矢野のかき・かき船

1) 広島市域の経済発展の一つの原動力となった、数多くの伝統的地場産業のなかには、
①新しい生産技術を導入して増産をはかり、存続している業種もあれば、
②近代化の遅れや、生活様式の変化により衰退していったものもあります。
これらの産業に従事した私たちの祖先の労苦のありさまを今日的視点から振り返ってみましょう。
①は広島(矢野)のかき、かき船であり、②は矢野のかもじです。(かもじについてはかもじとはを参照)

2)広島湾というところ
広島では二つのカキが有名です。広島湾内で養殖されている海の蛎と、西条柿に代表される陸の柿です。
海のかきは現在全国の70%以上を広島で生産しています。
広島湾にそそぐ太田川は、豊富な土砂や水をはこび、広い干潟をつくり、栄養分を多く含む淡水は、海水と混じりあって、かきのえさとなるプランクトンの発生を促しています。湾内には島が点在し、波は静かでかきの産卵時には塩分が低下し、発育によい条件です。かき養殖の発達は、これらの自然条件を巧みに生かし、技術の改良を重ねた地元の人々の努力に負っています。

3)かき養殖の歴史
1532~1555 安芸国でカキ養殖の方法が発見される。(草津案内)
1619年 浅野氏入封の際、和歌山のカキを広島に移植する。
1627年 矢野村、和泉源蔵が大江に住み、雑木・竹を立て養殖を試み成功する。(矢野町史)
1624~1644 渕崎の吉和屋平四郎、岩石を沈めカキ養殖を行う。
 その後、竹木を立てて試み、後に竹を立てて養殖を続ける。(仁保村史)
1663年 伊予松山の城主松平定行、広島から70俵のカキを購入する。
1673~1681 草津村、小西屋五郎八、ひび立て養殖を行う。(成跡書)
仲間五人と大坂にカキの販路を開く。
1785年 江波島西潟で八重ひび立て養殖が行われはじめる。
1844年 江波村、仁保島村潟境改図に八重ひびが記録される。
1881年 カキ船数、草津村22、渕崎村7、本浦4、向洋3、海田市5、矢野30、坂7艘の記録があります。
1953年江波沖で孟宗竹による養殖筏試験が行われ、以降普及する。

4)かきの養殖法
・石蒔法 海中に岩石を投げ入れておき、カキのついた石を集めて干潟で養殖する。寛永年間(1624-1644)に始まったとされる。
・ひび立て法 八重ひび立て法、ひび竹を干潟に立て、カキを採苗(種取)し、育成させる方法で、途中でカキをひびから打ち落とし、干潟にまいて育成する。17世紀初期から昭和の初期まで。
・杭打ち式(簡易)垂下法 干潟に杭を打ち棚をつくり、針金に貝殻と竹管を交互に通して吊るし、採苗し育成する。昭和の初めころに急速に普及した。
・筏式垂下法 孟宗竹を使って筏を組み、沖に固定して、採苗から身入りまで筏で行う方法で昭和30年代にひろまる。漁場を垂直に利用できて、収穫量が飛躍的に増大した。

5)広島のカキ船(矢野のカキ船)
「矢野浦のかき船は多く、その昔カモジ売りが全国を売り歩きながら、手引きをした物語」が伝わる。かもじの販売・行商で、各地の必要とする商品の情報を得ていたというのです。矢野のかきとかもじとの関連性は密接でした。
江戸時代の終わりごろの文書によると、矢野のカキの販路は瀬戸内海全体の主要都市にカキの商い先を求めていました。
・広島の産物生産にみられる商才は、古来陸と海の交通の要路であったことから、情報感覚に秀でていたことにもよります。

6)現在のかき事情
・生かきの他に、加工品に活路
 かき缶詰、燻製カキ、味付けかき、かきバター(粉末)、かきエキスなど国内外の需要に応える。
・かき船、陸に上がる。
 かきの営業を改善し、今なおそれぞれの都市で業界に華々しく雄飛する矢野の「かき料理」業者は多い。
・全国カキ生産地と生産高(総生産41397トン)
 広島70.2% 岡山 11.7% 宮城 9.7% 岩手 2.1% 石川 1.6% 三重 0.9% その他 3.8% (昭和57年度)

矢野の果樹・木綿・甘藷(いも)
1)柿(矢野の二つのカキ)
果樹としては柿、梅、棗(なつめ)がある。広島藩の名産の一つに柿は数えられ、つるし柿は藩主の参勤の時、土産として将軍に献上していた。西条柿がそれである。西条柿の本場を矢野とする説がある。寛政7年(1795年)高田・高宮両郡が不作のため、矢野の柿が献上用に指定された。
2)新開地の綿作「綿地」
慶長年間(17世紀始め)盛んになる産業のうち、国産品の第一・安芸木綿があった。広島湾岸の新開地に栽培される。綿作は綿商人を生み、木綿織が最も盛んな地域となる。
3)甘藷の優良品種として知られる三徳藷、七福藷は、久保田勇次郎がオーストラリア、米国からもたらし普及したもの。同人の栽培、普及の功績を伝える大正4年建立の「甘藷之碑」がある。