広めたヘルマン・ウォルシュケの墓は、東京狛江の泉竜寺にあります。
墓碑には、
「遙かなる祖国ドイツを誇り、第二の祖国日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されています。
今は神奈川県厚木市で、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏(二代目)が後を継いでソーセージ製造に従事しました。
 
 息子の
ヘルマン・ヴォルシュケ氏
(二代目)


参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

大量生産に頼らない、父親から受け継いだ職人の技は、じっくりと時間をかけて作られ、その意志は現在も生きています。

   独逸人俘虜(捕虜)

ヘルマン・ウォルシュケ


参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

   日本でハムやソーセージを作るヘルマン・ウォルシュケ

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

   ヘルマン・ウォルシュケ
Hermann Friedrich Wolschke1893-1963


 カール・ユーハイムと同様、日本に終生過ごしました。
 祖国の土を踏むことはありませんでした。

 大阪の甲子園で販売されたホットドッグ

   ヘルマン・ウォルシュケの墓

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
   
   
 似島イレブンと『フーゴー・クライバーHugo Klaiber1894-1976

日独戦争に敗れて日本に送られる以前、ドイツ兵たちは青島の練兵場兼グラウンドで、時にイギリス海軍の兵士たちとサッカーの試合を行っていました。
一方日本では、サッカーはまだまだ未知のスポーツでした。

似島の俘虜たちは、既に大阪収容所時代にサッカーチームを結成していて、1軍と2軍の2チームがあったようです。

大阪収容所の俘虜は大正6年(1917年)2月に似島へ移されたましたが、ボールの文字と背景の生垣から、まだ大阪時代に撮られた写真と思われます。

大阪収容所時代に結成されたサッカー好きの軍人たちからなる、ドイツ人サッカーチームです。

1919年1月26日、当時の広島高等師範学校のグラウンドで、
日本初といえるサッカーの国際親善試合が行われました。

この様子は、一人の日本人、
山田正樹によって克明に記録されています。
   
  山田正樹とその手記

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 

対戦したのは広島高等師範学校、広島県立師範、高等師範付属中、広島一中の生徒たちの合同チームと、似島収容所のドイツ兵俘虜でした。
山田正樹の手記によると、試合は終始ドイツ兵捕虜チームの優勢で、二試合行った試合の結果は、1試合目が『5−0』、2試合目が『6−0』で、ドイツ兵俘虜チームの圧倒的な勝利でした。

日本の学生チームは1度もボールをゴールに入れることができませんでした。

日本学生チームはこのとき、ドイツ兵捕虜チームの技術力に愕然となったそうです。
当時、日本ではボールのキックはつま先で蹴るのが基本でした。
つま先でのキックはコントロールが難しく、パスをまわす組織的な試合運びは不可能に近い状態でした。
一方のドイツ兵捕虜チームは踵をつかったヒールパスや、足の内側を使うサイドキックなどを使いました。
日本人が初めて触れた、近代的なサッカーでした。

手記には…
「ゴールイン6、コーナーキック7、ゴールキック27を敵に与えて、破れしこと是非もなし。彼ら独逸人は単に個人の敵のみならず、実に人類全ての強敵なり」
ドイツ兵捕虜チームの強さに奮起して、日本のサッカーは強くなっていったといわれています。

   参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』


当時、高等師範学校の主将を務めた田中敬孝は、ボートを漕いで島に渡り、似島の俘虜たちからサッカー技術の指導を受けたとも伝えられています。
なお、バウムクーヘンで知られるカール・ユーハイムも大阪時代にサッカーをしていて、ゴールキーパーを務めたそうです

「似島イレブン」が勢揃いしている写真の人物については、わからないものが多いですが、数人の俘虜については人物の特定ができています。

大阪収容所時代のサッカーチームの写真〈右から1番目〉のシューアマンは広島高等師範学校等の学生たちとの試合から約3ヶ月後、1919年4月6日に似島俘虜収容所にて肺炎のため死亡しています。
享年27歳。
1918年〜1919年にかけて"スペイン風邪"(インフルエンザ)が猛威をふるっており、全世界で5,000万人が死亡したといわれています。
日本においても39万人が"スペイン風邪"によって亡くなったそうです。
シューアマンの遺灰は死亡して約1年以上後にに家族の元に返されました。
 
 
   シューアマン シューアマンの墓(埋葬時の写真)   
   参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』
 


   
   ハインリッヒ・レーヴェン
帰国しているはずであるが、不明。
 
   
  ゲオルク・イデ
1920年 解放後にインドへ。1922年 ドイツに帰国。その後消息不明。
 
   
   エルンスト・クラインベック
第二次世界大戦東部戦線にて行方不明。
1949年死亡届が出される。
 
   
   アロイス・ホロナ
1920年俘虜解放後、行方不明。
 

   
   フーゴ・クライバー
Hugo Klaiber1894-1976
 

『似島イレブン』のその後の消息はほとんどわかっていません。
唯一わかっているのが、
フーゴ・クライバーです。
26歳のときドイツに帰国後にクライバーはこのように語っています。

「似島独逸人俘虜収容所では、とても健康的な生活を送ることができた。収容所の隣にはグラウンドがあり、同じ出身地の仲間とチームを作り、そこで何度も日本人とサッカーをしました。」

1921年、フーゴ・クライバーはサッカーチームを創立します。
当時、ドイツは敗戦後の混乱と不安の中にありました。
   
 参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』


1926年5月26日、フーゴ・クライバーは住民として再登録し、その翌年パウラメイケーザフォンオルクシュタルという女性と結婚し、バンバエルという町に引っ越しました。
テュービンゲン近郊の村ヴァンバイルに引っ越しをしたフーゴ・クライバーはでサッカークラブ(S.Vヴァンバイル)を結成します。
1932年、地区リーグで優勝をしています。
   
 1932年、地区リーグで優勝

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

結婚15年目、最愛の妻パウラが結核によってこの世を去ります。
その辛さに耐えかねたのか、フーゴ・クライバーは町から姿を消してしまいます。
 妻パウラとフーゴ・クライバー

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

フーゴ・クライバーには
エウァルド・クライバー(Ewald・Kliber)という息子がいました。
1942年、フーゴ・クライバーの息子のエウァルド・クライバーは戦死します。
享年23歳でした。

フーゴ・クライバー自身も
第二次世界大戦中はフランスの捕虜になったようです。

 
 エウァルド・クライバー(Ewald・Kliber)

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

そのクラブは今日なお存続していて、会員数は
700名に及んでいます。
フーゴ・クライバーのサッカーへの情熱は、今なお受け継がれています。
『S.Vヴァンバイル』を創立したフーゴ・クライバーは今でもヴァンバイルの町の恩人として親しまれています。

実は、フーゴ・クライバーにはもう一人息子(クラウス氏)がいたのです。
ヴァンバイルの町から姿を消した、フーゴ・クライバーはスイスにほど近い
『ジップリンゲン』という町にいました。
最愛の妻と死別した
2年後、フーゴ・クライバーは再婚して、クラウス氏(1932年)をもうけました。
晩年は、再婚した妻と居酒屋を経営して過ごしました。
1976年、82歳でフーゴ・クライバーは死去します。
フーゴ・クライバーは終生サッカーを愛し続けました。
 クライバー(左)とクラウス氏(中央)と再婚した妻(右)

参考資料:新広島(フジテレビ系列)
 『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』

そこから育ったサッカー選手には、現在浦和レッズで監督を勤めるギド・ブッフグァルトがいます。
1994年「浦和レッズ」に入団します。
2004年のJリーグセカンドステージでは見事、浦和レッズを優勝に導きました。
ギド・ブッフヴァルトは…
「私は、ヴァンバイルでサッカーを始めました。あそこで育ちましたからね。昔、私のクラブの会長が日本で初めてサッカーの試合を行ったという話には驚いています。世界が狭いというか、小さくなっているのを感じます。いよいよワールドカップです。日本代表は前回、地元開催でのベスト16位ですが、今回は本当の意味で、初めてベスト16が達成できると信じています。」
と述べています。

このエピソードは、平成18年(2006年)1月22日テレビ新広島(フジテレビ系列) で、『ドイツからの贈りもの−国境を越えた奇跡の物語』として放映されて話題を呼びました。

   
 浦和レッズ時代 2004年 セカンドステージ 浦和レッズ優勝  2006年 天皇杯初優勝 

 似島イレブン
 (大阪の俘虜収容所にて)

 写真右から3番目がフーゴー・クライバー

 似島イレブン
 (似島の俘虜収容所にて)

 

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