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似島の暁(あかつき)部隊と連絡艇(マルレ)






















               
↑↑↑ その他、似島の各所にて、訓練が行われた。また中の原には訓練兵の兵舎が作られた ↑↑↑


陸軍船舶司令部(りくぐんせんぱくしれいぶ)、通称
暁(あかつき)部隊」とは、海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊をさします。
総兵数30万人にも及ぶ大きな組織です。

宇品に司令部があり、主に少年兵たちが務めました。
1945年8月6日午前8時15分、広島に世界で初めて原子爆弾が投下されたとき、似島陸軍検疫所は臨時の野戦病院に指定されます。
そのとき、多くの負傷者たちの看護にあたったのも「暁(あかつき)部隊」の少年兵たちでした。
ここでは、似島暁部隊(海上艇進戦隊)について紹介していきます。


※ 参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
※ 情報提供:宮崎佳都夫 様

※ 参考文献:「もうひとつのヒロシマ」-秀男と千穂の似島物語- 仲里三津治 著
※ 参考文献:「明日から農家になります」〔小笠原久雄〕 小笠原美奈子 水谷真理 編
※ 参考文献:「船舶団長の那覇帰還行」
※ 参考文献:「谷本版陣中日誌」
※ 参考  :「鳥飼行博研究室」
※ 参考文献:「陸軍水上特攻隊 ルソン戦記―知られざる千百四十名の最期」 儀同 保 
※ 参考資料:国立国会図書館「近代デジタルライブラリー
※ 
参考資料:「ああ特攻十二期生」第十号 宮崎佳都夫 様
※ 参考資料提供:メロウ伝承館 様
※ 参考文献「似島 ー廣島とヒロシマを考える」 原水爆禁止似島少年少女のつどい実行委員会



【このページの内容】
 
1 暁部隊(あかつきぶたい)
 2 似島・江田島の暁部隊(あかつきぶたい)
 3 海上挺進戦隊と似島の係わり
 4 暁部隊(海上挺進戦隊)が使用した連絡艇〔マルレ〕
 5 震洋
 6 原子爆弾投下後の似島と暁部隊

 7 暁部隊に関する関連書籍


 暁部隊(あかつきぶたい) 陸軍船舶司令部

陸軍船舶司令部(りくぐんせんぱくしれいぶ)、通称「暁部隊」(あかつきぶたい)
海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊で、司令部は宇品にありました。
明治天皇御駐驛址碑の側に、宇品陸軍運輸部があったことを示す碑が置いてあります。

 『明治天皇御駐驛址碑』のそばに『陸軍運輸部 船舶司令部』の碑がみえる。『明治天皇御駐驛址碑』は明治天皇が全国行幸の一環として明治28(1885)年に広島に来られた際に、建設中の宇品港から呉・倉橋島を視察されたことを記念して、昭和14(1939)年に建てられたものである。  

   
  【表】
旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部
※ 現:宇品中央公園
【裏】
昭和55年2月吉日
暁宇品会
※ 現:宇品中央公園
 
  ← 左地図

『1945(昭和20)年の広島市の地図』

広島駅から宇品港をつなぐ「宇品線」があった。

将兵は出兵から復員までに

 広島駅

宇品線

宇品港

戦地

似島陸軍検疫所(第二検疫所)

宇品港

宇品線

広島駅

とう経路であったと考えられる。
 
 
「宇品凱旋館建設記念碑」
「皇紀二千六百年 昭和十五年 二月十一日」
「陸軍中将 田尻昌次書」

写真:平和記念資料館
 
  宇品凱旋館建立記念碑(左) と 宇品凱旋館(右)

この宇品中央公園の中へ入ると中央にまずこの「宇品凱旋館建立記念碑」があります。〔写真左〕
田尻昌次(しょうじ)中将は、陸士18期で、歩兵科出身ですが船舶関係の勤務が多かった人物です。
兵庫県出身、陸大30期で、功四級と功三級金鵄勲章を受章しています。
この記念碑を建てた当時は第一船舶輸送司令官兼運輸部長(昭和13年3月1日発令)でした。
田尻中将は、この碑が建てられた直後の同年3月7日に待命となり、3月30日に予備役編入となります。

1939年(昭和14年)、宇品凱旋館〈鉄筋コンクリート3階建て〉が作られました。〔写真右〕
ここに大規模な凱旋館が建設されていました。1970年まであったということです。
日華事変が始まってからは、宇品港は連日にわたって軍用船の出入りを見たり、出征軍人・傷病将兵を送迎し、
完全に軍用港として活動することになりました。
1938年2月には、出征軍人・戦傷病兵の歓送迎・慰安のために、宇品の陸軍運輸部構内に凱旋館の工事が起工され
翌1939年4月に竣工式、1941年6月落成式をあげました。
この凱旋館の工費28万5000余円は下賜金、陸軍省、満州国、その他全国からの寄附金でまかなわれたそうです。

 
 


1904年「台湾陸軍補給宇品本部」を、「陸軍運輸本部」昇格させ、金輪島に造船所を設置したり恒常的な活動をはじめました。


1942年7月陸軍運輸部廃止、陸軍船舶隊となり、その司令部を旧陸軍運輸部本部(凱旋館内)に置きました。
陸軍船舶隊、通称「暁部隊」
そして各専門部隊が出来たのもこの年です。
船舶司令部の部隊はすべて秘密保持のため「暁○○○○部隊」という呼び名が与えられていました。

部隊は…
 ○ 「野戦船舶本廠」(やせんせんぱくほんしょう)
 ○ 「船舶砲兵団」(せんぱくほうへいだん)
 ○ 「船舶練習部」(せんぱくれんしゅうぶ)
 ○ 「船舶衛生隊」(せんぱくえいせいたい)
 ○ 「船舶防疫部」(せんぱくぼうえきぶ)
 …などに分かれていました。

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昭和20年船舶司令部組織図DL(PDF)

資料:「ああ特攻十二期生」第十号 宮崎佳都夫 様


当時の日本陸軍は、大発動艇や小発動艇などの上陸用舟艇をはじめとして、揚陸艦や駆逐艇・飛行機母艦・潜水艇に至るまで多様な軍用船舶を保有していました。
このうち大型船舶の運用に関しては民間船舶会社からの派遣船員が中心となっていたので、船舶兵が運用したのは主に上陸用舟艇などの小型船舶でした。
船舶兵は、手旗信号など通常の陸軍兵は受けない航海術関係の訓練を受けていました。

陸軍が保有・徴用した船舶の自衛武装の操作も、船舶兵の任務でした。
この任務のため、船舶砲兵連隊(当初は船舶高射砲連隊と呼称)が編成され、必要に応じてその一部が各船に船砲隊として乗船することになっていました。
各種の火砲のほか、対潜用の爆雷の運用も行っていました。

広島市営桟橋を隔てた陸続きの島、元宇品には、陸軍船舶部隊(通称暁部隊)地下司令部の跡だったらしき地下要塞の跡が残っています。

  1894 (明治27) 宇品港に運輸通信支部を開設。事務開始
1896 (明治29) 陸軍運輸通信部宇品支部に改名
1903 (明治36) 陸軍運輸部条例発布
1937 (昭和12) 第一船舶輸送司令部設置
1940 (昭和15) 第一船舶輸送司令部が廃止され船舶輸送司令部を新設
1942 (昭和17) 船舶輸送司令部が廃止され船舶司令部を創設
1945 (昭和20) 陸軍運輸部廃止
 




 似島・江田島の陸軍船舶練習部(センパクレンシュウブ)-第十教育隊 〔暁部隊の一組織〕

この部隊は江田島の「幸の浦(こうのうら)」を本部基地とする秘密部隊で、1944(昭和19)年8月に突如として誕生します。

この秘密部隊の正式名は
「陸軍海上挺進戦隊(りくぐんかいじょうていしんせんたい)」といい、その設置目的と任務は水上特別攻撃艇(四式肉薄攻撃艇)〔略称:マルレ〕に乗って、爆雷とともに敵艦に突撃する正に海の特攻隊でした。

その仕様はベニヤ板で造った舟に自動車のエンジンを装置して時速24ノット(約45km/h)で走り、250kg(120kg×2 または250kg)の爆雷を積載していました。

この特攻戦隊は第1戦隊から第53戦隊まで部隊編成されました。

空辰男氏は著者「加害基地宇品」の中で、その隊員のほとんどが旧制中学3年修了以上の志願兵で構成されていた、15歳から20歳までの非常に若い船舶特別幹部候補生であったそうです。

陸軍海上挺進戦隊に配属されるまでに、船舶練習部の隷下である第十教育隊で訓練を受けていたようです。

   陸軍船舶練習部〔第十教育隊〕の起こり  

小豆島の西の豊島という島〈香川県小豆島渕崎村(現土庄町)の船舶特幹隊〉挺進戦隊のはじめの訓練場になります。
 

資料:google
 

やがて1994年8月25日、特幹隊の教育課程の終了式が行なわれました。隊内では各区隊別に祝宴が設けられ、酒や食べ物が用意されました。隊員は未成年者が多く、酒は初めてという者も一時でも重苦しさを忘れようと、無理にも飲み、声がつづく限り歌を唱い、騒ぎまわったそうです。

夜が明けると、隊員に墓参りのための帰郷休暇が与えられたました。マルレの訓練に入っていない者達は、1944年8月の末までの期限で先に営門を出ます。訓練中であった者達は、訓練が終わった1944年8月末から1944年9月3日までの期限で帰郷休暇が与えられます。
出発にあたって、
隊について口外せぬこと、指定の集合日時に絶対遅れぬことを厳重に言い渡されました。
家郷において、隊員達は、特別な隊に入れられ、これが最後になるとは言えず、心のうちで家族との別れを告げました。
奥地や離島からの出身者などは、五日間の日限の特別休暇では家に帰れませんでした。そのため家族に会う機会もないままに終わってしまった者もいました。

   
   小豆島
昭和19年7月、船舶司令官・鈴木中将の検閲を受ける
船舶特幹隊。下士官養成の目的は崩れ去り、
海上艇進戦隊に編入されて特攻に殉じた。


資料:陸軍水上特攻の最後
儀同 保
 広島駅  
 
 
     
   宇品港桟橋 宇品御幸通一丁目(右上)
宇品進道路(左下)
 
 


帰郷休暇が終わると、集結地に指定されていた広島市の宇品に集まります。

   
  宇品線のレール跡とポイント(切り替え機)

宇品線は、宇品港が軍用港としてクローズアップされた日清戦争時の明治27年に、山陽本線完成に併せて
施設された旧陸軍の軍事輸送専用線で、明治39年3月制定の鉄道国有法により国鉄に移管されたものです。
広島-宇品間5.9キロメートルを着工からわずか16日間で完成。さらに、起点の広島駅には軍用列車の引き込み線が
整備され、終点の宇品駅には陸軍運輸部宇品支部が設けられました。
太平洋戦争が始まると、兵士や兵器を積み込んだ軍用列車が昼夜なく30分おきに入るほど、慌ただしい毎日でした。
宇品駅の
軍用ホームが560メートルと当時としては日本一の長さを誇っていたことからも、宇品線の果たした役割の
大きさをうかがうことができます。
広島に原爆が投下された昭和20年8月6日には、
宇品-南段原間を3往復し、約3,000人の負傷者を宇品凱旋館に収容しました。

軍用桟橋の役目を終えた戦後は、貿易港として生まれ変わった広島港の動脈として、地域住民の足として利用され、
広島市の復興を支えてきました。しかし、道路網の整備が進むにつれて、貨物・旅客数は減少し始め、ついに、
昭和17年に旅客列車は廃止され、1日1往復のみの貨物専用線となったのです。
そして、
昭和61年9月30日、宇品線は92年の歴史に終止符を打ち、記念としてここに形を残すこととなりました。

広島県広島港湾振興局

※ 現:宇品中央公園
 
 
 
     
   宇品線の説明看板

宇品線の足跡をたどる
鉄道伝説ゆかりの地をめぐり

広島の宇品港は日清戦争において輸送の拠点基地となり
ました。広島駅と港を結ぶため大急ぎで整備されました。
その期間 わずが17日!
日本最短と言われています。
また宇品駅のホームは積み下ろし迅速に行うため
なんと560mもありました。
これも当時は日本最長と言われていいあmした。
数々の伝説を生んだ宇品線です。
昭和61年に廃線となりました。


※ 現:宇品中央公園
 宇品線

宇品線のレール(エンド部分)と信号機

※ 現:宇品中央公園
 



宇品から江田島に向かい、その北の端にある幸ノ浦(こうのうら)という村落に、
受け入れ基地として新設された第十教育隊(通称、松山部隊、隊長は松山作二中佐)に移されます。

   
  旧陸軍桟橋(六管桟橋)…宇品波止場公園

明治22年に築港された宇品港は、日清・日露戦争を契機に、昭和20年まで主に旧陸軍の軍用港として使用されてきました。
その中心的役割を果たしたのが、明治35年に軍用桟橋として建設されたこの六管桟橋です。
この桟橋は、戦争中は多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国を迎え、広島の歴史を見守ってきた貴重な
証言者です。また、築港当時の唯一の施設であり、歴史的、建築的にも高い価値があります。
戦後は、海上保安庁の船舶の係留に利用されてきましたが、1万トンバースの増設に伴い、護岸としてその姿を残しています。
宇品港の名称が改められて広島港と呼ばれるようになってからも、ずっとその歴史を刻んできたこの桟橋は、
広島の歴史そのものです。
桟橋の石積みを公園の護岸として保存し、一部を展示しています。

広島県広島港湾振興局
 
     


豊島において訓練を終わっていた戦隊は、南方用の諸装具が支給されました。また万一の場合の自決用である拳銃と騎兵用の軍刀も渡されました。
軍楽隊が江田島に来島して、船舶練習部でつくった船舶特幹隊歌の指導が行なわれました。


不壊(え)神州に妖雲の かげりて暗き時ぞ今
父祖伝来の血はたぎり 挙(こぞ)りて参ず小豆島
ああ純忠の香に匂う 清き誠の若桜
我らは船舶特幹隊


出航の直前、隊員たちはには陸軍曹長の階級章がわたされました。最初のうちは戦死と同時に二階級上げて少尉にするための予備的な措置だったようですが、後に下士官ならすぐ少尉に特進させるという"特攻進級"の扱いがはっきりしたため、隊員は1944年11月10日付で陸軍伍長に昇進することになります。

各戦隊はいくつかに分かれ、乗船者の数だけ舟艇を受領し、準備のできた戦隊から、舟艇を積んだ輸送船に乗りました。これらの輸送船は、1944年9月10日ごろをはじめとして、宇品から関門海峡をへて、南の海上へと出て行きました。

訓練が未了の隊は、この近くの海で舟艇訓練を受け、数日の後に出航して行きます。

基地は砂浜の湾に面しており、江田島の山の北側を越えた反対側には「海軍兵学校」がありました。
「幸の浦(こうのうら)」は外界から完全に切り離された場所にある秘密基地で、訓練中には見張りがたって地元の人でさえ、そこで何が行われているのか知らなかったそうです。

第十教育隊は江田島の「幸の浦(こうのうら)」を本部基地とする秘密部隊で、昭和19年8月に突如として誕生しました。この秘密部隊の正式名は「陸軍海上挺進戦隊」といい、その設置目的と任務は水上特別攻撃艇〔略号○レ(マルレ)…○の中に"レ”〕に乗って、爆雷とともに敵艦に突撃するまさに生みの特攻隊でした。

その仕様はベニヤ板で造った舟に自動車エンジンを装置して
時速24ノットで走り、250kgの爆雷を搭載していました。

この特攻戦隊は
第1戦隊から第53戦隊まで部隊編成されていました。

空辰男氏は著書「加害基地宇品」の中で、その隊員のほとんどが
旧制中学3年修了以上の志願兵で構成された、15歳から20歳までの非常に若い船舶特別幹部候補生であったと記述しています。

他の記録や証言によると…
第1戦隊から第19戦隊までは若い船舶幹部候補生によって編成されていました。
第20戦隊から第30戦隊は全国各地の部隊から選抜して集めた軍歴豊富な下士官
たちを充当していたようです。

第1戦隊から第30戦隊までは、1945年1月にフィリピンのリンガエン湾で米軍の艦船に突撃する作戦を実施し、その後の同年4月の沖縄戦突撃作戦を行っています。この作戦には2,288人が参加し、1,636人が戦死しています。しかし、戦地に赴く途中に敵の潜水艦による魚雷攻撃で輸送船が沈没し、多くの隊員が海没しています。

特攻訓練を受けていた少年兵たちには何の徽章(きしょう)もつけられていませんでしたが、少年兵たちの上官は徽章(きしょう)をつけていました。特攻の基地に携わる兵
(上官)の徽章(きしょう)は、イカリのマーク(海軍)と星のマーク(陸軍)が重なった特殊なもので、さらに、れんげの花のマークがつけられていました。

       
  【陸軍船舶兵の胸章 他】
「船舶工兵」「上陸工兵」などの一部でしたが、太平洋戦争の激化により、1943年(昭和18年)に独立した兵種となります。
船舶関係の部隊に属する陸軍船舶兵は、
1944年(昭和19年)5月9日制定の船舶胸章(紺青色の台地に、
錨、鎖と星章が付された形状
)を軍装の右胸に着用しました。
 
 

れんげの花はおそらく『特攻徽章』(とっこうきしょう)だと思われます。
幸の浦(こうのうら)を基地にする船舶練習部-
第十教育隊の中でもその存在を知っているのはごくわずかだったようです。

当時の少年兵は「一応、僕ら、助かる可能性があるってことになっている。でも、うまく敵艦に接触して爆発からどうにか逃げられたとしても、敵はだまって見ているわけではない。よけいな燃料も積んでいない。成功しても助かったって話は聞いていません…」と話しています。

第31戦隊~第53戦隊までは、本土決戦のために準備されました。

終戦時には第31戦隊から第40戦隊までが訓練を終えて、四国や九州の海岸に配備されていました。

原爆投下時には隊長の斉藤義雄少佐をはじめとする、
第41戦隊以降の約1,500人の部隊員が在籍して江田島の幸の浦や似島の深浦などの船舶練習部の隷下である第十教育隊で訓練を受けていたようです。

原爆投下直後の8月6日午前11時、陸軍船舶司令部司令官の佐伯中将から船舶練習部第十教育隊隊長の斉藤少佐に広島市民を救出するための出動命令が出されます。

部隊は訓練を一時中止し、大発あるいは小発という上陸用舟艇に分乗して正午過ぎに宇品に上陸します。

部隊を二つに分けて、一隊は舟艇で河川を遡上して被災市民を舟に乗せ、他の一隊は陸上で被災者を運搬する作業を任っています。

この作業で救出した市民を似島(陸軍第二検疫所…現在の似島臨海公園〈似島臨海少年自然の家〉)及び金輪島移送しました。
 
資料:google map
 
この部隊は広島電鉄本社を指揮所と定めて、8月12日まで隊員を交代で任務に就けながら、鉄やの救助や消火の活動を行いました。

後に斉藤部隊長は「広島県原爆戦災史」の中で
「処理した死体は1万人以上に及び、また収容した負傷者は数万人を下らない」と述懐しています。

江田島にある「幸の浦」にあった訓練基地は、似島のすぐ対岸の江田島の北岸に位置します。
そこに展開する部隊は、本来なら陸軍水上特別攻撃隊(りくぐんすいじょうとくべつこうげきたい)、または海上挺進戦隊(かいじょうていしんせんたい)と同じでしたが、すべてが秘密に隠された部隊でした。

戦争が終わっても長い間その存在すら知られていませんでした。

現在では、当時をしのばせるものといえば、湾から突き出た石積みの一本の桟橋と、山裾に掘られたいくつかの防空壕だけが当時の面影です。

 海上挺進戦隊(船舶練習部-第十教育隊)と似島の係わり

 
①似島に設置された施設の概要

表向き、陸軍船舶練習部第十教育隊と呼ばれた海上特攻隊がありました。
部隊の本部は似島検疫所対岸の「幸の浦」(こうのうら)に設置されていましたが、ここ似島にも訓練基地や宿舎施設群が建設され、「マルレ」と呼ばれた船艇を収納する場所が確保されていました。この部隊が現在も世間一般に広く周知されていないのは、秘密部隊であったこととともに、戦況が悪化した太平洋戦争末期の設置で、かつ戦闘参加機関が一年足らずと短かったことも、その要因です。

 
深浦(ふかうら)の訓練基地
深浦地区(ふかうらちく)には昭和15年に陸軍が住民から土地を強制的に借り上げて設置した船舶工兵隊の基地が既にありました。
その後の昭和19年夏頃に、陸軍海上挺身隊(特攻隊)の訓練施設に転用されました。
ここは本部が設置された江田島の「幸の浦基地(こうのうらきち)」と相対する位置関係にあり、ベニヤ板で造った小さな舟を用いて敵船に突撃する海上特攻隊の訓練に供されていました。
この地域は施設への立ち入り禁止措置のみならず、「敵機による爆撃の恐れ有り」と称してその周囲一帯の事業者に退去を命じています。その為、養鶏経営者の移転や耕作者の作付け禁止の勧告措置がとられるなど住民に制約や忍従を強いました。
戦隊の訓練は基地の近辺のみならず、似島周辺一帯も訓練海域として走り回っていました。現在、当時を偲ばせる陸上の遺跡は建物の基礎部分以外に何一つ見あたりませんが、海岸には往時の石垣組みの「スベリ」(桟橋)が2基残っています。

 
中ノ原(なかのはら)の兵舎群
中ノ原では、昭和19年から20年にかけて2.5ヘクタールの平坦地一面にたくさんの特攻隊用兵舎が建設されました。また、兵舎の周辺には飲料水を確保するための大きな深井戸(現存)を掘っていたり、中ノ原と隣接する長浜の陸軍船舶部燃料貯蔵施設を連絡するための素堀トンネルも掘っていました。しかし、当時では特攻隊の訓練兵が常駐して兵舎を使用したり、この地で継続的に訓練をすることはなかったようです。海岸の「スベリ」(桟橋)周辺には訓練用の船艇が置かれていたということです。
戦後、兵舎は解体され、数年を経て元の畑地に戻され農作物が生産されるようになりました。
その後も当分の間は、畑の中に兵舎の基礎部分が残置されたままの状態でした。
現在は海岸の「スベリ」(桟橋)が1基残るのみで、その往時を偲ばせる遺跡はありません。

 
④ 七人窪(しちにんくぼ)小筏(こいかだ)の船底格納処
ベニヤ板で建造した特攻用の船艇や他の軍事船艇を米軍の攻撃から回避するために設置された施設です。
部隊本部の幸の浦基地のみでは船艇を係留、格納しきれない状況と戦争末期には広島市や呉市の都市とともに広島湾の艦船に対しても米軍艦載機による銃爆撃が日常的に行われていた状況に対応するためにだったと思われます。
敵機から発見しにくいような小筏(こいかだ)の浜と七人窪(しちにんくぼ)の入り江を掘削し、格納処として利用してました。
「終戦後、当分の間は島の所々に特攻艇が残置されていた。七人窪の手前のナダマワリ(学校の先の海岸)辺りに3艇くらい転がっていた。」
「戦争が終わった後にも、中ノ原の海岸に何艇か放置されていた。」
等という証言がありました。

似島と江田島「幸の浦」の位置関係
資料:google map

似島の海上挺身隊関連地図

海上挺身戦隊 戦没者慰霊碑
(江田島、「幸の浦」の戦没者慰霊碑。海の向こうに見える島が似島)


 
海上挺進戦隊顕彰之記


昭和十九年戦局の頑勢を挽回すべく、船舶特別幹部候補生の少年を主体とし全陸軍より選抜せる下士官、将校の精鋭を以て編成されたる陸軍海上挺進戦隊は、
二五○キロ爆雷を装備せるベニヤ製モーターボートにより一艇以て一船を屠るを任務とし、此処幸之浦の船舶練習部第十教育隊に於て昼夜を分かたぬ猛訓練に励み、第一戦隊以下三十ケ戦隊が同年九月以降続々沖縄、比島、台湾へ征途にのぼり、昭和二十年一月比島リンガエン湾の特攻を初めとし同三月以降の沖縄戦に至る迄壮烈鬼神も泣く肉迫攻撃を敢行しその任務を全うせし者或は戦局の赴く所己むを得ず挺身陸戦に転じ奪戦せし者を含め先頭参加の勇士二、二八八名中再び帰らざる隊員実に一、六三六名の多きに達し挙げたる戦果敵艦船数十隻撃沈、真に赫々(かっかく)たるものありしも当時は、秘密部隊として全く世に発表されざるままに終われり。
而して又第二次訓練再開されるや
第三十一戦隊以下十二ケ戦隊が九州、四国、紀州の各地に展開し米軍の本土上陸に備え更に第四十一戦隊以下十一ケ戦隊は終戦時当地に在り原爆投下直後の広島市民の救出残骸の整理に挺身活動同十月艇を焼き部隊を解散せり。

此等教育期間中の殉職者も数十名に及び又各戦隊に配属されたる基地大隊も戦隊出撃後は陸戦に殉じ殆ど生還するを得ず。

その運命を共にせるものの如し。

祖国の為とは言え春秋に富む身を国に殉ぜし多数の若者の運命を想う時誠に通惜の念に堪えず。

ここのその霊を慰め後世に伝える為この碑を建立するものなり。

昭和四十二年十二月三日
元教育隊長 斉藤義雄 44期
所在地 広島県安芸郡江田島町幸之浦地区


似島

海上挺身隊訓練地
(陸軍船舶練習部第十教育隊)

似島

海上挺身隊の宿舎のあった地
(陸軍船舶練習部第十教育隊)
〔中ノ原〕

似島

燃料貯蔵施設へ通じる軍用トンネル
(中ノ原から長浜へ抜けるトンネル)

似島

燃料等の荷揚げ用軍用桟橋
〔長浜近く〕
 暁部隊(海上挺進戦隊)が使用した〔連絡艇〕(マルレ) 


1943年遺構の一連の島嶼(とうしょ)防衛戦闘で明らかになったことは、兵力を海岸付近に配置して、敵上陸時に一挙撃滅を図るという、水際撃滅戦法が通用しなかったことです。
米軍は、艦載機による空爆と戦艦・巡洋艦による艦砲射撃で上陸予定の海岸線の防御陣地を破壊しつくしてから上陸する戦法をとっていたからです。
そのため、上陸部隊をのせた船団に対する航空攻撃に頼らざるをえなかったのですが、航空戦力も米軍が圧倒するようになっていました。

1944年4月ごろ、日本の航空戦力は劣勢の状態でした。
陸軍の船舶部で上陸してくる船団を攻撃しようという案がそのころ出てきました。海上での戦闘は海軍の受け持ちで、陸軍における海戦との関わりは輸送が主任務であったので、戦闘に陸軍がかかわるというのは大きな変化です。
大本営陸軍部と宇品にあった陸軍船舶司令部からそれぞれに出された案は、小型の舟艇を米軍が上陸してくるであろう場所に秘匿(ひとく)して、上陸時に船団の側背面から体当たり攻撃を行おうとするものでした。
こうした舟艇による攻撃は同年7月下旬に「捷号作戦計画」の中で、正式な戦法として採用されることになります。

大本営と船舶司令部で開発が進められ、1994年7月8日に試作艇が完成します。
大本営と、船舶司令部双方の試作艇と海軍で開発された「震洋」を比較検討します。
陸軍の試作艇は速力が20ノット程度しか出ず、「震洋」の26ノットより劣っていたり、機能的に不備な点も多かったりしたようですが、海軍のものより凌波性(波をしのいで航行する能力)がよいという判断が下されます。
そして陸軍省の第十技術研究所で作成されたものが採用されます。これを
マルレ(記号は○の中にレ)と呼びました。

陸軍は、この試作艇と同型のものを大量生産することに決めます。
日本造船、横浜ヨット、南国特殊造船、大原造船、前田造船、木南造船、川崎車輛などが発注を受け、8月から製作が始められました。
艇のエソジソは、ニッサンとトヨタの自動車用エンジンを使うことになり、造兵廠で自動車用に確保しておいたものが利用されました。
確保していたエンジンが足りなくなると、民間から自家用車とトラックを徴発(ちょうはつ)して、エンジンを取りはずしてマルレに使いました。
8月中ごろには大量生産できる態勢が整って、11月までには必要とされた三十戦隊分、3,000隻ができる見通しとなります。

隊の編成は、直接攻撃にあたる海上艇進戦隊と基地の設営や舟艇の整備・はん水にあたる海上艇進基地大隊からなり、各組(ペア)毎に同じ番号が割り当てられていました。
海上艇進戦隊の最小の戦闘単位を
「群」といい9隻からなっていました。
この
「群」が3つで「中隊」になります。
この
「中隊」が3つで「戦隊」になります。
各隊長にはそれぞれ直轄部隊がついていて戦隊全体で100隻になります。
人員は隊長艇の操縦者や本部要員で乗船しない者もおり、隻数より少し多い、107人になります。
戦隊長は陸軍士官学校卒業の少佐または大尉クラスの人があてられました。
中隊長は中尉から少尉で、群長は少尉から見習い士官がつとめました。
一般隊員、主に教育中の船舶特別幹部候補生(船舶特幹)で、階級は下士官でした。

一方、基地大隊は900人規模で、本部、作業中隊、整備中隊、機関銃小隊、通信小隊、経理室、医務室から成り立っていました。
基地大隊は戦隊出撃後は上陸守備隊としての任務を課せられていて、機関銃、擲弾筒の兵器を持ちました。
下士官や兵は小銃をもっていました。
大隊長は少佐または大尉が当てられました。


泊地(上陸用船団の集結する海域)にある敵輸送船団を多数の連絡艇(マルレ)で夜間、奇襲的に攻撃します。目標となる艦はやむを得ない場合には走行の薄い小型船艇(駆逐艦・海防艦)も可とされました。出撃の当日夜明け前までに、やむを得ない場合には上陸直後の夜に出撃することになっていました。
連絡艇の最高速力は20ノットで、輸送船(10ノット)に対してならば、積極的な攻撃を仕掛けることは可能でしたが、駆逐艦(30ノット)を追いかけることはできませんでした。
乗員1名の特攻艇は、艇尾に120kg×2個の爆雷を装備し、自動車エンジン(80馬力)を搭載した木造合板型(ベニヤ板)のボートで、敵の揚陸部隊が上陸点に侵攻してきた時、夜陰に乗じて奇襲による肉薄攻撃をしました。


連絡艇も震洋も粗末な作りでした。「秘密兵器装備の特別攻撃隊」に志願・配属された将兵たちの多くは、中古エンジン付ベニヤボートに落胆したそうです。

”レ”は秘匿名『連絡艇』の頭文字として使われました。今ではでは特攻艇として認識されている四式肉薄攻撃艇「連絡艇」(マルレ)ですが、「震洋」との大きな違いは最初から特攻艇として開発されたものではないということです。
つまり
「震洋」は艇内に爆薬を搭載しているのに対し、「マルレ」は艇尾に爆雷を懸架する形式になっており、相手の船団に奇襲をかけ肉薄し、敵船至近に爆雷を投下して離脱するという構想の元に開発されたものでした。
海軍の
震洋が舳先に爆薬を搭載して特攻するのに対して、マルレは爆雷を投下する方式でした。

目標船に接近すると、艇の先端に突出している扇形の”激突板”を相手の船腹にあてるか、操縦者がハンドルまたはペダル操作で爆雷を投下する仕組みになっていました。爆雷は投下後約7秒で爆発するようにセットされていて、操縦者はその間に巻き添えにならないように離脱する必要がありました。

その後、 改良がほどこされ、速度は24~25ノット程度まで上げられました。
また、宇品の沖で老朽船(高崎丸)に対して投下実験をしたところ、撃沈するには十分でないことが判明し艇の後に250kgか、120kg2個を結束してつけることになり、舟艇が配置された現地でもできるかぎり改造されました。
初期型のものは、120kgの爆雷2個をロープなどで結んで対応しました。
7月中旬には広島湾の離島(大カクマ島)にて、マルレの操作法と教育法の研究がなされました。

海上挺進戦隊はその効果を発揮するために統一的な使用が望ましいという考えにより軍司令官直轄にされます。
1944年8月には小豆島そばの豊島、その後は江田島の幸ノ浦(こうのうら)にて仮編成の戦隊の訓練が行われます。
隊の編成は、集中的に出撃するという基本構想のもとに、舟艇は二人乗り艇四隻をふくむ百隻を一単位として、三十隻ずつ三つの中隊と、十隻の本部および予傭隊に分けられました。
名称については、歩兵の中隊より少ない人員でしたが、「海上挺進第○戦隊」という独立の呼称となりました。


1944年10月までに編成された三十の戦隊は、陸士五十一期の少佐が二人、五十二期の大尉八人、五十三期の大尉七人、五十四期の大尉が士二人となっていました。
船舶兵生え抜きの将校はほとんどいなかったようで、その要員は、他の兵科から転科して船舶部隊にいる者、戦車や自動車など車輛関係の隊の者が選ぱれました。 戦隊長の要員も、志望の有無を問われることなく指名されたようです。
ある戦隊長は、マルゆ隊の基地で艇内に入って整傭中に突然、呼び出しがあり、そこの隊長から、「任務の中身は聞くな。」と指示されたということです。
次の指揮官である中隊長には、最初のうちは、その年の四月に卒業した陸土の五十七期で、宇品の船舶練習部で訓練を受けて少尉に任官し、同時に小豆島にある船舶特別幹部候補生(略称「船舶特幹」)隊に配属されていた
海上挺進戦隊は30あまりになり、フィリピン、台湾、沖縄等に配備されます。

小型のベニヤ板製モーターボート(連絡艇・マルレ)の船内艇首尾に爆雷(約250kg)を搭載して、搭乗員が乗り込んで操縦します。敵上陸の当日の夜明け前に、間に合わない場合は敵上陸直後の夜とされていました。

奇襲攻撃のため、舟艇を秘匿(ひとく)しなければならず、上陸が予想される地点付近に配備するということから、空爆や艦砲射撃に耐えられるように秘匿壕(ひとくごう)が作られました。
マルレを1ないしは2艇収納できるよう、幅2.5m、高さ2m、奥行きは6m~18mでした。秘匿壕(ひとくごう)は両側に主柱を立てて、上に梁を渡し、主柱は入り口から奥にむけて1m間隔で並べられました。
同じ側の主柱どうしを板等でつないで補強しました。
また、落盤を防ぐために梁の上に天井用の木を渡していました。壕内には爆雷を保管する穴も掘られました。入り口には網をかけたりなどの偽装が施されました。秘匿壕(ひとくごう)からは丸太を枕木のように並べて、その上を台車を滑らせながら海岸に運びまし
た。
似島にはマルレを海の下ろすための”スベリ”が作られています

肉薄攻撃用に開発され、終戦間際には特攻として使用されたマルレですが、実は最初は海軍の
『震洋』と同じく特攻兵器として開発が進められたようです。しかし、陸軍兵器行政本部技術課課員の児玉英義というひとの談によると…

「マルレは私が着任した19年の5月に、自動車の70馬力のエンジンを使うこと、あとは、1人乗りでぶつかって相手を撃沈する舟を設計せよという命令を受けた。それで私は各研究所の総務課長を全部集めて、毎週一回ずつ、どうゆう諸元に決定するかを決定した。それでその諸元を決めて、私は6月に○の中に「け」の研究に変わった。海軍は舳先のほうに爆薬をつめてぶつかる設計であったが、私は技術屋だから、なんとかして人命は助けたいと思って爆雷方式にかえた。」

と語っています。

攻撃方法について児玉英義は、

「海軍は船に直角に進入する。陸軍は斜に進入する。爆雷を落としてから5m沈むまでには艇はかなり前進します。そのうえ、夜間舷側すれすれに入られると、大きい船からは射撃しようがない、死角に入ってしまいますから。」

と述べています。

体当たりか、そうでないかの問題はかなり議論がされたようです。そのときマルレ研究班の班長であた斉藤義雄は、

「…だから目標舷側に対して30度から20度の角度で入っていって、目標至近距離でハンドルを切ると、滑って船尾が目標に接触する、そのときに爆雷を落とす。これは私が自分でやってみて一番い方法だと思ったわけです。結局はぶつかることなんです。」

と答えています。

広島湾の
大カクマ島で1944年7月下旬に将校クラスを集めた研究組織(海上艇進特別研究部)を立ち上げたことを報告した斉藤義雄※は、そこでの議論の中で、

「7月下旬に船舶練習部において当時研究部長だった北村可大大佐が31期が主催され、マルレの戦闘法について研究会がございました。このときに『体当たり』にするか、爆雷を投下してから退避するかについて議論ありました。結局北村大佐のご意見で、これは特攻隊なんだから体当たりにしておこうということになりました。」

と述べたようです。

 
※ 斉藤義雄:陸軍士官学校卒・少佐・海上艇進戦隊教育長

研究部のメンバーの中には爆雷投下による反復攻撃を主張した者もいるようで、これらの検討結果を受けて決定された大本営の使用方針は、

「攻撃は即ち体當り肉彈の要領を以て敵船に驀進(ばくしん)し接觸(せっしょく)時爆雷投下により敵船撃沈を圖(はか)る」
とされました。

「肉弾の要領を以て…」→「体当たりの要領で…」ととれます。マルレの攻撃方法は肉薄攻撃(決死)か特攻(必死)かで意見が分かれていたようです。

 
大カクマ島(弁天島)
広島港の南西約6キロの位置にある、面積約0.02平方キロの島。
島全体を緑地(弁天島緑地)として区役所が管理しています。
トイレ(汲取式)があり足場も良いため、快適な釣り場として釣り人に知られています。
島へ向かう連絡船はありません。

資料:google map
 
 
 
  似島の西側に浮かぶ大カクマ(弁天)島  大カクマ島の軍用トンネル(東側)  
 
 
 
 
  大カクマ島の軍用トンネル(中) 大カクマ島の軍用トンネル(西側)  
 
 
 
 
   大カクマ島の遺構 小カクマ島   
 
 
 
 
   大カクマ島と小カクマ島
資料:google map
大カクマ島と小カクマ島
 資料:google map
 

ちなみに、マルレの運用に際しての意見や感想は…

今まで直線的に船体に衝突するものと思っていたが、敵船舷側五メートル以内に接近し、爆雷を両側から投下避退する方法だと説明を受ける。これは衝突即爆発よりも、爆雷を水面下に投下し、海面下十メートルの深度で爆発させその圧力を利用することがもっとも効果的方法だということなのでそうである。敵船舷側五メートル以内だから、体当たりしようがしまいが、敵が黙ってみているわけではなく、どっちにせよ同じようなものだが…」

がらんとした浴槽に浸かりながら明日からのことを考えたが、はっきりしていることといえば、ベニヤ製の小さな船艇に爆雷を積んで敵の艦船に体当たりすることだけであった。」

「係の下士官は、親切に変更の理由(Uターン式攻撃)を説明してくれたが、なぐさめの言葉として受け取ってしまった。」

「海上艇進とは長さ五米 巾一、五米(メートル) 深○、八米(メートル)のベニヤ製舟艇に七五馬力自車エンジンを載せ速力二○ノット一二五 瓩(キロ)〈三秒瞬発信管〉爆雷二ケを載して夜間敵艦船に体当たり撃破沈没させる目的で編成されたものである。五米(メートル)以内にて爆雷攻撃を実施すれば巡洋艦大破、駆逐艦撃沈、輸送船大破沈没可能である。三艇を一組として攻撃敵船舷にて爆破せしむるもので隊員の生還は不可能である。
〔谷本版陣中日誌より〕

マルレは特攻用ではないことになっていましたが、多くの人たちは”特攻兵器”として捉えていたようです。
実際、米軍側の話によると、

「大部分の連絡艇(マルレ)は爆雷が確実に目標の直下で爆発するように直線的にぶつかってきた。」

と述べています。

しかし、中にはなんとか生きて帰ろうと考えるものもいたようです。


「私は常々体当たりなんて事は一度も思ったことはない、何も無理に死ぬことはなく、敵艦を撃沈して生還できれば之にこした事はないとその方法を色々と考えていた。…私は海上に出たならば編隊を離れ、単独で一番近い敵艦に後方から進入し、平行に走って中央付近で爆雷を投下しそのまま直進して離脱する、離脱したならば艇を捨て海に飛び込み岸まで泳ぐ、もし途中で敵弾に当たればそれまでだが、この戦法なら成功率も高いと確信していた。」

マルレで出撃した際の生存率は戦況によって大きく異なりますが、例としてリンガエン湾での攻撃をみてみます。
1945年1月9日に、フィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍に対して、陸軍海上挺身第12戦隊のマルレ艇70隻を投入し、護衛駆逐艦ホッジス、輸送艦ウォーホーク、LST2隻に損傷を与えたそうです。
そのときは、第12戦隊の35~40隻が9日の夜出撃し、アメリが軍の資料では7~10隻に被害を与えたことになっています。
このときは、米軍の不意を突いた理想に近い条件での戦果のようですが、舟艇は全滅し、戦死45人、生還2人となっています。
死亡率は96パーセントで、ほとんどが死んでいます。中には捕虜を嫌い自決したり、抵抗して射殺されたという記録もあるので、その数字を含めた死亡率になります。

この損失は、米海軍にとって重大なもので、フィリピン南部に展開していた魚雷艇隊を急いで北西方面に移動させ、輸送船団泊地の防衛力増強を図りました。。
米海軍はその直後から、改装した哨戒艇と航空機とで徹底した哨戒を開始し、また、レ特攻艇の秘密基地を破壊するため、特別部隊等を編成するなどして捜索に当たりました。アメリカの魚雷艇で編成された「自殺ボート狩り」チーム(アメリカ軍はこのマルレを『Suicide boat(自殺艇)』と呼びました)に活動を封じ込まれてしまいます。


海上輸送線の途絶に伴い潜水艦、航空機による移動中の被害が多く、また出撃できぬまま陸戦に巻き込まれるなどして実戦に参加できぬまま、支援要員も含めて 2500人以上が戦死したといわれています。


太平洋戦争(大東亜戦争)の戦局が押し迫る中で、この
攻撃艇を体当たり特攻艇として使用したほうが至近に爆雷投下して離脱し反復攻撃をかけるより戦果は確実に上がり、また技量もそれほど要らないということで体当たり作戦が採択されていきます。

日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々にも海上特攻艇200隻をしのばせていました。
ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945年3月23日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日には座間味の島々へ、3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地としてしまいます。

本土決戦に備えて日本の太平洋岸の多くの海岸には、連合軍の上陸部隊・支援部隊を迎え撃つためにマルレの秘密基地(秘匿壕)が作られました。

外洋航行を目的に製造されていいないモーターボートのため、各地に配備するには海上輸送に頼りませんでした。
しかし、大戦末期は既に日本近海を含め多方面で制海権を喪失していた為に輸送途中で海没したものがかなりの数になったようです。

初期に編成された30個戦隊のうち輸送途中に遭難したものが16個戦隊にも及びました。
第19戦隊に至っては生存者僅か7名という大損害をこうむります。

第二次大戦終戦までに輸送中の損害で挺進戦隊員だけで
戦死者317名、マルレの喪失1,300隻に達したといわれます。

これを受けて本土決戦用として更に十数個の戦隊を新規編成する必要に迫られました。

海軍の「震洋」と、陸軍の「マルレ」は同水域で作戦していることもあって、戦果がどちらによってもたらされたのか不明な点も多いです。

下には参考として海軍の「震洋」についても掲載します。




 陸軍名:連絡艇〔マルレ・○レ〕 秘匿名”レ”(連絡艇のレに○をつけてマルレとよばれた)

この特攻艇は、船首に250kgの爆弾を装備し、自動車用エンジンを搭載した木造合板(ベニヤ板)のボートで、的の揚陸部隊が上陸点に進入する前後に、夜暗に乗じて集団で奇襲して、当初は相手艦船に近づき爆雷を落として逃げるというものでした。後には体当たり攻撃によって船舶を撃沈することを目的にされていきます。


陸軍名:連絡艇〔マルレ・○レ〕 秘匿名”レ”

全長:5.6m
全幅:1.8m
喫水:0.26m
自重:0.975m
満載排水量:約1.5t
エンジン:日産自動車製の70~80馬力程度のトラック用エンジン
装備:艇体後部に120kg×2個(後に250kg)爆雷またはを装備
最高速力:23~25kt
航続時間:3.5時間
(10ノットの中速域で6時間程度)
※ 1ノット=1,852m(速度でいえば1,852m/時)
船体の材質:ベニヤ製
製作費:1,000円
(当時の価格)
約3,000隻が生産されました

甲一型、甲三型、のサブタイプがありました。
乙.丙・丁型については資料も無く、実在も明かでありません。

五式肉薄攻撃艇(連絡艇戊)も計画されました。
ロケット噴進により短時間だけ高速度をだそうというものです。
艇尾に八本のロケットを装着し、重量過大(ニトン・全長七メートル)たため、巡航速力が一〇ノットに低下しました。
ただし、二〇秒間のロケット噴射中は五〇ノットを発揮できたようです。
乗員は一名でした。 ロケット改良ができず開発は中止されました。


緑色の迷彩塗装を施したために、実戦部隊で名づけられた
アマガエルの通称・愛称でした。
アメリカ軍は震洋とマルレのことを
『Suicide boat(自殺艇)』とよびました。
通常は一人乗りですが、
指揮官用は艇隊を率いる指揮艇となるので、操縦者との二人用になっていました。
二人乗りといっても、操縦者の脇に小さな補助椅子と安全用の片手で握る棒、
それに後方の艇に合図するための三個の豆電球をつけた信号竿をとりつけただけのものでした。

 


参考資料:『陸軍船舶戦争』
松原茂生(元船舶参謀・自衛隊)/遠藤 昭
戦誌刊行会 1994(平成8)年

 
参考資料提供:メロウ伝承館 様


参考資料提供:メロウ伝承館 様


 特攻艇
  海軍名:「震洋」(しんよう) 四式肉薄攻撃艇(マルヨン)

 陸軍の連絡艇(マルレ)と海軍の震洋はよく比較されます。ここでは、海軍の震洋について少し説明します。

船外機艇一型は、名称を「震洋」と称して正式に兵器に採用されます。
攻撃艇はまず、横浜ヨット(本社:横浜鶴見区)は、1942年、千葉県銚子市長塚町の県立銚子商業高校に銚子工場を設立し、1944年半ばには,マルヨン艇(四式肉薄攻撃艇)「震洋」の製造を開始します。
「震洋」は7月には75隻が生産されます。生産開始以後は、海軍部内の各工廠、三菱長崎造船所、日本造船鶴見及び山下工場、横浜ヨット、隅田川造船所、日本海船舶、神奈川船舶、日本車輌、木村工作所、豊田織機等で生産が開始されます。
乗員一名の一型に続いて、二人乗りの五型も試作に成功し、生産されました。
装備は当初、一型には250kgの艇首爆装だけでしたが、昭和20年初頭には12cm噴進砲(ロサ弾)二基を装備しました。
五型は一型と同じ装備のほか、十三ミリ機銃一挺と一部指揮挺、艇隊長艇、小隊長艇には算式空一号無線電話器艦艇洋を装備しました。
その他には受話器だけを搭載しました。
生産された数は海外生産(中国三菱造船江南製作所)を除いて、一型、五型をあわせて終戦までに約6,200隻が建造されました。

小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬(約250kg)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦します。
陸軍の四式肉薄攻撃艇である「連絡艇」(マルレ)とは異なり、上陸船団に体当たり攻撃することが目標とされました。

大本営は「震洋」隊の編成を急いだようです。
陸軍にも「震洋」と同種の「マルレ」があったため協調作戦をを取ったようです。
「震洋」と「マルレ」は合わせて「○ハ」と呼称されるようになります。

海軍と陸軍との間に1944年8月8日には「○ハ」運用に関する中央協定が結ばれます。

海軍省は「震洋」を艦艇ではなく兵器として扱ったため部隊への供給といった形になり戦時編成は行う必要がなかったそうです
陸軍海上挺進戦隊の「マルレ」とともに、フィリピン、沖縄諸島、日本本土の太平洋岸に配備されることになります。
1945年にはフィリピンのルソン島リンガエン湾に上陸してきた米軍を迎撃しました。

「震洋」は「マルレ」とは違い防衛司令官の直轄扱いではなく、攻撃の有無・成否・戦果などが部隊ごとの記録になりました。
実戦では部隊ごと全滅してしまうことが多かったことから、特に実戦投入に関する実情は不明なところが多いです。

1944年3月、軍令部は戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定しました。
このうち秘匿名称「○四金物」(船外機付き衝撃艇)として開発されたのが「震洋」です。
1944年6月、マリアナ沖海戦で日本海軍は敗北し、サイパン島陥落と戦局が悪化していく中で、空母機動部隊の再建を事実上諦めて特殊奇襲兵器を優先的に開発するようになります。
この軍令部の構想に基づき、艦政本部の全面的な同意を得て艦政本部第四部が主務となり設計を開始します。
船体は量産を考慮し木製とし、エンジンにトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンを設計を強化して採用します。
「震洋」は様々なテストの結果、300kgの爆薬であれば水上爆発でも喫水線下に約3mの破口ができ、商船クラスであれば撃沈できるとの結果が出ましたが、「震洋」の小型船体では300kgの爆薬の搭載は無理でした。
そこで250kgに減らされた上で直ちに試作に入ります。

試作艇は木造艇5隻と極薄鋼板艇2隻が作られ、船体は魚雷艇の船型を基礎としⅤ型船底を持つものでした。
これらは1944年5月27日の海軍記念日に完成し直ちに試験が開始され、耐波性が不足していることが判明した為に艇首を改良した他は予定通りの性能を発揮し、8月28日に正式採用されます。
この際に「震洋」と名づけられることになります。
この直後に2人乗りの五型艇も開発され生産されました。
さらにロケット推進式の六型艇(ベニヤ製)七型艇(金属製)、魚雷2装備の八型艇が開発されていたがこれらは実用に至りませんでした。
。震洋は特攻艇として開発されたましたが設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていたようです。
武装は一型艇で250kgの爆薬の他、12cm噴進砲(ロサ弾)2基を搭載しており、五型艇はこれに13mm機銃一挺を追加し更に一部に無線電話装置が装備されていました。
設計時から量産を考慮して設計された為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間700隻が生産され終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産されたといわれています。
海軍名「震洋」 一型(1人乗) 海軍名「震洋」 五型(2人乗)
全長 5.1m 5.1m
1.67m 1.86m
高さ 0.8m 0.9m
普通喫水 0.326m 0.380m
満載喫水 0.55m 0.6m
排水量 1.295t 2.2t
主機械 トヨタ特Kc型 ガソリンエンジン 1基 トヨタ特Kc型 ガソリンエンジン 2基
速力(特別) 16Kt (23Kt) 23Kt (32Kt)
馬力(特別) 42HP (67HP) 134HP
航続距離 16Kt-110海里 27Kt-170海里
兵装 爆装250kg 12cmロサ弾 2発 爆装250kg 12cmロサ弾 2発 13mm機銃 1基
乗員 1人 2人

 陸軍「連絡艇」(マルレ)
 陸軍の「連絡艇」は「マルレ」「○レ」

 …と呼ばれていました。

※ 参考  :「鳥飼行博研究室」

陸軍「連絡艇」(マルレ)

マルレの最高速力は20ノット。

乗員1名の特攻艇。
艇首に250㎏の爆薬を装備。
自動車エンジン(日産の自動車80馬力の中古エンジン1基)を搭載。
木造合板型(ベニヤ板)の高速ボート。
(高速とはよべないものでしたが…)


参考: ウィキペデア


陸軍 「連絡艇」(マルレ)

参考資料:『陸軍船舶戦争』
松原茂生(元船舶参謀・自衛隊)/遠藤 昭
戦誌刊行会 1994(平成8)年

陸軍「連絡艇」(マルレ)

戦場に出撃したマルレ


※ 参考  :「鳥飼行博研究室」


陸軍 海上挺進戦隊「連絡艇」(マルレ)のエンジン

【説明板】
このエンジン本体は、陸軍海上挺身艇〈レ〉のものである。
昭和57年11月同隊第七戦隊員の須藤英夫氏が、比島タヤバス州マウバン基地跡において37年間川底に眠っていた特攻艇を発見、エンジンのみを引き揚げ遺骨代わりとして故国に持ち帰ったものである。

エンジン諸元(ニッサン製自動車型、6気筒ガソリン機関、70馬力)

※ 写真:小豆島 土庄 富丘八幡神社


 陸軍 船舶練習部 「連絡艇」(マルレ)

 訓練中のマルレ

 指揮官用と
操縦者との二人用になっていた。
 二人乗りといっても、操縦者の脇に小さな補助椅子と安全用の片手で握る棒、それに後方の艇に合図するための三個の豆電球をつけた信号竿をとりつけただけのものであった。

  陸軍 海上挺進戦隊 「連絡艇」(マルレ)

説明
「傾く情勢を支えるべく、「海上挺身隊」の若人たちが身をたくしたベニヤ製の小舟・マルレ艇
制作費も安く、資材調達も用意、訓練も簡単と、まことに安直な発想の産物であった。」


※ 資料提供:メロウ伝承館
(飯田編集長様、羽渕発行人様)

渡嘉敷島にうち捨てられたマルレ


※ 資料提供:メロウ伝承館
(飯田編集長様、羽渕発行人様)
   

 陸軍 海上挺進戦隊 「連絡艇」(マルレ)の模型

※ 資料提供:メロウ伝承館
(飯田編集長様、羽渕発行人様)

  陸軍 海上挺進戦隊 「連絡艇」(マルレ)の模型

※ 資料提供:メロウ伝承館
(飯田編集長様、羽渕発行人様)
   

 原子爆弾投下後の似島と暁部隊(船舶練習部第十教育隊)
広島は日清戦争のころからずっと陸軍の最重要拠点でしたが、1945(昭和20)年8月6日午前8時15分に投下された原子爆弾によって、その大部分が全滅しました。

また、陸軍船舶司令部(通称:暁部隊)は広島市南部の宇品地区にいたため、他の軍部隊に比べると被害は比較的軽微でした。

空襲に備えて事前に指定されていた広島市内100カ所以上の救護所も、原爆によってほぼ全てが消滅してしまいました。
通信補充部隊の特別幹部候補生は上半身裸で体操中のため、ほとんどが大やけどを負いました。
生き残った人々は、傷ついた体を引きずりながら近場の大きな建物や学校跡などを目指しました。
その場その場が救護所ような役割を果たしました。
しかし、そこには薬もなく、医者や看護士もほとんどいませんでした。
火災、建物の崩壊、さらには放射線など安全性も確かではありません。
「黒い雨」と呼ばれる放射能を含んだ雨も、どしゃぶりとなりました。
負傷者が真っ黒だったのは、この雨のせいでもありました。

広島市周辺部の被災を免れた病院はどこも負傷者であふれかえりました。
暁部隊の建物は全て救護所になりました。

広島に原爆が落とされた1945年8月6日には、1,800人ほどが「幸ノ浦(こうのうら)」にいたようです。
「幸の浦」の少年兵たちは「船舶練習部」の第十教育隊が水上特攻の訓練を受けていました。
もっとも早く救助に出動したのは暁部隊でした。
原爆投下後、わずか35分後には、司令部から市民救助の指令がだされました。
その最初の指令は次のような内容でした。

「広島市内の消火・救援にあたるとともに、患者を最も安全な似島検疫所に輸送せよ。京橋川両岸の消火、主力は京橋川をさかのぼり救難にあたれ。宇品の中央桟橋に救難隊を出し、(似島へ)出発準備せよ。幸の浦の部隊は待機せよ」

似島は爆心地から離れていて、ほとんど被害を受けず、しかも陸軍の広大な敷地があり、仮にも医療関係の施設があることから、司令部によってまず最初の避難先に指定されたようです。
これほど大勢の負傷者が集中して運び込まれた場所は、広島では似島以外にはありませんでした。
南東の風となったために、「黒い雨」も降りませんでした。

原爆投下時には隊長の斉藤義雄少佐をはじめとする、
第41戦隊以降の約1,500人の部隊員が在籍して江田島の幸の浦や似島の深浦などの船舶練習部の隷下である第十教育隊で訓練を受けていました。

原爆投下直後の8月6日午前11時、陸軍船舶司令部司令官の佐伯中将から船舶練習部第十教育隊隊長の斉藤少佐に広島市民を救出するための出動命令が出されます。

部隊は訓練を一時中止し、大発あるいは小発という上陸用舟艇に分乗して正午過ぎに宇品に上陸します。

部隊を二つに分けて、一隊は舟艇で河川を遡上して被災市民を舟に乗せ、他の一隊は陸上で被災者を運搬する作業を任っています。

司令部には負傷者が続々と逃げ延びて来たましたが、収容しきれず、
陸軍似島第二検疫所金輪島へ船でピストン輸送しました。
佐伯司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みましたが、通じなかったため、兵士を各方面に偵察に出します。

その結果、市内で火災が発生しているのが分かり、1945年8月6日午前8時50分、消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣します。
さらに詳しい状況報告を基に救護、消火活動に各部隊を振り分けます。

似島への手旗信号による第1報は1945年8月6日午前9時少し前でした。
軍医1名・兵5名の救護班を3班編制せよ

第2報は1945年8月6日午前9時過ぎでした。
似島救護所を開設し、最大限(500名)の受け入れ準備をせよ

直後に第3報がだされました。
さらに700名の収容を準備せよ


1945年8月6日午前11時すぎには中国地方の各基地に対し
、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を出します。

隊長の斉藤義雄少佐をはじめとする、第41戦隊以降の約1,500人の部隊員が在籍して江田島の幸の浦似島の深浦地区などで訓練を受けていました。
原爆投下直後の1945年8月6日午前11持すぎ、陸軍船舶司令部司令官の佐伯中将から船舶練習部第十教育隊の斉藤少佐にに広島市民を救出するための出動命令がだされました。

部隊は訓練を一時中止して、大発あるいは小発という上陸用船艇に分乗して1945年8月6日正午過ぎに宇品に上陸しました。
江田島・幸の浦基地(船舶練習部第十教育隊)も応援に駆け付け、広島電鉄本社(千田町)に指揮所を設け、負傷者の救護に当たります。

1945年8月6日13時すぎには宇品地区の水道が減水し、幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保し、り災者用には乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給しました。

一方、爆発からしばらくして被災者が司令部(宇品町一丁目)に大勢詰め掛けました。被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が懸命の治療に当たりましたが、とても間に合わず、安全と思われる似島検疫所へ輸送を始めます。

1945年8月6日14時には司令部に収容した負傷者は
千三百人に達しました。 

夕方になっても司令部に逃げて来る負傷者は後を絶たず、救護活動は徹夜で続きます。

この部隊は広島電鉄本社を指揮所と定め、1945年8月12日まで隊員交代で任務に就けながら、徹夜の救助や消火の活動を行っています。
後に斉藤部隊長は「広島県原爆戦災史」の中で「処理した遺体は
1万人以上に及び、また収容した負傷者は数万人を下らない」と述懐しています。

似島の検疫所はこうして、歴史上どこにも例をみない壮絶な野戦病院となったのです。


   
  ※ 参考資料:広島平和祈念資料館  

暁第6165部隊(病院船衛生53班)
原爆犠牲者診療の地(似島臨時野戦病院)

この碑は、被爆当日、似島臨時野戦病院を開設し
旧暁6165部隊の病院船衛生53班の方々は、
宇品から送られてくる被爆者の救護にあたりました。
壊疽等により、次から次へと患者の手足を切断せざるをえない状況で
切断された手足は窓から捨てられ、
それは、窓の高さよりもうずたかくつもっていました。
「船舶練習部」の第十教育隊の少年達は、その手足を
リアカーにのせ、馬匹検疫所付近に掘られた穴に捨てに行かされていました。
戦後訪れた、元似島野戦病院医院長の 西村幸之介さん他、第6165部隊のみなさんは
慰霊のために立てられた木製の碑をみて、
治療の甲斐なく亡くなられた被爆者を弔うために
隊員の寄付にて建てられました。

原爆被爆者診療の地(似島臨時野戦病院)
昇天の霊よ 永遠に安良かなれ

旧暁6165部隊は昭和16年7月広島にて編成以来
病院船に乗り組み主に南方方面の傷病兵を輸送診療に
従事していたが最後に最後にこの地に野戦病院を開設し
1万人に及ぶ原爆被爆者を診療介護して復員する
旧暁6165部隊(病院船衛生53班)
西村幸之介 外 生存者 昭和53年5月3日建立



暁部隊隊員の言葉

「防空壕へ死体をぎっしりつめました」 
 8月6日、その日も朝から太陽はジリジリ照り続けていました。
 いつも通りの作業のため、庭に整列していますと、カメラのフラッシュをたいた時のような光を浴びて、
ほおに「ピリッ」とするものを感じ、直後すさまじい爆発音を聞いて、防空壕に飛び込みました。
 なかなか消えないキノコ雲を見ながら、夕方四時過ぎまで作業をしていると、
私たち10名に似島の検疫所行きが命令されました。
 桟橋には、たたみ表につつまれた死体や、そのままのものが無造作に置かれてありました。
 間もなくこれらの死体を馬の焼却炉に運ぶよう命令されました。
 大八車に6~7個積んでいきましたが、何度も落ちました。
 手足を持つと、よく焼けているので、皮や肉がズルズルとむけて、
支給された軍手も一回運ぶとベトベトになって、跡には素手で持つようになりました。
 死んで間もない死体は柔らかく、運ぶのに苦労しました。
 ある程度時間がたつと堅くなって扱うのが楽でした。
 馬の焼却場は人間だと30人くらい焼けるそうですが、一回の時間がかなりかかるということで、
とうとう大きな馬小屋も死体で一杯になりました。
 8月7日は早朝より死体運び。
 昼近くなるとくさりかけて、ひどい臭い。
 ガスがたまって大きな腹になりました。
 そこでこのおびただしい数の死体を、
今の似島中学校のグラウンドに穴を掘って焼くことになりました。
 すでに穴は掘られていました。
 この中に死体を投げ込んで、何層にも積み重ね、火をつけるのです。
 8月8日、後から後から運び込まれる死体を焼くこともできなくなり、
山のあちこちに掘られた横穴式防空壕に入れることになりました。
 今の似島中学校グランド南端の小山の中腹のたくさんの防空壕が私たちの仕事場でした。
 死体を2人1組で担架に乗せ、山道を50mぐらい登って、奥が20mくらいの横穴の奥から積み重ねるのです。
 その中は屍臭が一杯で死体の腹に一杯になったガスが肛門から出ようものなら、
もっとすごい臭いでした。
 中に入るときは、1,2、3と合図して息を止め、小走りで奥に行き、死体を重ねるように投げ捨ててくるのですが、
出るまでに息を止めきれず、入口の近くでとうとう息をします。
 外に出て4~5回深呼吸をして屍臭から逃れようとしますが、
鼻の先にくっついてなかなか離れませんでした。
 そんなときは、下り道にあった便所の臭いをすって、悪臭から逃れようとしました。
 便所の臭いの方が屍臭に比べると格段によかったのです。
 穴の中の死体がうまく重ならないと、くさいのを通り越して、頭が痛くなり、
みんなの手前の方にポトンとおいていくようになりました。
 たちまち入口近くまで死体になり、穴の奥に行けなくなったのをみた将校が、
怒って死体の上を歩いて奥の方につめるように命令しました。
 私も死体の上を歩いて中に入りましたが、バランスが取りにくく転びそうになりました。
 とうとう入口まで一杯になり、今度は物干し竿を持ってきて、
死体をついて奥の方に押し込むのですが、時々ガスが飛び出したときにはみんな散ってしまいました。
 今思うと、なんとひどいことをしたものだと思います。
 死者をまるで汚物のように扱い、本当にすまないことをしたと思います。
 でもこんなにしないと、あのおびただしい数の死体を処理できなかったし、
命令を聞かなかったら、私自身もひどい目にあっていただろうと思います。
 戦争はもう二度としてはいけません。

元陸軍船舶特別幹部候補生第二期生 福岡県 服部春一

  「被爆者」 
 昭和20年8月6日、私は江田島の幸の浦で静かな朝を迎えた。
 青い空に青い海。
 今日も暑そうだ。
 私たちは、ここでは敵の舟に爆弾をかかえたままのモーターボートで体当たりする練習をしていた。
今日の訓練にでようとしたそのとき、「パッ」と光りを感じた。
しばらくして「ドカーン」と爆風がきた。
午前中、ずっと練習をして帰ってみると、似島へ行けとの命令。
私たちは二隻の舟に乗って似島に向かった。
ついて何をするのか、みんな知らなかった。
似島の桟橋について見た様子は、今でも目の中に焼き付いている。
一緒に行った者はだまってしまって、何も言えなかった。
桟橋の船野中には、今まで見たこともない大火傷の人たちがぎっしりいた。
気を取り直して4人1組になり、この人たちを似島検疫所(第二検疫所)の中に運び込んだ。
すぐに建物の中はいっぱいになった。
ローソクの光りだけで運ぶので、私の足が火傷の人たちに当たる。
「ギャー」
その叫び声は、何ともいえない響きであった。
作業は夜中になっても続いた。
次の舟が着くのを待つ間、桟橋に座って休んでいると、
「兵隊さん、お水ちょうだい」
という声。
焼けてつぶれた顔のどこから声がでているのかわからない。
手はゆうれいのように前に下げ、髪はボーボー。
8月7日、私たちはこの人たちに薬を塗って回った。
薬を取りに行こうとして廊下を歩いていると、女学生が寝かされていた。
「兵隊さん、手術はまだですか」
と言うので、みるとかかとがぱっくりと口をあけていた。
私にはどうすることもできない。
「もう少しだ。がんばれよ。」
と、励ますのが精一杯であった。
いっぱいの病人に、軍医一人、下士官一人、あと2~3人の兵士が何千人もの人を相手に手術をしていた。
その側で
「いたいよ いたいよ」
と大声で泣いている女の人の足は、左足のつま先が上、右足のつま先が下を向いていた。
私が受け持っていた小学校3年生くらいの男の子は、ひたいがぱっくりと切れ、目は開かない。
時々何かを言っていた。
「兵隊さん、気持ちがいいよ」
と言って、突然「君が代」を歌い出したが、途中で息を引き取ってしまった。
目と鼻と口のところだけ穴をあけ、ガーゼが被せてある軍曹さん。
何か言おうとしているが言葉にならない。
「水ですか?」
というと、少しうなずく程度であった。
おかゆを口に入れてあげようとしても、口が開かない。
大火傷で腫れ上がっている。
食器も竹を切って作ったものであった。
私は厚紙でスプーンを作り、少しずつ流し込んだ。
部屋のはしの方には、小さい子ども連れのお母さんがいた。
手や肩の傷口をみると動く者がいる。
よく見ると生きた体にウジがわいていた。
ピンセットで取ろうとしたが、先があたるのか、痛がって取れなかった。
「丸山という人がいるが、おまえのお姉さんか?」
と言われて、その人を見ると、火傷はないが、頭と背中に壊れたガラスがびっしりとと突き刺さり、
まるで手裏剣のように見えた。
付けられた名札には、たしかに丸山と書いてあった。
ガラスを抜くと、その度に気を失ってしまう。
仕事の合間にガラスを抜いた。
寝ているところが板の間なので、痛かろうと思い、ふとんを探してきて寝かせてあげた。
これが私の精一杯の看病だった。
5日目ごろだったか、朝の作業にでていこうとすると、この丸山さんが、
「住所を教えて!」
と言う。
9月には敵の船に体当たりして死ぬ身なので、
「住所なんて、元気になったら線香でもあげてください」
と言い残し、死体処理作業に出かけた。
夕方、帰ってみると、もう丸山さんはいなかった。
親類の人が来て、連れて帰られたとのこと。
枕元に住所と名前、年齢が書かれた荷札だけが置いてあった。
日がたつにつれ、死ぬ人が増え、私たちに死んだ人を運び出す役目が回ってきた。
くる日もくる日もこの仕事ばかり。
おびただしい死者に、うんざりする暇も無かった。
4人1組で運んでいると、おじさんが
「死んだ人をどんなにしているのですか」
と訪ねられたので
「この先に運んで、土の中に埋めるのです」
と答えると
「ぜひ連れて行ってほしい。あちこち探したが、ここが最後だ」
と頼まれ、一緒にいくことにした。
途中で死体を下ろして休んでいると、あたりにころがっている死体をみて回りだした。
「あれ、あれ」
と言うと、女の死体の口を開けて、入れ歯の様子まで、くわしく見始めた。
変な人だなと思っていると、そこへへなへなと座り込んだ。
奥さんだったのだ。
私たちも慌てて手を胸の上に組んでやった。
「家に連れて帰ろうと思っていたのだが、これではどうしようもない。せめて骨だけでも連れて帰りたい」
と言われたが、私たちにはどうすることもできなかった。
死ぬ人が急に増えたので、私たちに死人を調べる仕事が半日だけ回ってきた。
一番いやな仕事である。
やけどで誰が誰だかわからない。
口を開けて金歯や銀歯を見て回った。
脱腸の人が多かったが、どうも変である。
爆風のせいでこんなになったのだなと思った。
こんな中でおむすびが来た。
軍手をはずしただけで食べた。
今だったらとうてい食べられない。
きっと神経も鼻もマヒしてしまって、心もオニになっていたのだろう。
思い出しただけでぞっとする。
いつの間にか芋畑のそばに大きな穴が掘られていた。
深さは1.5m、幅が2mぐらいのところに60~70人の死体を入れて、火を付けるのである。
材木を上に積んでも、なかなか燃えつかなかった。
もう最後ごろには形式的に日を付けるだけで埋めてしまうことが多かった。
8月12日に一度幸の浦(こうのうら)に帰ったが、次の日には広島市に移され、
似島でやったとおなじような仕事を続けた。
たった一発の核兵器が、こんなにも恐ろしい事を引き起こしたのだと思うと、本当にゾーッとしてしまう。
核兵器をなくし、このような悲しい事がおきないようにしたい。
亡くなられた方々のご冥福を祈りたい。


元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 丸山直治


 「被爆者であふれた臨時野戦病院」 
 私は陸軍病院船部隊の兵隊でした。
 太平洋戦争が始まると、マレーシア、ビルマ(ミャンマー)あたりでの仕事が多くなりました。
 この方面の戦争で傷ついたり、病気になった兵隊を日本に運んだのです。
 最初は勝ち戦を続けた日本軍もやがて各地の戦いで敗北しはじめました。
 そうなると、病院船も戦地に近づけなくなりました。
 私たちは、五年も続けたこの仕事を辞め似島に上陸することになりました。
 1945(昭和20)年8月6日、強烈な閃光がはしり、しばらくして、ドンという腹にこたえるような音が聞こえました。
 続いて、ガチャンという窓ガラスの割れる音があちこちでおこりました。
 私たちは、外に飛び出し、裏山に登りました。
 すると、広島市内は真っ黒いカーテンを張ったようで何も見えないのです。
 不思議に、空の一角に妙な格好をした入道雲がもくもくのぼっていくのを見ました。
 10時過ぎ、下士官が
 「担架を持って桟橋に急行せよ」
 と大声を張り上げて命令しました。
 船の中の人々を見て、アッと驚きました。
 顔も頭も身体中、大火傷を負って血だらけの人ばかりです。
 男も音暗も年寄りも若者も子どもも服は破れ、焦げ、泥と血まみれの半裸の姿でした。
 うめき声が船を覆っていました。
 その数、およそ300人ほどだったでしょうか病室では火傷の手当て、手術と忙しく立ち回っていました。
 「おーい、また船がついたぞ-」
 第二船、第三船、第四船、つぎつぎと運び込まれた被爆者の数は一万人にもなったのです。
 第一に治療、そして患者名簿作成、食事の世話とてんてこまいの忙しさでした。
 長い、夏の太陽も、ようやく西にかたむきかけた頃、ようやく患者の給食の世話が一段落しました。
 私たちは、交代で不寝番にたち懐中電灯を持って、患者の様子を見て回りました。
 この時、不思議なことを発見しました。
 ここに着いたときには火傷と怪我だけであったのに歯茎から血がにじみ出ている者、
顔や手足、身体のいたるところに斑点を出している者をみつけたのです。
 「兵隊さん、水を一杯ください。のどがやけつくようでがまんできません」
 というのです。
 水は良くないと思いながら、お茶を入れて飲ましてやりました。
 「ああー、おいしかった。兵隊さんありがとう」
 「よかったのう、明日の朝までぐっすり寝なさいよ」
 といって、その場を立ち去りましたが、朝を待つことなく息を引き取って人も沢山いました。
 死んだ人は、一番奥の建物に運び、家族が訪ねてくるのを待ちましたが、
誰も引き取りに来ないまま火葬される人も数知れずいたのです。
 私たちは、8月の終わりまで、ここに留まって患者の世話をし、9月6日に似島をあとにしましたが、
ここでの出来事は一生忘れることはできないでしょう。


元似島野戦病院衛生上等兵 神戸市 吉原利男



 「寝ないで手術」
 
昭和51(1976)年秋、私と小原さんはなつかしいこの似島を訪れました。
 ここには病院跡と思われるコンクリート、壊れかけた兵舎、消毒浴槽のコンクリート、
煙突、5,000人分の衛生材料を入れていた防空壕が残っていました。
 中でも私の心を打ったのは、古びたトタン屋根の中に「無縁仏」と書かれた粗末な石が安置され、
一升瓶に水を入れて供えてあったことでした。
 花と潜航の煙がただよっていました。ここで死んでいった多くの人たちの霊をなぐさめ、
二度と戦争をおこしてはならないという私たちの心をあらわすために、ここに慰霊碑をつくろうと決心しました。
 あの日、私は石として、この隊の隊長として被爆者一万人あまりを収容し治療をしました。
運ばれてきた人のほとんどが裸で、ひどい火傷をしていました。
強い爆風で、飛び散ったガラスの破片が全身に突き刺さった人。
針工場の女工さんは、全身に何万本もの針が突き刺さっていました。
 怪我や火傷の軽い人でも放射能のせいで、3~4日で死亡されていました。
 流動食を用意しても、だれも食べませんでした。
 病院のあちこちから
 「軍医さん、衛生兵さん、助けて、助けて」
 と悲しそうな声が聞かれました。
 私たちは必死でしたが、ほとんどの人は1~2日で死んでいかれました。
 なかでも母親の死亡にもかかわらず、無心に乳房を吸い続けている赤ちゃんをみて、
さすがの私も涙を堪えることができませんでした。
 また、手が足りないために、死亡された患者さんがあっても運び出すひまもなく、
重症患者と一緒に寝かせていました。
 次の日になっても呼び集められた兵士達の手で運び出され、砂浜で火葬しました。
 立ち上る煙をみて、みんな泣きました。
 病院の手術室では、片平軍医と私が中心になって、三日三晩、ねるひまもおしんで手足の切断手術をしました。
四日目の朝には、5,000人分の麻酔薬や衛生材料が全部なくなりました。
 まだ、150人の手術患者がいるのに、あと3人分の縫い合わせ糸しかありません。
 手術をしなければ全員死亡です。そので麻酔無しの手術の希望者を募集しました。
 一人の女子高生が希望しました。
 男子でさえ一人の申し出もないのに、勇敢にも申し出た女子高生をみて、
私は一瞬ためらいましたが、どうしても助けたいと思い直し、私は心を鬼にして手術することにしました。
 いよいよ手術開始。
 このときの断末魔のようなうめき声は、いまだに私の耳に焼き付いて離れません。
 今でも生きてらっしゃるか?と心を痛めています。
 手術できなかった人は、その後まもなくみんな死亡されました。
 薬さえあれば助けられたかもしれないと思うと、残念でなりません。
 私たち病院船の部隊は、この戦争でいろんなひどい患者を診てきました。
 しかし広島の原爆被害者のようにひどい人たちをみたことはありません。
 まさに、人類が経験したことのなかった大量無差別虐殺行為であります。
 ひと口で言えば、この世の地獄でした。
 こんな事を二度と繰り返させてはなりません。


元似島野戦病院医院長 京都市 西村幸之助(元陸軍船舶衛生隊軍医大尉



「8月15日に、患者)にも終戦を伝えました。
悲しい顔も安心した顔もなく、つぶれた目からだけが流れていました。
何のために、この多くの人たちがつけられたのか。
この時のくやしさは、とても言葉では表せません。」


小原好隆氏(元陸軍船舶衛生隊衛生軍曹



「運んでも運んでも増える死体 その中に姉が」 
 
私は広島市と向かい合った江田島の幸の浦(こうのうら)で、8月6日を迎えました。
 ピカーッ、目がくらんだ後、ドーン、腸がえぐられるような音がして、みんななぎ倒されました。
 しばらくすると、広島の上空にドーナッツ状のキノコ雲が上がりました。
 やがて全隊が船に乗り、広島市に救援に向かいました。
 しかし、上陸できないので、正午過ぎに似島へ。
 似島は今にも死にそうな人たちでいっぱいでした。
 本心、近づくのが怖かった。
 気を取り直し、一人の黒く焼けただれた人の腕をとり、力をかけた、皮膚だけが私の手に残った。
 男か女かわからないその人は、ムーウッとうなり倒れてしまわれた。
 やがて6日の夜、建物いっぱいに詰め込まれた被爆者の熱で、部屋はどこも異常に温度が上がり、
 「水をっ!」
 「水をください」
 と、それは言葉にならないうめき声を残して、多くの方々が亡くなられました。
 はじめのうちは赤チンやヨウチンを傷口に塗るだけの治療のまねごとをしていましたが、その手を払いのけるようにして、
 「水をください」
 とまといつかれました。
 あげてはいけないと命令が出ていたので、誰もあげませんでした。
 焼け焦げた我が身をかきむしり、空をつかんで、次々と亡くなられました。
 そのあまりの多さに、私たちは死体運び出しの役を命令されました。
 暗いローソクの中の作業。
 足下に
 「水をくれ」
 とまとわりつく被爆者の姿。
 もう、あれは地獄でした。
 とうとう私は命令をやぶって、一人の被爆者に水をあげてしましました。
 ひしゃくにすがりぐくようにして、一口水を飲み
 「兵隊さん、ありがとう」
 とかすれた声で言い、ひしゃくをしっかり握りしめたまま、前につんのめった。
 それまででした。
 びっくりしました。
 私は命令に背いたことを反省し、あたりをそっとうかがうと、仲間も同じ事をして回っていました。
 どうせ助からない命なら、ほしい水を飲ませてあげようと思ったのは、私一人ではありませんでした。
 8月7日のあ差までに、10人中9人までが亡くなられたように思います。
 たまらなく、やるせなくなってまだ明けない闇の夜の広島の空を仰ぐと、空を赤々とこがして広島市が燃えていました。
 8月7日、明るくなった庭をみると、遺体の山があってとても驚きました。
 そこには小さな泉もあたので、部屋から這い出した人たちが折り重なって死んでおられました。
 あらためて、水がほしかったのだろうと、不憫に思いました。
 あの日は、朝から死体運びでした。
 死体の中には腐り始めたものもあり、とくに焼けただれた死体は強烈な臭いで、
もうウジ虫がいっぱい這い回っていました。
 タオルで顔を覆い、担架に乗せて、馬匹検疫所近くの近くの待避壕に放り投げました。
 まるで汚いものを捨てるような気持ちでした。
 今考えると、恥ずかしい話です。
 今の似島中学校のあたりから、人を焼く煙が、何日も何日も立ち昇り、
焼ける臭いは島を包んでいるようでした。
 近くの焼却炉の煙突からも、同じような煙が見えました。
 8月9日ごろになって、やや落ち着いた感じになりました。
 そこへ一人の少女が訪ねて来られ、たった一人の姉を探して、方々の収容所へ行ったが見つからず、
ここ似島が最後の探し場になる。
 ぜひお手伝いしてほしいと言われたので、私と戦友が案内役に立ちました。
 4日間、死体運びばかりしていたようなものだったので、案内役が迷う始末。
 あちこち一緒に探し回ったが、少女のお姉さんは見つかりませんでした。
 あきらめて詰め所に戻って班長に言うと
 「そうかあー」
 といった後、すぐに
 「桟橋に行ってみろ、新しい死体が船に積んであるぞ」
 と言われました。
 私たちはすぐに桟橋に行き、船に乗せてもらいました。
 戸板に乗せられた死体がいくつか並べてありあmした。
 少女は一人をみつめ、おおよそ男女の区別もつかないような腫れ上がった唇をあけ、
歯形をみて、よよと泣き崩れ、遺体に取りすがりました。
 そのときになって、私にやっと人間らしさが戻り、心にあついものを感じました。
 そして、そこに居た見習士官が群島で頭の髪を切り、少女に渡して下船を命令しました。
 泣きじゃくる少女をよそに、船はゆっくり出て行きました。
 8月15日、江田島幸の浦(こうのうら)で、腹痛と下痢を我慢して、天皇の声を聞きました。
 戦友達も、腹痛と下痢を我慢して、敗戦の知らせを聞きました。


元陸軍船舶特別幹部候補生第三期生 尼崎市 笠江春美


 「薬品不足のなかで、つぎつぎに死者が」
 一瞬、自分の目を疑いました。
 次から次と乗せられてくる人の姿は、この世のものではありませんでした。
 髪の毛はもつれぐしゃぐしゃになり、着ている物はボロボロで焼けただれ、
ほとんど身につけておりませんでした。
 似島検疫所の、我々病院船五十三班に、
本土決戦のため野戦病院開設の命令がありましたが、それどころではありません。
 患者を一列に並ばせ、はさみではがれた皮膚を切り取り、
チンク油を塗りつけるしか方法がありませんでした。
 この仕事を1時間ばかりしましたが、私の手の指に染みこんだ、
皮膚の焦げた臭いは一週間ばかり取れず、食事の度に困りました。
 手術室では、毎日、何人もの患者が膝から下を切り落とされました。
 その足を庭に並べておいたあとの芝生がまるで枯れてしまったように色が変わりました。
 放射能のせいだったのでしょう。
 薬も不足し、わを焼いて灰にし、マーキュロ液(赤チン:皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられる局所殺菌剤)
に混ぜて火傷に使いました。
 リンゲルも不足し、海水を濾過した水で割合を合わせ、生理食塩水として注射しました。
 治療の甲斐無く死が近づいた患者が、突然立ち上がり、開いた窓にかけより、
窓に片足をかけたまま息を引き取る姿が、よく見られました。
 死の直前、あの恐ろしかった原爆の時を思い出して、逃げようとしたのでしょうか。
 とても不思議な出来事でした。
 また、原爆の日には、広島にいなかったのに、家族を探しに似島に来て看病にあたっているうち、
日に日にやせ衰え、そのまま死んだ人もありました。
 あれから何年も過ぎた今、テレビや映画で核爆発や核戦争の画面をよく目にします。
 しかし、体験した当時のひどさに比べれば、まだまだ及びません。
 実際はこんな生易しいものでは無かったという印象を受けます。
 終わりに、あの亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします



元似島野戦病院薬剤少尉 別府市 林一郎

※ 平和記念資料館 企画展 参照
2004(平成16)年 3月3日(水)〜7月11日(日)

 暁部隊に関する関連書籍


似島の暁部隊に関する書籍を紹介します。

もうひとつのヒロシマ -秀男と千穂の似島物語
広島の南4キロに
もう一つのヒロシマがある。
被爆直後に、
広島のすぐ傍にある似島に
1万人以上の人々が運び込まれた。
救援活動に中学生の
少年特攻兵が大活躍をしたが、
甲斐も無く多くの命が失われていった


  • 単行本: 230ページ
  • 出版社: 講談社 (2008/8/1)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 406214882X
  • ISBN-13: 978-4062148825
  • 発売日: 2008/8/1
  • 商品の寸法: 19 x 13.6 x 2.2 cm

明日からは百姓になります
太平洋戦争末期に“海の特攻隊”に
配属された小笠原久雄が、
終戦までの約一年間に
故郷の妻へ送った手紙
百八通。
「大場栄と峯子の戦火のラブレター」を
出版したこれから出版より、
後世に伝えたい戦争記録第二弾!

陸軍船舶暁部隊 秘匿名称「マルレ」。
愛知県鳳来寺村から
広島県宇品に召集された
夫の任務は、
ベニヤ製のボートに
250キロ爆弾を積み、
体当たり攻撃をする
海の特攻隊であった。


  • 単行本: 256ページ
  • 出版社: これから出版 (2012/8/15)
  • 言語 日本語
  • ISBN-10: 490398804X
  • ISBN-13: 978-4903988047
  • 発売日: 2012/8/15
  • 商品の寸法: 21 x 15 x 2.2 cm

 新聞記事

船舶団長の那覇帰還行
太平洋戦争末期、米軍の沖縄侵攻直前に渡嘉敷島を訪れた第11船舶団長大町茂大佐。
島を守備する赤松隊の特攻艇を率いて那覇への帰還を試みるが…
島の集団自決の伏線となったこの事件は曽野綾子著『ある神話の背景』にも取り上げら
れている。そこでは、赤松隊が転進命令に従って準備を進めているところに突然現れ、
事情が良く分からぬまま的外れな命令を出して混乱させ、挙句に殆ど全ての特攻艇を失
う絵に描いたような無能な指揮官を登場させている。

軍の史実資料を洗い直し、新たに大町団長側の人と中立の人の証言、及び海上挺進部隊
関係者の手記を取り入れ、この大町団長像をより立体的にとらえ直し、誤りを正す。

このほか特攻艇マルレの部隊に関して、軍資料および関係者の手記を元にその実態を詳述。
「検証『ある神話の背景』」の姉妹書。
  • 単行本(ソフトカバー): 206ページ
  • 出版社: 紫峰出版; A5版 (2012/4/10)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4990615700
  • ISBN-13: 978-4990615703
  • 発売日: 2012/4/10
  • 商品パッケージの寸法: 21 x 15 x 1.4 cm



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