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似島の遺構 ☆ このページは地図や写真が閲覧しやすいように、やや拡大してあります。






















似島は、日清戦争のころより軍施設が次々と作られ、終戦を迎えるまで軍に利用されてきました。
永い歴史の中で、似島には今も多くの遺構や碑が残っています。
ここでは、今に残る遺構や碑、軍施設があった場所などを写真をもとに紹介してきます。

※ 現在、立ち入り禁止の場所等もありますので、ご注意ください。

参考文献:「似島の口伝と史実」〔1〕島の成り立ちと歩み 平成10年12月〔1998〕 似島連合町内会 郷土史編纂委員会
情報提供:宮崎佳都夫 様
参考資料:「品川リフラクトリーズ株式会社

 【このページの内容】

 似島の遺構等の地図  焼却炉跡(赤レンガの煙突)〈第一検疫所〉…似島学園北
第一検疫所桟橋跡〈第一検疫所〉…似島学園北端 貯水槽跡〈第一検疫所〉…似島学園敷地内 
 後藤新平の像〈第一検疫所〉…似島学園敷地内 一億一心の碑〈第一検疫所〉…似島学園敷地内 
 弾薬庫通用トンネル〈弾薬庫〉…似島学園となり 似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫跡〈弾薬庫〉…似島学園南側 
 〔資料〕似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫(現在は取り壊されています)
歩哨所(見張り台)〈弾薬庫〉…柿の木灘山裾(弾薬庫側 山側)〈2カ所 
 横穴防空壕〈弾薬庫〉…柿の木灘(弾薬庫横) 火葬場跡〈第二検疫所〉…柿の木灘(堀口海産側) 
 陸軍境界石柱 (右)・要塞地帯標(左) 「原爆被爆者診療の地」の碑〈第二検疫所〉…平和養老館前 
宇品駅プラットホーム敷石モニュメント・トロッコレール跡 軍用桟橋跡〈第二検疫所〉…平和養老館前〜似島臨海少年自然の家の海沿い 
 馬匹焼却炉跡〈馬匹検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内 似島陸軍検疫所跡の碑〈第二検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内
 第二検疫所井戸・配管・高架水槽〈第二検疫所〉 クスノキの大木(くすのきじいさん)…似島臨海少年自然の家敷地内 
 ドイツ菩提樹〈ドイツ人俘虜収容所・第二検疫所〉 横穴防空壕〈第二検疫所〉…東大谷
旧陸軍将校集会所跡〈第二検疫所〉…東大谷 慰霊碑(千人塚そば〉〈馬匹検疫所〉…南風泊〈似島中学校〉
 船艇格納処…七人窪〔似島中学校西〕  照空陣地跡…外方の鼻高台〔似島南東側〕
 海上挺進戦隊訓練基地…深浦〜八坪にかけた海岸沿い 監視所…サルババ(地獄鼻近くの一番高い位置辺り)〔似島南西〕 
 特攻隊(海上挺進戦隊)兵舎跡…中ノ原  軍用トンネル…長浜
 特攻隊(海上挺身隊)兵舎群用井戸…長浜  石切場…地獄の鼻
 燃料貯蔵施設…長浜 軍用桟橋…長浜 
 西大谷の貯水槽…西大谷  忠魂碑…似島説教所
 高射砲陣地跡…間小屋〜安芸小富士山頂 船艇格納処…小筏 
  高射砲陣地跡…間小屋〜安芸小富士山頂  

 

 似島の遺構等の地図

 「似島遺構地図」内の文字をクリックすると、サムネイル画像に移動します。 

※ 「似島遺構地図」に掲載していない遺構や資料も掲載しています。


似島臨海少年自然の家及び周辺のその他の遺構
第二検疫所の井戸 第二検疫所の高架水槽 第二検疫所の送水パイプ
クスノキの大木 ドイツ菩提樹 第二検疫所周辺の防空壕
似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫
第二検疫所第一桟橋 第二検疫所第二桟橋 第二検疫所第三桟橋


 画像をクリックすると、写真が拡大します 

 焼却炉跡(赤レンガの煙突)〈第一検疫所〉…似島学園北端
検疫所の感染物・汚染物の焼却に使われたと考えられます。
レンガの積み方を見ると、通常のレンガ以外に、小さなレンガが所々に埋め込まれています。
これは、イギリス式のレンガの積み方です。
突貫工事によって、第一検疫所が造られましたが、
煙突の例外ではなく、下側の部分は丁寧に積まれていますが、
上側の部分はわりと、雑に積み上げられています。

 第一検疫所桟橋跡〈第一検疫所〉…似島学園北端
既消毒桟橋 既消毒桟橋 未消毒桟橋 未消毒桟橋
未消毒桟橋
似島学園の北端に『第一検疫所桟橋」が残っています。
第一検疫所は日清戦争での帰還兵の出入りの桟橋として使用されていました。
後に、軍用桟橋として使用されまs。
桟橋から倉庫群を通り、南側の弾薬庫までトロッコのレールが敷かれ、
弾薬、その他の荷物の運搬に使用していました。
西側の桟橋は重火器の荷揚げに、
東側の桟橋は軽火薬の荷揚げに使用されていました。
未消毒桟橋の先端の四角いコンクリート部分は、クレーンが設けられ、
荷揚げに使われていました。

 貯水槽跡〈第一検疫所〉…似島学園敷地内
1 ポンプ小屋(1) 2 ポンプ小屋(2) 3 水路(1) 4 水路(2)
5 取水口登り口 6 軍用石柱(南の谷) 7 取水口(南の谷)(1) 8 取水口(南の谷)(2)
9 貯水槽跡(南の谷)(1) 10 貯水槽跡(南の谷)(2) 11 貯水槽@(北の谷)(1) 12 貯水槽@(北の谷)(2)
13 貯水槽@内部(北の谷)(1) 14 貯水槽@内部(北の谷)(2) 15 貯水槽@内部(北の谷)(3) 16 貯水槽@内部(北の谷)(4)
17 貯水槽@内部(北の谷)(5) 18 登口(北の谷) 19 貯水槽跡A(北の谷) 20 貯水槽跡B(北の谷)(1)
21 貯水槽跡B(北の谷)(2) 22 貯水槽跡B(北の谷)(3) 23 取水口(北の谷)(1) 24 取水口(北の谷)(2)
取水口(北の谷)(3) 取水口(北の谷)(4) 取水口水槽(北の谷)(1) 取水口水槽(北の谷)(2)
取水口の滝(北の谷)
第一検疫所の建設と同時に、検疫業務用の水を確保するため、
山水をためておく「軍用水道」が作られました。
現在も、似島学園がシイタケを栽培している山手にあり、
今でも、山水が流れ込んでいます。

 後藤新平の像〈第一検疫所〉…似島学園敷地内
似島第一検疫所の創設のために尽力した人物です。
彼の前半生は、内務官僚として検疫行政に携わりました。
後半生は、台湾民生長官、満州鉄道初代総裁、内務大臣として活躍しました。
この銅像は、昭和10年代に功績を称えるため、浜本乙松氏によって、製作されました。
太平洋戦争末期、軍が行った金物の供出から逃れるため、
銅像を三分割して隠してあったものを、ふたたび復元したものです。
近くで、銅像をみるとわずかにその継ぎ目を確認することができます。

 一億一心の碑〈第一検疫所〉…似島学園敷地内
一億一心の碑 - 建立年度不明。
一億一心とは、1940年(昭和14年)7月23日
近衛文麿首相ラジオ演説『大命を排して』内で発言した
「大御心を仰いで一億一心、真実の御奉公を期さねばならぬ」」と言い、
続けて
「陸海軍、朝野、上下みな心を一にして、陛下の御教えのままに大政を翼賛し奉らねばならない」と述べました。

つまり建立時においては「(太平洋戦争を)心を一つにしてやりぬく」という意味です。

裏には大理石でつくられたプレートが埋め込まれていたようですが、
現在は、えぐられて何が書かれていたかは不明です。

【ことばの意味】
※ 大御心:天皇の考え
※ 一億一心:日本国民一億人が、心を一つに結束すること。
※ 御奉公:国家や朝廷のために一身をささげて尽くすこと。
※ 朝野(ちょうや):朝廷と民間、または官民
※ 上下:上位と下位
※ 大政:天下国家の政治。
※ 翼賛:天皇の政治を補佐すること。

 弾薬庫通用トンネル〈弾薬庫〉…似島学園となり
明治38年(1905年)に、第一検疫所が改修され、その後、倉庫や弾薬庫として使用されました。
そのような施設を行き来するために、通路用トンネルが何カ所もありました。

 似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫跡〈弾薬庫〉…似島学園南側
大正8年、皆実町の陸軍弾薬庫で事故があったため、兵器廠の弾薬庫として、
似島に移設され、陸軍運輸部の倉庫や陸軍兵器工廠の弾薬庫として使用されました。
弾薬庫は周囲を土塁で高く囲み、樹木でカモフラージュし、
その中に弾薬を保管する倉庫が建てられました。
現在残っているのは、土塁と弾薬庫に入るトンネルだけです。
  〔資料〕似島陸軍兵器支廠似島弾薬庫(現在は取り壊されています)…似島学園南側
弾薬庫は、南半分に大小合わせて何棟か残っていたのですが、
最後の一棟まで残っていた棟も、平成14年3月に取り壊されました。
当時は弾薬庫から似島学園の北側にある桟橋までトロッコレールがひかれていて、
弾薬はトロッコで出し入れをしていました。
弾薬庫は厚いコンクリートの壁で覆われていましたが、
屋根は薄い作りになっていました。
これは、事故が起こったときに爆風が上に向けて上がり、被害を少なくするためです。
また、弾薬の火薬が湿気るのを防ぐため、高床式の造りになっていました。

 歩哨所(見張り台)〈弾薬庫〉…柿の木灘山裾(弾薬庫側 山側)〈2カ所〉
弾薬庫の土塁の上に、沖の海と弾薬庫の周囲を監視するための見張り台がいくつかありました。
現在は二つだけ、当時のままのこっています。
 横穴防空壕〈弾薬庫〉…柿の木灘(弾薬庫横)
太平洋戦争の後半になると、アメリカ軍による日本各地への空襲が激しくなり、
陸軍の施設の似島でも、空襲にそなえて、山肌を利用した「横穴防空壕」が至るところに作られました。
この防空壕は、中が広く、30人くらいが入ることができる広さがありました。
現在は、安全のためコンクリートでふさがれています。

 火葬場跡〈第二検疫所〉…柿の木灘(堀口海産側)
現在は、敷地内を囲っていたであろうコンクリートの石柱と鉄条網らしきものが
つけられていた跡がのこるのみです。

 陸軍境界石柱〈旧陸軍弾薬庫施設地区の境界標柱〉(右)・要塞地帯標(左)…柿の木灘(堀口海産側の道路脇)
堀口海産の前の道路の山際に、高さ145cm・幅15cmの四角の石柱と
高さ約50cm・幅約18cmの四角の石柱が立ってます。
陸軍が長谷に臨時検疫所を設置する際に、未接収の民有地との境界を標示するために建てられた石柱です。
このような石柱は登山道など島内で多く見ることができます。

【刻字】
一面:陸軍所
※ 陸軍所(管)、(属)か不明

二面:-八引く-(判読不明)
※明治二十八年の表示と類推される。

三面:刻字あるも判読不能

四面:刻字無し

 「原爆被爆者診療の地」の碑〈第二検疫所〉…平和養老館前
この碑は、被爆当日、似島臨時野戦病院を開設し、被爆者の診療看護を中心に行った
旧暁6165部隊の病院船衛生53班のみなさんが、被爆者のご冥福を祈って
自費で建てられました。

原爆被爆者診療の地(似島臨時野戦病院)
昇天の霊よ 永遠に安良かなれ

旧暁6165部隊は昭和16年7月広島にて編成以来
病院船に乗り組み主に南方方面の傷病兵を輸送診療に
従事していたが最後に最後にこの地に野戦病院を開設し
1万人に及ぶ原爆被爆者を診療介護して復員する
旧暁6165部隊(病院船衛生53班)
西村幸之介 外 生存者 昭和53年5月3日建立


西村幸之助の“ことば”
「病院の手術室では、三日三晩
しんで手足の切断手術をしました。
4日の朝には、5,000人分の麻酔薬衛生材料が全部なくなりました。
まだ150人の手術患者がいるのに、あと3人分のい合わせ糸しかありません。」



 宇品駅プラットホーム敷石モニュメント・トロッコレール跡〈宇品駅・検疫所〉…平和養老館前
プラットホーム プラットホーム トロッコレール トロッコレール
トロッコレール
日清戦争の開戦直後(明治27年8月4日)に軍用宇品線が開通しました。
似島で検疫を受けた将兵達は宇品線から全国各地の師団や連隊に戻っていきました。

似島と宇品を結ぶ歴史の遺構
宇品停車場プラットホーム敷石の碑

日清戦争の開戦直後(昭和27年8月4日に軍オウ宇品線が開通し、翌年の日清講和(下関)条約公布の半月後(明治28年6月1日)
には外地で大流行していた伝染病の国内への進入阻止を目的として臨時陸軍検疫部似島検疫所が島内の長谷地区
(現在の似島学園の場所)に開設された。
当時、コレラや腸チフスなどの流行地であった朝鮮半島や台湾方面の戦地から帰還した旧軍将兵らの大多数は似島で
検疫を受けた後、その多くが宇品駅(宇品停車場)から列車に乗り込んで全国各地の師団や連隊に帰属した。
世界屈指の規模と能力を備えた似島検疫所では日清戦争以降も戦地・外地から帰還した多くの旧軍将兵らの検疫を行い、
起案者にとっては似島が故国日本の最初に大地を踏みしめる歴史的な場所となった。
当地での検疫後、宇品線から列車に乗り込んで各地の師団や連隊に復員する彼らにとって、似島は懐かしい家族の元へ
還る道程の一里塚であった。
また、似島では日露戦争時に旅順や奉天などで俘虜となった莫大な数のロシア将兵らの検疫も行われ、
その大多数は似島から宇品駅を経由して全国に急遽設置された俘虜収容所へ送られた。
さらに、第一次世界大戦時に中国の青島(チンタオ)で俘虜となったドイツ軍兵は列車で大阪から似島へ転収容されたとき
(大正6年2月)に宇品駅プラットホームに降り立った。その後(大正9年2月)解放された彼らは、似島から祖国ドイツや
青島に帰還したり、日本国内に移住する際も宇品駅から列車に乗り込んで旅立った。
検疫所などが設置されていた似島と停車場を含む陸軍施設が集積していた宇品が一体となって関わった
近代日本の歴史と以降を後世に伝えるとともに、戦没者の慰霊と恒久平和を祈念して宇品駅プラットホーム敷石の
モニュメントを元陸軍(第二)検疫所跡地に設置した。

平成17年(2005年)7月

似島連合町内会



宇品線プラットホーム敷石モニュメントの裏側には、検疫所内に設置されていた
トロッコレールの一部が残されています。

このモニュメントのある「平和養老館」は昭和40年
原爆で家族や親戚を失って一人になった老人を養護する目的で広島平和養老館が作られました。
平成7年には、特別養護老人ホームも併設され、現在に至ります。


 軍用桟橋跡〈第二検疫所〉…平和養老館前〜似島臨海少年自然の家の海沿い
南側から見た桟橋 桟橋先端 北側からみた桟橋 桟橋入口付近
第一軍用桟端(荷揚げ・上陸用)→一番新しい桟橋(昭和に作られたと思われる)…北側

桟橋入口付近 桟橋先端 当時のビット 北側からみた桟橋
第二軍用桟橋(荷揚げ・上陸用)最初は明治時代に作られた。もとは第一桟橋(上陸用)。…真ん中

桟橋北側 桟橋入口付近 当時のビット 桟橋の石積み
第三軍用桟橋(帰還用)…、最初は明治時代に作られた。もとは第二桟橋(帰還用)。…南側
第一・第二桟橋は上陸専用の桟橋で、荷物の荷揚げ、大陸より帰国した将兵が上陸するための桟橋です。
第三桟橋は検疫が済んだ将兵が本土に渡り、復員したり故郷へ帰っていくための桟橋です。
第二検疫所が開設された当時は第二・第三桟橋のみであったが、
昭和に入って新たに第一桟橋が造られた。
石の組み方をみると、その様子が分かる。
(明治・大正:横積み 昭和:斜め積み)

古い石組みは、似島臨海少年自然の北側の堀も横積みであり、古い堀だと分かる。。

 
石の組み方が横並びになっている。

 馬匹焼却炉跡〈馬匹検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内〔アスレチック広場西側〕
 


 馬匹検疫所の跡地より発掘された焼却炉の耐火煉瓦
 馬匹検疫所で使われていた、『馬匹焼却炉』です。
 『馬匹焼却炉』には耐火煉瓦が使われていました。
 耐火煉瓦には「SHINAGAWA」の文字がみえます。
 この耐火煉瓦は東京芝浦で、民間としては日本で初めて
 耐火煉瓦を製造した会社です。創業は1875年(明治8年)
 と老舗の会社です。
 1887年(明治20年)東京品川に深川の工場を移して
 「品川白煉瓦製造所」と名前を改称しています。
 『馬匹焼却炉』の耐火煉瓦は 「品川白煉瓦製造所」のものが
 使用されています。


 
 この遺構は、平成2年(1990)9月7日から、
似島臨海少年自然の家から約600m南にある似島住宅用地内で発掘作業がはじまった。
ここからは、おびただしい骨片と、3つの焼却炉、馬の足洗い場、建物コンクリートの床がほりおこされた。
旧陸軍運輸部馬匹検疫所の焼却炉の1基を、平成3年にこの地に移設したものである。
原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるために、保存された。
 
1990年9月7日   遺骨の発掘調査が始まる。この日骨出土。
1990年9月10日  おびただしい量の骨が出土。
1990年9月18日  少年少女のつどい が広島市に炉の島内保存を依頼。
1990年10月1日  炉の島内保存を広島市が決定。
1990年10月3日  発掘現場で市主催の慰霊祭が営まれる。
1990年11月27日  出土した骨片が、平和祈念公園内の原爆供養塔
         に納骨される。
1990年12月14日  広島市が、炉の1つを似島臨海公園内の一角に移設。
1991年3月7日   焼却炉の保存工事終わる。

 


旧陸軍運輸部馬匹(ばひつ)検疫所焼却炉

この遺構は、平成2年(1990年)、ここから約600m南にある似島住宅用敷地内で発掘された
旧陸軍運輸部馬匹検疫所(軍馬の検疫・消毒を行う施設)の焼却炉の一部を移設したものです。
昭和20年(1945年)8月6日、広島市は人類最初の原子爆弾によって、一瞬のうちに壊滅し、
多くの死傷者をだしました。この年の12月末までに約14万人が死亡したといわれています。
ここ似島にも、約1万人の負傷した原爆被爆者が収容されましたが、応急看護のかいもなく
死亡者が続出し、その遺体がこの焼却炉においても火葬されたものです。
ここに、原爆による被害の悲惨さを後世に伝えるとともに、恒久平和への近いを新たにして
この遺構を保存します。

平成3年(1991年)2月 広島市


 似島陸軍検疫所跡の碑〈第二検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内〔生活棟北側〕
検疫所跡碑は、少年自然の家のグラウンドの一角にあります。
自然の家の建設にあたって、検疫所の遺跡を残してほしいと要望もありましたが、
遺跡は残らず、その代わりに跡碑がその証として残されました。

陸軍第二検疫所(現 似島臨海少年自然の家)には、
常時4,000人〜5,000人分の薬が用意されていました。
他の都市が空爆によって焼け野原になっているにもかかわらず、広島だけが無事でした。
そのため、空襲にそなえて似島には検疫のための薬以外に備蓄として各種の薬が用意されていたのだと言われています。
原爆投下後は、1万人に及ぶ被爆者が助けを求めてやってきたため、
あっという間に、その薬も底をついてしまいました。

似島陸軍検疫所跡

この地には、明治37年(1904)似島陸軍検疫所が設けられ
日露戦争より第二次世界大戦にいたる長期にわたって、
帰還した将兵や武器などの検疫、消毒が行われた。
昭和20年(1945)原子爆弾による負傷者の臨時救護所となり、
約一万人が収容された。
その後、明日を担う子供たちを育む場として、昭和57年(1082)より整備を行った。

昭和61年(1986)3月 広島市


 第二検疫所井戸・配管・高架水槽〈第二検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内〔炊飯場裏〕
井戸全容 説明ボード ポンプ用囲い 井戸のフタ
井戸のフタ フタを開けたところ 井戸の中の様子 井戸の中の様子
↑ 第二検疫所の井戸(炊飯場裏) ↑

第二検疫所北側の堀 井戸水送水パイプ 井戸水送水パイプ 井戸水送水パイプ
↑ 井戸から高架水槽へのパイプ(自然の家北側の堀) ↑

↑ 高架水槽(現:展望台下段 階段側) ↑
高架水槽
展望台(下側、階段横)には、現在も井戸からポンプで汲み上げた水を貯めておく、高架水槽が残っています。
もともとは、検疫所で使用されていましたが、戦後「平和養老館」設立にあわせて改修され、
似島に水道が通までは、養老館に飲料水等として送られるために、使われていました。

この井戸は、明治37年(1904年)日露戦争の開始とともに開設された
第二検疫所の重要な生活用水生活用水の水源として利用されました。
昭和20年(1945年)の原爆投下時には、この井戸の水が、多くの被災者の救護に使われました。
平成23年(2011)年8月6日の平和記念式典から
原爆の被害によって亡くなられた方々への献水に使われることになりました。
また、8月4日に行われる似島原爆犠牲者慰霊祭でも献水として使われることになりました。
それにともない、説明看板の設置などの整備が行われました。

3段目の写真は、井戸からポンプを使って組み上げた水を、
平和養老館裏の山にある、貯水槽まで送るためのパイプ跡です。
終戦後も、似島に水道が通るまでは、平和養老館で使用する水を確保するため
利用されていました。
そのとき、使われていたポンプ用台座などは、朽ちていたので現在は撤去されています。

 クスノキの大木(くすのきじいさん)…似島臨海少年自然の家敷地内〔炊飯場及び10番バンガロー横〕
クスノキじいさん クスノキじいさん クスノキじいさん 炊飯場横のクスノキ
説明ボード クスノキじいさん クスノキじいさん クスノキじいさん
樹齢100年を超えるこのクスノキは、長い間生き続け、これまでにいろいろなことを見てきました。
明治37年(1904年)に、日露戦争の開戦に伴い、第二検疫所が開設されました。
昭和20年(1945年)に、被爆者のために検疫所内に似島野戦病院を設置し、少年兵を含む多くの人々が救護にあたりました。
昭和59年(1984年)に、広島市似島臨海少年自然の家が開設されました。
戦争による辛く悲しい出来事も、『くすの木じいさん』は知っています。
自然の家で元気に活動する、子どもたちの姿も知っています。
これからも、ずっと、『くすの木じいさん」は、ここで見守っていくことでしょう。

  学名:Cinnamomum camphora    和名:クスノキ   英名:Camphor Laurel
単木ではこんもりとした樹形をなす。木肌は綿密で、耐湿・耐久性に優れている。
葉はつやがあり、革質で、先の尖った楕円形で長さ57cm
主脈の根本 近くから左右に一対のやや太い側脈が出る、いわゆる三行脈という形である。
その三行脈の分岐点には一対の小さな膨らみがあり、これをダニ室という。
初夏に大量に落葉する。晩秋、直径78mm程度の球形の果実が黒く熟し、鳥が食べて種子散布に与るが、人間の食用には適さない。
直径56mm  程度の種子が一つ入っている。枝や葉に樟脳(しょうのう)の香りがある。
樟脳とはすなわちクスノキの枝葉を蒸留して得られる無色透明の固体のことで、防虫剤や医薬品等に使用されるいわゆる”カンフル”のことである。
種名のcamphoraもこの「カンフル」に由来する。


 ドイツ菩提樹〈ドイツ人俘虜収容所・第二検疫所〉…似島臨海少年自然の家敷地内〔宿泊棟C棟裏〕
独日文化交流育英会寄贈
日本名:フユボダイジュ(学名:Tilia cordata Mill)

ヨーロッパからカフカスに分布するシナノキ科の落葉高木。
原産地は東欧。枝葉が密生し、樹形はドーム状になる。
香りの良い淡黄色の花を開く。

このボダイジュは、似島臨海公園敷地内にドイツ軍俘虜収容所が設置して
あったことを記念するとともに、独日友好を祈念するためにドイツから贈られたものです。

平成16年(2004年)2月 広島市
 横穴防空壕〈第二検疫所〉…東大谷〈似島臨海少年自然の家体育棟東側道路脇〕〉
向かって右から1番目 向かって右から2番目 向かって右から3番目 向かって右から4番目
向かって右から5番目 向かって右から6番目 向かって右から7番目
似島臨海少年自然の家の体育棟東側にある道路をはさんだところに
横穴式防空壕があります。
わずかな山肌の間に計7つもの防空壕跡が残っています。
使用されたアンプルや薬品の瓶が防空壕内にはたくさん廃棄されていましたが、
そのまま、安全のためにコンクリートの蓋が設けられました。
現在は、防空壕があった名残りが残るのみです。

原子爆弾投下後、被爆者の方々が第二検疫所で次々となくなり、
第二検疫所内のタコ壷式防空壕を仮仮葬場に急転用し、
薪を集めて死体を積み重ね、それに重油をかけて荼毘に付しました。
次から次へと死体を積み上げて、何回も繰り返して焼きましたが、間に合わなくなりました。
そこで、一時的にこの防空壕内に遺体が保管されました。
その結果、横穴式防空壕に死体を運び入れ、とりあえず土をかけて置いたので、
防空壕の入り口では毎夜リンが燃えていたそうです。


 旧陸軍将校集会所跡〈第二検疫所〉…東大谷〈似島臨海少年自然の家そば〉
旧陸軍将校集会所跡
似島観音堂 似島観音堂

似島臨海少年自然の家の海に面した丘の上に旧陸軍将校集会所跡があります。
現在は、納屋として利用されています。
下段の写真は旧陸軍将校集会所跡の隣にある似島観音堂です。

 慰霊碑(千人塚が建てられていた辺り)〈馬匹検疫所〉…南風泊〈似島中学校〉
昭和46年10月、似島中学校のグラウンドから、
被爆当時仮埋葬された被爆者517体の遺骨がみつかりました。

慰霊碑は犠牲者の冥福を祈って、昭和47年11月に建てられました。
被爆によって、亡くなられた方々は、ここで火葬されたり、埋められたりしました。

慰霊碑近くの七人窪という場所にあたる入り江は自然の海岸と雑木林でした。
入り江を掘削して敵の攻撃か舟艇を隠せるようにしてありました。


昭和20年8月6日 広島市は人類最初の原子爆弾に
よって、一瞬のうちに20数万人の死傷者をだしました。
ここ似島にも、被爆直後から多くの負傷者が運ばれて
きましたが、応急看護の甲斐もなく死亡者が続出し、混乱
のなかとはいえ、一部は仮埋葬のなかでこの地に眠り、
悲しくも数十年の歳月が過ぎました。
昭和46年11月 似島中学校農業実習地から推定
517体の遺骨と推定100体分の骨灰、その他の遺品が
発掘されました。
この慰霊碑は、1年後の昭和47年11月に原爆で亡く
なられた御霊の冥福を祈り平和の近いを新たにし、建立
されました。
その後、平成2年9月 旧陸軍馬匹検疫所焼却炉跡から
スコップ300杯分の骨片、骨灰が発掘されました。
発掘された遺骨は、平和記念公園内にある原爆供養塔
に納骨し、遺品は平和記念資料館に保管されています。

 馬匹検疫所の防空壕…〈馬匹検疫所〉〔似島中学校裏〕
 似島中学校の裏には、横穴式防空壕跡や軍用石柱が残っています。

 船艇格納処…七人窪〔似島中学校西〕
七人窪の入り江は自然の海浜と雑木林でした。
その入り江を掘削して敵の攻撃から船艇を隠せるようにしました。
ベニヤ板で建造した特攻用の船艇や他の軍事船艇を米軍の攻撃から回避するために設置された施設です。
部隊本部の幸の浦基地のみでは船艇を係留、格納しきれない状況と戦争末期には広島市や呉市の都市とともに広島湾の艦船に対しても
米軍艦載機による銃爆撃が日常的に行われていた状況に対応するためにだったと思われます。
敵機から発見しにくいような小筏(こいかだ)の浜と七人窪(しちにんくぼ)の入り江を掘削し、格納処として利用してました。
「終戦後、当分の間は島の所々に特攻艇が残置されていた。七人窪の手前のナダマワリ(学校の先の海岸)辺りに3艇くらい転がっていた。」
「戦争が終わった後にも、中ノ原の海岸に何艇か放置されていた。」
等という証言がありました。


 照空陣地跡…外方の鼻高台〔似島南東側〕
似島小学校・中学校の南東に伸びる外方の鼻と呼ばれる周辺に、幾つかの軍事施設跡が残っています。
外方の鼻の頂上部に照空陣地跡があったようです。
コンクリート製水槽もあり、兵舎が建てられていたのかもしれません。
土塁があったようで、コンクリートの残骸なども残っています。資料によると二重円形土塁になっていたものと思われます。
照空陣地では円形窪地1ヶ所と二重円形土塁1ヶ所で構成されている事が多いそうです。
「広島市及び周辺防空部隊配備要図」の似島のこの場所に、探照灯のマークがつけられています。
いつ頃築かれたものかは分かっていません。

地図の赤丸部分は、現在も伺うことができます。

参考:広島市の高射砲陣地
照空陣地の貯水枡


 海上挺進戦隊訓練基地…深浦〜八坪にかけた海岸沿い〔似島南側海岸〕
海上挺進戦隊が使用したスロープや桟橋…深浦(外方寄り)

太平洋戦争も末期になってくると、軍は体当たり攻撃を行うようになりました。
中でも、モーターボートを使用した特攻訓練が江田島や似島で行われていました。
海軍は「震洋」、陸軍は「連絡艇」とうい名のモーターボートを使いました。
海軍の「震洋」が250kg爆弾を積んで直接体当たりするのに対し、
陸軍の「連絡艇」は相手の船に接触すると同時に爆雷を投下するものでした。
そのため、「連絡艇」は「四式肉薄攻撃艇」と名付けられています。
しかし、終戦間近になると、特攻の方が効果が高いとされ、「連絡艇」も特攻したようです。

陸軍船舶司令部を通称「暁部隊」といいます。
主に、海上輸送など「海」にかかわる陸軍の部隊でした。

昭和15年に船舶工兵隊が接収・使用していた深浦地区と昭和18年に強制借り上げした中ノ原地区に
建設した特攻隊用の兵舎建物がありました。
特攻隊は、表向きの部隊名を「陸軍船舶練習部第十教育隊」とよび、深浦地区の対岸である江田島の
「幸の浦」に本部を置いていました。
深浦地区は、昭和19年夏からベニヤ板で造った小さな船艇を用いて敵艦に突撃する特攻隊の訓練に供され、
軍の機密保持と称して立ち入りを禁止していました。

 監視所…サルババ(地獄鼻近くの一番高い位置辺り)〔似島南西〕
監視所@ 付近の溝 監視所の一部 監視所@ 周辺 監視所@ 周辺
監視所@ 周辺 監視所@ 周辺 監視所@ 監視所@ の石垣
監視所@ 内部 監視所A 監視所Aは地獄の鼻の
三角点に位置する。
国土地理院が設置した三角点
監視所Aの地面は崖に面している
ため、崖際までコンクリートで
補強されている。
監視所Aは自然の大岩を利用
して作られている。
監視所Aの自然の大岩 自然の岩の上に石を積み上げ
コンクリートで補強されている。
監視所Aの外周の石垣 監視所Aの内側 監視所Aの石組み
(上側から撮影)
監視所Aの石組み
(上側から撮影)
監視所Aには、草木が
生い茂っている。
監視所Aの内側も雑木が
生えている。
監視所Aの内部。 監視所Aの何かを
納めていた穴。
監視所@と同様に、
監視所Aにもこのような
何かを納めるスペースがある。
監視所A外側の草木を
取り除いたところ。
監視所Aは自然の石を利用
して作られたのがよく分かる。
監視所Aでは、写真左側に
あるような、自然の岩を利用
ている。
監視所Aの内側。 監視所Aの内側
を南側から撮影。
監視所Aの草木を
片付けたところ。
監視所Aの内側
監視所Aを
北側から撮影。
監視所Aを
西側から撮影。
監視所Aの西側に入口がある。
(向かって左側の石垣)
監視所Aの西側に入口がある。
(向かって右側の石垣)
監視所A入口から
ローアングルで撮影。
監視所Aの西側から
向かって左側を撮影。
監視所Aの西側から
向かって右側を撮影。
監視所Aから岬(地獄の鼻)に
向かうと水をためる穴がある。
監視所Aから岬(地獄の鼻)に
向かうと、四角い升@がある。
升@は長さ1.5m、幅0.8m
深さ0.6m程度ある。
升@に縁には段差があり、
蓋ができるようになっている。
水ためか便所と思われる。
さらに、岬(地獄の鼻)に向かうと
升ABがある。
升A 升ABは隣り合っている。 升Aの奥に升Bがある。
戦争末期の昭和20年(1945年)にサルババの山の上に監視所が構築されました。
その一つがサルババです。
配置されていた部隊は不明です。



参考:広島市の高射砲陣地

 特攻隊(海上挺進戦隊)兵舎跡…中ノ原
昭和15年に船舶工兵隊が接収・使用していた深浦地区と昭和18年に強制借り上げした中ノ原地区に
建設した特攻隊用の兵舎建物がありました。
特攻隊は、表向きの部隊名を「陸軍船舶練習部第十教育隊」とよび、深浦地区の対岸である江田島の
「幸の浦」に本部を置いていました。
中ノ原地区の兵舎は、建設されたものの、訓練兵が常駐して使用することはなかったようです。
ですが、海岸のスベリ(石垣の桟橋)と周辺に船艇が置かれていたということです。
中ノ原では建設した特攻隊用兵舎の周辺に飲料水を確保するための大きな深井戸(現存)を掘っていました。
このとき、軍は長浜の陸軍船舶部燃料貯蔵施設を連絡するために下記のような
素ぼりのトンネルを掘っています。

 軍用トンネル…長浜
中ノ原にあった特攻隊兵舎施設と長浜にあった燃料貯蔵施設(船舶貯油所)を結ぶために、
軍は素ぼりのトンネルを掘りました。
このトンネルは戦後、似島の方々の通行に供されています。

 特攻隊(海上挺身隊)兵舎群用井戸…長浜
中ノ原にあった特攻隊兵舎施設に水を供給するための井戸。
現在は、島民が作物を育てるのに利用している。
この井戸から、ポンプで高さ15mほどの高さにある『高架水槽』まで水を汲み上げていた。

 石切場…地獄の鼻
地獄の鼻の先には、戦時中に使われた石切場です。
ここで、切り出された石材は、検疫所の堀や軍用桟橋、防波堤等に使われたと考えられます。
似島の岩は、広島型花崗岩といい、黄色みがかっています。

 燃料貯蔵施設…長浜
長浜と呼ばれる場所には、燃料貯蔵施設がありました。
資材等は、同じ長浜にある軍用桟橋より荷揚げされたものと考えられます。
現在のような道路はなく、当時は軍用トンネルで中ノ原(二階)につながっていました。

昭和17年に陸軍暁部隊が強制的に借り上げて、長浜地区に燃料貯蔵施設を作りました。
現在は残っていません。

 軍用桟橋…長浜
長浜には、軍用桟橋の跡が残っています。
この軍用桟橋は、長浜へあった燃料貯蔵施設への物資の搬入等に使われていたようです。
昭和17年に陸軍暁部隊が強制的に長浜地区を借り上げたときにあわせて作られました。
当時は3基の桟橋がありましたが、現在はそのうちの1基が残っています。

 西大谷の貯水槽…西大谷
中ノ原の施設と長浜の施設に給水する目的で、中ノ原の井戸から汲み上げた水を貯めるために
建設された大きなコンクリート水槽で、一段高い丘の上(15m程度)に設置してありました。
給水は落差を利用する配水システムでした。

 忠魂碑…似島説教所
似島説教所 そのとなりに「忠魂碑」がある。 荒神社上り階段横。 「忠魂碑」
在郷軍人會發起
「忠魂碑」
大正十一年十一月十八日建之
「忠魂碑」
第五師団長…
「忠魂碑」
…陸軍中将山田…
「忠魂碑」
…陸槌書
似島説教所には、忠魂碑が建てられています。
日露戦争・シベリア戦争・支那事変・大東亜戦争において、亡くなられた方のために建てられたものと思われます。

 高射砲陣地跡/監視所…間小屋〜安芸小富士山頂
 ↑ 安芸小富士(高山)山頂の監視所跡 ↑
 
 ↑ 安芸小富士(高山)山頂の監視所の防空壕跡 ↑
戦争末期の昭和20年(1945年)に間小屋と安芸小富士(高山)山頂に高射砲陣地が構築されました。
間小屋の高射砲が、昭和20年7月下旬に広島湾内に飛来した米軍のグラマン機を撃墜しています。
似島に設置されていた高射砲がグラマン機を撃墜したという地元の記録と証言は新編広島警察史に記録されています。
それによると昭和20年7月25日6時30分から午後2時30分頃まで県下沿岸部、主として広島湾内の感染に対して
銃爆撃を行っています。飛来した米軍機は艦載機を主とする小型機延べ25機で、銃撃以外に爆弾11個を投下しています。
そのときの被害は死者2名、重傷者1名、軽傷者8名、建物全壊8、半壊1とあります。
似島高射砲によって外方の瀬戸に撃墜されたグラマン機は、この内の1機と思われます。
配置されていた部隊は不明ですが、おそらく船舶砲兵部隊の関連部隊であると思われます。

監視所及び高射砲陣地 安芸小富士山頂の監視所 間小屋の高射砲陣地
参考:広島市の高射砲陣地


 船艇格納処…小筏
小筏(こいかだ)の浜は入り江になっていました。
七人窪(しちにんくぼ)と同様に、入り江を掘削して船艇を格納できる場所にしました。

 

 

 

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