武田氏滅亡悲話-その1

毛利元就の策謀に敗れる/長楽寺の鐘と千足わらじ  (伝承)
 天文3 ( 1534 )年武田光和が病死し、若狭の武田家より信実を養子に迎えますがこのころより武田氏の勢力は著しく衰退していきます。これを機に安芸吉田庄(安芸高田市吉田)に台頭してきた毛利元就は武田氏の絶滅を図るべく戦を仕掛けます。 その際、堅固で難攻不落の [銀山城] に籠る武田氏 を攻めるには ”祇園・山本の大手側” は地形が険しく攻略が困難であると考えました。
そこで、武田山の搦め手側である ”安”方面から攻めることを考えました。 その場合でも味方の死傷者を少なくし、しかも確実な勝ち戦にする為に、さらに周到な戦略を練りました。
  元就は「毛利勢” が攻めてきた時は ”安” の人たちが武田方に ” [長楽寺] の鐘を鳴らして合図をすること」 になっていた 事を知り、 「毛利勢が来ても決して鐘を鳴らさぬよう」 諜略を行いました。
そして、さらにもう一つの策謀に出ました。 戦いの日、武田方城兵を城の大手側に引き寄せ、搦め手側から攻める為、農民にたくさんの ”わらじ” を作らせ、それに ”油を浸し” 闇夜を待って火をつけて、武田山(銀山城)から見える大田川上流より流させました。 それを見た 武田方は毛利の大群が大手側から攻めてくると思いそちらに戦力を移しました。
  一方、毛利方は主力軍を ”安” 側に集め、 武田山の搦め手側から登り、城の背後から攻めました。 
こうして安芸武田氏は毛利元就の巧みな策謀により総崩れとなり敗北、滅亡してしまいました。
もちろん、その戦いで 「長楽寺の ”鐘” が打ち鳴らされる事はありませんでした」

 この戦において ”千足のわらじ” が流されたという場所が広島市東区戸坂の大田川沿いに [千足] という地名で残っています(下の地図/写真をご覧ください)。

 <武田山(銀山城)と長楽寺・千足の位置関係は下図のとおりです> 
                         




[安(長楽寺)] 側から見る 「武田山」

[大田川(千足)] 側から見る 「武田山」

現在の 安 [長楽寺観音堂]

[大田川(千足)] 上千足 から 下千足 を見る

                                                                                      photo 2009/1

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