武田氏衰退のきっかけとなった
武田元繁と有田合戦

 永正14年(1517)武田元繁軍 と 毛利元就軍 との間で、現在の [広島県山県郡北広島町有田] において 「有田合戦」が行われた。
武田軍の総大将>武田元繁 は(広島市安佐北区可部町)の高松城主・熊谷元直、(安佐南区八木)の八木城主・香川行影、(西区己斐)の己斐城主・己斐豊後守宗端入道、(安佐南区伴)の伴城主・伴繁清 など、近隣の国人や重臣など約5000騎の大軍を従えた。一方毛利軍は約1000騎であった。
 この戦いの背景は次のとおりである。
当時の安芸・備後の山陽側は周防(山口県)の大内氏が支配しており、武田氏もこの勢力下にあった。
京都では将軍の座をめぐり争いが続いていたが、大内氏を頼って周防に逃れた 足利義稙(よしたね) を将軍の座につける為、大内義興(よしおき) は 武田元繁 をはじめ周防、安芸の重臣を伴い京都にのぼり再び将軍職に復帰させる事に成功し、政務を補佐し実権を握って京都に滞在していた。元繁らも同様、京都に滞在していた。
 一方、出雲の国(島根県)の 尼子経久(つねひさ) は 足利義晴 を将軍に擁立しようと企み、本国に帰って隣国を攻め従属させようとした為、陰陽でも騒乱が激しさを増した。
そこで、義興 は 安芸の守護として本国(安芸)に戻って騒乱の鎮圧をするよう元繁に命じた。
元繁 はそれにより帰国したのであるが、義興 の意に反し、以前より従わぬ国人を攻め威勢と領地拡大を図る行動にでる。
 その1つが 「有田合戦」である。
元繁 は先ず毛利方の 小田信忠 が城主の有田城を落とし、その後、毛利本家の都山城(高田市吉田町)を攻める策に出る。
当初、局地的な戦いにおいては一進一退であったが、武田の大軍に攻められた有田城は命運尽きたかにみえたが、援軍の元就の奇襲を受け 有田中井田 で 元直 が戦死してしまう。 これを知った 元繁 は「 元就 を討ち取って 元直 の弔いに」と総攻撃をかけた。 さすがに毛利方も敗走をし、武田方の勝利は間違いない戦況となった。
ところが、元繁は血気にはやり、自ら敗走する毛利兵を深追いし [又打川] を飛び越えようとしたその時、近くに潜んだ毛利方兵士の弓矢を胸に受け落馬し憤死してしまった。 また 、この戦で宗端 も戦死してしまう。
総大将を失った武田軍は戦意をなくすもの、決死の弔い合戦を挑もうとするものでまとまらず結局敗走せざるをえなかった。
 安芸武田氏はこの戦いの敗北を機に、承久3年(1221)武田信光 が初めて安芸の守護に任ぜられてから約300年にして、大きく衰退の道を歩むきっかけとなってしまった。
 その後、嫡子武田光和 が家督を継いだが、重臣 熊谷信直(元直の嫡子)や香川光影が武田氏を離反し毛利氏に従属するようになった。
光和は威勢を取り戻す為、同氏の城攻めや他の戦いにも奮闘したが、戦いのさなか天文3年(1534)33歳の若さで病没してしまい、これで安芸武田の正統が絶えた。後継に若狭武田家から 武田信実 を養子に迎えたが、天文10年(1541)元就に銀山城を攻められ、落城、滅亡してしまう。

                 < 有田合戦場所の地図 >                          
                                                           photo 2009/5

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