陰徳太平記にみる
武田光和 伝説 T
武田光和 < : 1507-1540 他に(1501-1534)、(1503-1536)説もある
刑部少輔 武田太郎判官 安芸守 9代当主 父は武田元繁 妻=八重女(吉川元経の娘)
武田光和 は父の元繁と同様に親尼子氏を貫き、大内氏や毛利氏と戦う。 大永二年(1522) 大内義隆の大軍が来攻して、広島湾の府中城、仁保城、更に太田川の新庄や山陽大路の大塚まで攻撃をかけ、大永四年(1524) には大内義興の3万と銀山城下で大決戦を展開する。急を知った尼子経久の援軍もあり、光和はこれを敗走させた。
その後も、反大内方を支援するなど積極的に活動するが、武田氏の衰退を止めることが出来ず、ついには熊谷信直が毛利元就から可部の土地をもらた事などから武田から離反したので、 光和は三入高松城の熊谷氏を攻めたが、落城せず撤退する。 再度攻撃を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子無いまま急死して安芸武田氏の嫡流はここに絶えた。 死後、若狭武田氏から 「信実」 を養子に迎える。
武田光和は若くして病死してしまうが、武勇に優れ、 『陰徳太平記』 には以下の伝説が記されている。
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光和は文亀二年(1502)3月3日に生まれたが、生まれた時すでに、33枚の歯が生えていたといわれ、また三日目まで産声をあげないので心配して、宮島の神主を招き、おはらいをしていたら、初めて大声をあげて泣いたということである。
光和の死んだのは天文三年(1534)三日で三三才ということであるが、成長したときの身長は7尺あまり(2.1m)もあり、眼は逆さに裂け、顔にはたくさんの毛が生えており、きわめて大力で、鉄の弓を用いていた。
また銀山(武田山)へ登る道に大きな岩が出ていて馬が通るのに不便であったが、6、70人の人夫の力でなくては、とても動かすことができないので、大昔からそのままになっていたが、光和は自分の力試しにといって、この大岩を軽々と谷底に転がしたと伝えられている。
広島市安佐南区祗園の帆立に現在残っている俗称「いぼ地蔵」は別名「投石地蔵」といい、その石は光和が武田山から投げた石であると伝えられている。一説によると、これは神社の力石であったといわれている。
その地蔵尊のそばに1本の松があるが(昔は3本)、この松の葉で人の体にできているいぼをつくと、いぼがとれると伝えられ、往時は枝の松葉はほとんどもぎとられ、手のとどくところには1本も無かったと古老は話している。
引用文献 : [陰徳太平記]を要約した 「祇園町誌」 より
大内義隆が銀山を攻めたとき、光和は自分の勇を誇り、常に足軽の中に混じっていて、敵を数多く討ち取っていたが、いつの間にか大内方に知れ、なんとかして彼を取り押さえようということになり、若杉四郎三郎という、その頃中国地方に相手がないといわれた大力の者に、その弟で、これまた兄に劣らぬ強力であったものをつけ、更に大黒新允といって大力ある男と、義隆の近習中の打物達者といわれていたものをも加え、光和と組み合うところを手早く突き殺そうと計画した。
光和はかくと知ってか、知らずか、その日も足軽に混じって盛んに敵を打ち取っているとき、大内勢は偽って退却し、しばらくして急に大勢で打って出たので、武田方は退却を始めた。その時光和はただ一人味方におくれて退却していたが、若杉等が、ただ今退却しているのは光和公であろうとののしったので、光和が怒って引返すと、若杉の弟が一番に打ってかかった。しかし光和が大太刀をもって彼の胃を強く打つと一たまりもなく死んでしまった。光和は、続いて寄って来た兄の若杉をつまんで宙に差上げ、後ろに続く大黒に投げつけると、2人共死んでしまい、残る1人もひるむところを一太刀で斬り落とした。光和の持っていた太刀は、備前一文字で3尺(1m)余りもあったということである。
『 陰徳太平記 』 : 広島市安佐南区八木の [八木城主 香川氏] の末裔である香川景継が父 香川正矩 (岩国藩 吉川氏の家老) の陰徳記
<未完>を 引き継ぎ執筆をして 「陰徳太平記」 として纏め、享保2年(1717)に出版。
内容は軍記が主で主家の毛利氏、吉川氏に都合よく脚色された部分が多いとされているが、
事実やそれに近い事柄も多く含まれて いると考えられ、地方史の編纂などにも参考にされている。