テキスト ボックス: 湯来温泉から一q近く水内川を下ると橋がある。この橋を渡って山道をしばらく上ると、家屋跡と杉林と化した田畑の跡が現れる。
かつてこの山麓には、谷川沿いに棚田や段々畑が広がり、見事な展望であった。田畑は十数ヘクタールに及び、約三〇戸百数十人もの人が暮らしていた。
昭和四十二年十一月、人々は共同墓地を造り、その中に「中倉部落先祖の墓」を建て、一戸を残して挙家離村した。
墓石の碑文には、「時勢の衰運抗し難く 中倉部落幾百千年来の歴史も漸く終焉近きを想う 我等この地に祖先の墓碑を建立し 子孫と共に永く供養の誠を捧げん 祖先の霊相集まりて鎮まりませ」とあり、伝来のこの地を去らねばならぬ痛恨の思いが伝わってくる。
まなこ閉じれば、町内一の生産地であったコンニャク畑を思い、広大な棚田の稲のそよぎを思い、点在した農家の様子も浮かぶ。
墓地の傍の家屋が在りし日を偲ばせるが、あの田畑はもうない。
元住民の元川さんにお話をうかがう。・・・お盆前の清掃には遠方からも都合のつく限りの元住民が集まり、共同作業をし、毘沙門天にお参りをする。なつかしさはひとしおであるけれど年々に老齢化して人数が減るのがさみしい・・・と。
毘沙門天にお参りし、そのいわれを聞く。天長年間、この南方に弘法大師が空山寺を開基され、五百年間高野聖の修道場となっていた。最後の聖がこの地に寺院を移して仏事を営む。聖の死後、当毘沙門天は仏体より神体に変身して中倉部落の守護神となり今日に至っている。鶏は、毘沙門天の神使百足が好物である事から、六百年の間飼われなかった・・・等々。
昭和五十一年十一月に、最後の一家の移転と共に中倉集落はその長い歴史を閉じた。
毘沙門堂は、氏子並びに信者の寄進により建て替えられ手厚く管理されている。周辺の雑草もきれいに刈取られていた。
                               (文化の会 小山武子)
湯来の文化財をたずねて
無人化した集落(二)
[中倉集落跡]
(その五)