テキスト ボックス: 広島市のゴミ処分場の計画が集落跡地に進められており、関心が高まっている中、現状を文化の会で探索した。
むかしの様子
湯来町和田向吉恵下谷口より約四q恵下谷川に沿った道を行くと集落のシンボルである大樹(大樅)にたどりつく。恵下集落は和田の飛び地で和田三区内であった。古来お建山の麓にあって水の豊かな土地柄故、長い年月の内に拓かれた田畑は数町歩かとも思われる。この里の河内神社の記録には創建・享徳元年(一四五二)とあり歴史の重みを感じる。住民の暮らしは、山仕事・田畑の耕作・炭焼き・たきぎの確保などであった。戦前には、森林トロッコ鉄道が集落わきを通り、官林の伐採や運搬がさかんに行われていた。なお、昭和二十年代には戸数九戸であった。
子ども達は約四qの道のりを小学一年から歩いて和田小学校(後の水内上小学校)へ通い、さらに、和田から四qの道のりを水内中学校に通っていた。しかし三十八年豪雪を機に他地方に職を求めたり、やむを得ない事情で里を去る人が相次ぎ、昭和五十一年十二月、最後の二家の転居により恵下集落の暮らしは幕を閉じた。
恵下集落跡を訪ねる
この度、文化の会の活動の一環として、会員と共に恵下谷林道をのぼり見覚えのある山里へ入る。源流二箇所から流れるせせらぎは清らかで里の入り口で合流する。道は入り口から左右に分かれる。思ったよりは歩きやすく、水田跡・畑跡・屋敷跡と訪ねて回った。神社は管理もよく健在である。
参道左右の屋敷跡の石垣は立派なもので、当時の石工の腕に感銘を受ける。同行(どうぎょう)の什器(じゅうき)を管理する小屋には農機具も収めてあった。風雨に耐えた大手垣、崩れつつある屋根の下に暮らしの道具、集落の生活を偲ばせる当時の面影に感慨深く里をあとにした。
(文化の会 宮本三千男・小山武子)

テキスト ボックス: 広島市のゴミ処分場の計画が集落跡地に進められており、関心が高まっている中、現状を文化の会で探索した。
むかしの様子
湯来町和田向吉恵下谷口より約四q恵下谷川に沿った道を行くと集落のシンボルである大樹(大樅)にたどりつく。恵下集落は和田の飛び地で和田三区内であった。古来お建山の麓にあって水の豊かな土地柄故、長い年月の内に拓かれた田畑は数町歩かとも思われる。この里の河内神社の記録には創建・享徳元年(一四五二)とあり歴史の重みを感じる。住民の暮らしは、山仕事・田畑の耕作・炭焼き・たきぎの確保などであった。戦前には、森林トロッコ鉄道が集落わきを通り、官林の伐採や運搬がさかんに行われていた。なお、昭和二十年代には戸数九戸であった。
子ども達は約四qの道のりを小学一年から歩いて和田小学校(後の水内上小学校)へ通い、さらに、和田から四qの道のりを水内中学校に通っていた。しかし三十八年豪雪を機に他地方に職を求めたり、やむを得ない事情で里を去る人が相次ぎ、昭和五十一年十二月、最後の二家の転居により恵下集落の暮らしは幕を閉じた。
恵下集落跡を訪ねる
この度、文化の会の活動の一環として、会員と共に恵下谷林道をのぼり見覚えのある山里へ入る。源流二箇所から流れるせせらぎは清らかで里の入り口で合流する。道は入り口から左右に分かれる。思ったよりは歩きやすく、水田跡・畑跡・屋敷跡と訪ねて回った。神社は管理もよく健在である。
参道左右の屋敷跡の石垣は立派なもので、当時の石工の腕に感銘を受ける。同行(どうぎょう)の什器(じゅうき)を管理する小屋には農機具も収めてあった。風雨に耐えた大手垣、崩れつつある屋根の下に暮らしの道具、集落の生活を偲ばせる当時の面影に感慨深く里をあとにした。
(文化の会 宮本三千男・小山武子)

,[恵下谷集落跡],無人化した集落(一)
湯来の文化財をたずねて
(その二)

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