村政や大水害復旧事業など郷土に多大の貢献をした
瀬川卯一(せがわういち)  

 瀬川卯一氏は現在の広島市安佐南区山本の人、瀬川素平の二男として明治6年(1873)5月6日に生まれた。
明治28年(1895)23歳で山本収入役に就任以来昭和16年11月迄、47年の長い年月(内40年間は村長)地方自治並びに産業開発に努力し、その功績が顕著でその筋より表彰を受けることがしばしばであった。
 その功績の大要は自治思想の啓発と民心の融和に大いに努力したことだ。
当時の山本村は山沿いの傾斜地で昔から交通が不便であったため産業は不振、林産物の搬出には非常に困難を伴ったので、瀬川村長はこれらの改修新設に努力し、村内縦横に里道を通し、交通機関はやや完備の域に達した。
改良された里道は延長6120m、橋のほとんどが新しく架けられ、これらの土木工事費は実に当時のお金で2万3,000余円にのぼった。
 東山本地域では灌漑用水に乏しく、年々旱ばつの被害が増え、昔から溜池用水4か所の設置をされていたが、なお不足するため、夏は旱害をまぬがれなかった。 
よって大正14年(1925)耕地整理組合を設立し、委員長に推されて終始努力の結果、遂に完成させ、東山本の耕地を旱害から救うことができた。
 氏の在任中、本村にとって最も不幸なことは明治38年(1905)6月30日及び大正15年(1926年)9月11日に続いて、昭和3年6月24日の前後三回に亘る西山本地域の大水害であった。
中でも大正15年の被害は人家の流失32戸、死者24名、流失耕地30町歩、河川の欠損埋没約3,600m、この復旧費は実に17万5,000円の巨額にのぼり未曾有の惨害となった。
当時は米1升が35銭であったことからも想像できよう。
戸数わずかに250戸の貧弱村として如何にしてこの復旧を図るべきや人々はただ茫然としたのである。
氏は村長として部下を指揮し、村民を励まし、万難を排して耕地の復旧整備や、道路河川復旧改修に自ら工事の陣頭に立って指導監督し、不眠不休の努力を続けた。
その結果、翌々年の昭和3年3月工事は完了し暫く愁眉を開いて明るさをとりもどしたのもつかの間、同年6月24日豪雨のため再び水害におそわれた。
折角3か年の汗とあぶらの結晶工事も烏有に帰し、前回に劣らぬ大被害となった。 瀬川村長はこれに屈せず〃天の試練なり〃と大いに奮起し、内務省と広島県庁との交渉に奔走し、村民を激励慰撫して先頭にたち、倒れて後止むの覚悟を以て努力し遂に大事業を完成させた。
 水害復旧工事は完成したが、山本川の下流長束村での水流が悪くて水害の憂いがあとを絶たなかった。昭和7年農村振興土木事業として巨費を投じて改修し、山本・長束両村の水流がよくなり治水の万全を期することができた。
 氏は資性謹直で人に接しては胸きんを開いて語り、頭脳は極めて明せきで頗る敏捷に手腕をふるい、難局に屈せずあくまでも遂行する熱意と努力と知力をかねそなえた郷土の偉大な恩人であった。
一村民曰く 「瀬川村長の顔を見れば明るくなり、万一瀬川氏が村政から退いたら村は暗くなる」。 まことによくいったものである。このように村民から慈父のように慕われた氏も、昭和19年12月25日72歳で没した。
勲六等瑞宝章の勲章に輝く瀬川村長の名は永久に朽ちないものである。                                   (祇園町誌)
                                                                               

 広島市安佐南区山本7丁目(平山八幡神社本殿への石段登り口右)には、村民により瀬川卯一氏の徳をたたえて、頌徳碑が建てられています。
  碑文は以下のとおりですが、これからも功績が顕著であった事がしっかりと窺えます。 また、近くの西山本川には上記の河川復旧工事で施工され、今も健在な全国的にも珍しい”三面石畳”の河岸も見ることができますので併せて散策されるとよいと思います。

 平山八幡神社前 

瀬川卯一翁の頌徳碑












瀬川卯一翁の頌徳碑(背面) 瀬川卯一翁の頌徳碑 碑文
  勲六等の勲章をいただいた瀬川卯一翁は、明治六年五月、素平氏(初代山本村長)の二男として生まれた、慎み深く厳格で、徳がそなわり上品で温和な人です。
  明治二十八年 収入役、三十三年 助役、三十五年 には 村長 に選ばれ、四十七年の長きにわたり村政(当時
山本村)につくして多大な業績をあげ、名声と人望は計り知れなく村民から慕われ尊敬されました。
  大正十五年と昭和三年の二度にわたる土石流による経験したことのない水害は死者二十四名、流失家屋十
数戸の被害を出し、惨状は目を覆いたくなるものでした。 翁はこの惨状を深く憂い、けつぜんたる行動で、救済に
心血をそそぎ河川改修の大工事をやりとげて、全村を水害の被害から救いました。
 また、国民学校の改築や農地の改良、車道の改修、ため池を造るなど業績は数えきれません。
翁は安佐郡町村長会長や広島県町村長会副会長等に推挙され、その職責を全うされました。
 昭和十三年に挙行された自治制発布五十周年記念式典では内務大臣より表彰をされて勲章を授与されました。
 さらに、かしこくも有栖川宮記念厚生資金事業に推薦され、高松宮家より表彰を受けられました。その他、海軍
大臣や広島県知事、全国町村長会長、帝国耕地協会長より功労顕著であるとして、表彰されました。本当にそれ
を受 けるだけの理由があるというものです。
  このようなことにおいて、村民皆で計画をし、碑を建てて徳をたたえ、功績を書きしるして永く後世の人々に伝
えることにしたものです。
              昭和十八年十一月三日  安佐地方事務所長  田村継一 撰文
頌徳碑 の解釈文
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