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半潜攻撃艇(マルハセ)
半潜攻撃艇(○のなかにハセと書いてマルハセとよばれた)は、船体を半分海に沈め、夜間、敵に気付かれずに接近して、
魚雷を発射する攻撃艇でした。
魚雷の生産が間に合わなくなると、艦首に1トンの爆雷を装備して体当たり攻撃をするよう改造されました。
※ 資料提供…宮崎佳都夫 様
※ 参考文献…決戦兵器(マルユ)陸軍潜水艦 土井全二郎 著
【このページの内容】
1 半潜攻撃艇(マルハセ)とは
2 似島と半潜攻撃艇
半潜攻撃艇(マルハセ)とは | ||||||||||||||||||||||
半潜攻撃艇(五式半潜攻撃艇)は連絡艇(四式肉薄攻撃艇)と同じく、大日本帝国陸軍が沿岸用半潜攻撃艇です。 ○の中にハセと書き、「マルハセ」と呼ばれました。 連合国軍の上陸部隊を水際で迎撃することを目的とした決戦舟艇の1つです。 航行中は上甲板より下が海中に沈む、いわゆる半潜水の状態になります。 船体木と鉄を組み合わされて作られており(木鉄交造)で、船体の中央部分が円筒形の更迭水密区画になっていました。 船首と船尾は木製で水密区画ではなく、沈むようにできていました。 エンジンは大発動艇に使われていたディーゼルエンジンを流用していました。 兵装は両舷に簡易魚雷を装備していました。 簡易魚雷は、五式雷撃艇等の武装として開発された簡易兵器です。 胴体は合板でできており、火薬ロケットを推進剤として水面上を滑走するもので、 ロケットに近いものと考えられます。 設計は1944年(昭和19年)9月下旬に開始されました。 宇品(現在の広島県広島市南区)の野戦船舶本廠で製造された試作艇が実験に合格すると、 1945年(昭和20年)2月上旬から大阪で量産が開始されました。 しかし、1945年(昭和20年)3月中旬に製作途中の半潜攻撃艇が空襲によって全艇が消失してしまいます。 これを受けて、野戦船舶本廠による再度試作が行われましたが、兵装として製作された簡易魚雷に不備が生じます。 そのため、実践では使用されず、五式半潜攻撃艇の量産は中止されました。
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似島と半潜攻撃艇(マルハセ) | ||||||||||||||||||||||
1945年(昭和20年)6月、似島の深浦地区に突如として、暁部隊(船舶司令部)船舶練習部の隷下(れいか)の 第一教育隊という隊名をつけた部隊が新設されました。 船舶練習部は、潜航輸送教育隊(マルユ)や船舶幹部候補生隊、第十教育隊(マルレ)を擁しており、そこに第一教育隊が 現れました。
陸軍の船舶隊全般を統括する船舶司令部の要請を受けて、特殊潜航艇(マルユ)の部隊からも約60人の隊員がこの部隊に 配属されました。 新設された「第一教育隊」に配属された隊員には、3日間の「特別休暇」が与えられました。 これは、故郷に帰って家族に会うための「特別休暇」であったようで、故郷に帰るための鉄道等の乗車券や、さらに座席まで もが部隊が手を回して確保していたようです。 終戦間際の当時は、民間一般の人たちは汽車の利用が制限されていた時代であり、それを考えると破格の待遇であったようです。 そのように至れり尽くせりの状況が、逆に配属された隊員達には不安であったそうです。 そのころには、特別攻撃や肉薄攻撃が行われている時代であり、不安に思うのも無理のない話でした。 「こういう場合は、ろくなことがない…」 と、配属された隊員の多くは感じたようです。 陸軍上等兵のある隊員は、 「では、行ってこい」 と、隊長が故郷に向かう隊員たちに対して一席うち、最後には、 「家から軍刀を持ってくること。腹を切る刀ぐらいは自分で用意しておけ」 と、物騒なことを言われたそうです。 この隊員は昭和20(1945)年1月に、船舶練習部隷下の陸軍船舶特別幹部候補生隊を卒業して、特殊潜航艇(マルユ)の 部隊に配属になっていました。機関のことを学び、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、ヘッセルマンエンジン (特殊潜航艇のエンジン)の扱いを徹底的に仕込まれていました。 昭和20(1945)年ごろには、訓練や教育用に使う燃料にも事欠くようになっていて、現在の愛媛県伊予市三島町まで 山中の松根油(松の切り株を、空気を遮断した状態で熱を与え、気化したものを冷却して得る、油状の液体で、松根テレピン油 とも呼ばれる)の採取にも行かされました。 本土空襲のアメリカ軍機を迎撃する航空隊ですら代用の燃料アルコール(亜号燃料)を使用していた状況で、松の根っこからも 油を絞り出すという始末だったそうです。 ちなみに、この松根油はタール分や灰分が多く、精製が難しく、実用には向かなかったそうですが、当時は大々的に採取に 取り組んだ、国家的事業であったようです。 船舶練習部の卒業生の多くが戦死する中での、新設部隊(第一教育隊)への配属は、多くの隊員にとって、死が現実のものとして 身近に迫っていることを感じさせるものでした。 似島の深浦地区に新設された「第一教育隊」はに向かった隊員達は、決死(死ぬ覚悟で望む)どころか必死(死ぬ)の 「特別攻撃隊員養成所」だったため、悪い予想通りの部隊に驚きつつも、やはり…と思ったようです。
第一教育隊は、日中はほとんど(約8割)が座学でした。 そして、その内容は精神教育が多くを占めました。 「特攻死をいかに自分自身に納得させるか、そんな自問自答の時間でもありました」 と当時の隊員は答えています。 夜になると、小型発動機艇を使用した訓練が行われました。 闇夜の海に浮かんでいる目標をどう確認するのか、どのように接近するのかなどの訓練が行われました。 発光信号から星座の学習まで、夜は「実践」に即した演習が行われました。 ただ、第一教育隊の隊員には肝心の秘密兵器(半潜攻撃艇)がどんなものなのかは示されませんでした。 新設された第一教育隊の訓練から1ヶ月が過ぎた頃に、「見本」の半潜攻撃艇が一隻到着します。 それをみた隊員は 「まるでオットセイみたい」 というのが感想だったそうです。 これまで、みたこともないような不思議な形をした兵器(半潜攻撃艇)でした。 「あれにのって突っ込むんか?」 「あれで、わしらは死ぬんか?」 などの、ささやきが隊員達からもれてきました。 長さ10m、幅1.5m、重量4トン、半潜攻撃艇の前後は木造で、中央部分だけが鋼鉄製で、操縦席と浮力タンクが 設けられていました。 船長の操縦手と機関手の二人乗りになっており、機関は60馬力のディーゼルエンジンでした。 排気ガスが相手に見えないように、海中に排出するようになっていました。 似島では、江田島の幸の浦を本部とする海上挺進戦隊基地の船舶練習部隷下の第十教育隊の少年達が連絡艇(マルレ: 正式名は四式肉薄攻撃艇)の訓練も行われていましたが、連絡艇(マルレ)の場合は、モーターボートのように大きな エンジン音がし、航跡(船のはしった跡)が見えるため相手に発見されすいという欠点がありました。 一方、半潜攻撃艇(マルハセ)は、速度こそ5〜7ノットしかでませんでしたが、走行すると船体の半分が沈み、 操縦席とハッチだけが海面にでるだけなので、発見されにくくなっていました。 それを、夜間に相手に見つからないようにそっと接近し、両舷に取り付けた、簡易魚雷を2本発射するという作戦でした。 日本海軍が使用していた魚雷は酸素魚雷で航跡が見えにくいという利点がありましたが、大変高価であったため、 半潜攻撃艇には装備されず、簡易魚雷が使われました。 魚雷といっても、火薬でロケットのように水面を進む、いわゆる「火薬噴式簡易魚雷」で、胴体は木造でした。 頭部に爆薬を装填し、後部には火薬のロケットを装備して水面を噴進するものでした。 有効射程距離は約300mありました。 しかしながら、新設部隊である「第一教育隊」の隊長による隊員への訓示は 「魚雷とともにぶつかっていけ」 という激しいものでしたので、特攻を念頭に置いた訓練がされていたものと思われます。 操縦はかなりユニークなもので、自動車のハンドルのようなものが足下についており、これを両足で操って舵をとるようになって いました。 両手はボタンの操作でエンジンを始動したり、速度を調節する程度の装置しかついていませんでした。 半潜攻撃艇を操縦した隊員によると 「手を自由にしていたのは魚雷攻撃時の操作に手がかかるためだったからではないか」 と述べています。 いずれにせよ、足による操縦はかなり困難だったようで、まっすぐに進まず、身をかがめ、足下に手を伸ばして操縦した隊員も いるようです。 半潜状態で航行するため、波の影響はあまり受けなかったようですが、バランスをとるのはかなり難しかったそうです。 魚雷は訓練では装着されておらず、魚雷の発射方法についての訓練もなかったようで、魚雷が間に合わなかったことが伺えます。 半潜攻撃艇の速力は7ノットまでありましたが、少しでも速度を上げると、操縦席全部のガラス窓にしぶきがかかり前がみえなく なるという問題もあったようです。 「二度、半潜攻撃艇に乗船したが、似島の静かな湾内で試乗したときでさえ、波をかぶった」 と言っています。 そのころ、大阪で増産に入っていた半潜攻撃艇は、3月に空襲にて全艇が消失し、再度宇品の野戦船舶本廠にて試作がつくられて いました。 しかし、簡易魚雷は、半潜攻撃艇の体勢によっては発射管が上向きになり、自重のため発射管から発射できないという 不具合があったようで、結局実戦には使われませんでした。 結局、魚雷の生産が思うように進まず、とうとう間に合わなくなりました。 そこで、改造を施し、艦首に1トンの爆薬を装備して体当たり攻撃をするように作戦が変更されます。 しかし、実戦で使用する間もなく終戦を迎え、結局「半潜攻撃艇」が使われることはありませんでした。 |