陰徳太平記にみる
武田光和 伝説 U 
                                              
          その 4 

 当時佐東郡に古い文珠堂があり、そこに化物がいて、人を化かすとのうわさがあった。光和はこのことを聞き、きつと古狸どもにちがいない、だれかその狸を捕らえてこいと言うと、近習の青木某と言う者が、承りましたと、その堂に行ったが、散々に化かされて、人ごこちも失ってしまった。光和はこれを聞いて、よし俺が生捕ってやると、一族の者がとめるのも聞かず、ただ一人その堂に行き、ふけわたる夜空のもとに心を澄ましていたが、そのうちなんとなく胸騒ぎがしだしたとき、年のころ六、七○ばかりの盲人がひとり、杖をついて、袋を負うてやって来た。光和は、さては化物かと目をはなさないようにしていると、「人の音がしますがだれかいますか」という。光和は「盲の坊さんはどこの人か」と尋ねると、「厳島の者で、このごろの暑さに、貧しい粗末なわが家は暑苦しいので、夜々はこの堂に来て涼を求め、昼はこの里の人に歌を聞かせて生活をたてている者であるが、まだ武田のお侍の中には、一人の知り合いもない、しかしあなたの物のいい方や態度は、ただの人とは思われない。」といった。光和は、盲人の持っている袋の中にある琵琶を見て、「平家物語を一つ頼む」というと、やがて盲人は、琵琶を弾じて朗々と平家物語を詠じ始めた。その上手さに、光和はすっかり驚き、ただの人ではない、化物などとは考えられないと一時は思った。しかし、人をだますほどのもの、油断はできぬとも思い、また一方では、もし斬り殺したき、真の盲人であったら、光和の名にかかわるも考え、これは一つ引捕えてやろうと詰め寄って組みつくと、盲人は悲しい声をあげ、自分は盲人であるから命が惜しいとは思わぬが、りっぱなお侍が、この不具者を捕えてなにするかといったので、さては真の盲人か、あわてた事をしたものだ、世の人に笑われるに違いない、いっそのことしめ殺そうと思うと、盲人は、「情無いことをお考えになる」といった。自分の考えていることを早くも見抜くとは、さては間違いなく化物だと、力任せに首をしめると、七転八倒し、血を吐いて死んでしまった。夜が明けてみると、やはり古狸で、背中には一本の毛もなく、二歳の子牛ぐらいの大きさであったと伝えています。


          その 5

 光和が死んだときは、黒雲が空中にたなびき、屋敷の上をおおい、雲の中によろいのすれ合う音、刀と刀のかち合う音、馬のくつわの金具の鳴る音がしたといわれ、その後の銀山は大魔所となって奇怪なことがたびたび起こった。六、七年して毛利元就が、山県筑後守に命じて、光和が平素住んでいた家を壊させるために、力者三人を連れて家に入ったのに、筑後守はあっといって倒れてしまい、力者三人も倒れてしまった。また庭にいた者が驚いて筑後守の手当てをすると、彼は生きかえったが、力者三人はついに死んでしまったということである。筑後守は、この事についてその後沢山の人から尋ねられたが、だれらも決して話さなかったということである。
 その後念仏の僧がひとり、この山のふもとに通りかかり、農夫らから武田山の怪しい話を聞き、これは光和が最後の悪念により、永く往生できず、修羅道に迷っているのに違いない、たとえいかなる人でも、仏の力によって救われないことはない、と、山頂に草のいおりを結び、絶えず念仏していたが、光和は、ある時は老翁となって現われ、あるとき美女や童子になって現われ、夜な夜な僧を悩まし、「上に貴ぶべき諸仏もなく、下に救うべき人々もない。念仏など唱えていったいだれを救おうとしているのか」、と問うので、この僧は少し返答に困っていると、光和は、「念仏無問」と言い、私の声が汚れる、早く下山せよ、と迫ったので、この僧は力なく山を下り、このことは深く隠していたが、その弟子の一人が還俗して皆に話したので、一般に知れたということである。後また、日蓮宗の僧がひとりこの山に登り、法華経一千部を読誦し、その菩提を弔ったが、ある時、光和は、あし毛の馬に乗り、空中から現われ、かの僧に向かい、「一切のお経はくそを拭う紙、三世の仏はくその中の虫である。そのきたない紙の中の字を読んでなにになる、そんなことやめて、歌でも一つ歌え」といったのでかの僧は、自分は三十年余りお経を読み、いろいろの功績を積んでいる者だ。もしこの功力が空しくないものであるならば、一魔性のものを退れたまえ、と諸仏に念んじていると、その験であろうか、化生の者は雲路をさしてのぼったという。これから後も、武田山はたびたび怪しい事が起り、木こりも、炭焼きも、山に近づかないようになつたということである。
 しばらくして後、こんどは禅宗の僧が道に迷ってこの山に通りかかり、松かげに、岩を枕にして寝たり、ふじつるの間かにらもれる月の光ゃ、かすかに聞こえる谷間の水音に心を澄まして座禅したりしていると、急に空が曇り、雨が一しきり降り、松風が木の葉を吹いてものすごく、胸騒ぎを感じていると、やがて山も崩れるような大きな音がした。この僧も恐ろしくなって、「魔界仏界同一如」と念じていると、年のころ三十余りの大の男が、鎧を着、鉄の弓を持ち、鉄の矢を負い、あし毛の馬に乗って飛んできて、その後に同じく四十ばかりの男が、八尺ばかりの金棒と大まさかりを左右に持ってついてきた。二人が物をいうのを見ていると、口から火を吐いており、主と思われる男が「小河内」と呼ぶと、「はい」と、六十ばかりの頬にひげの沢山生えた老人が大地から湧き出てきた。主人らしい男は、「これにお客のお坊さんがおられる。おもてなしを。」というと、「承りました」と、湯玉の湧きかえる熱鉄をちょうしに入れ、鉄の杯を添えて持って来た。そして、僧に向かい、「宗門には熱鉄を飲むの句がある。貴僧に一杯おすすめしょう。」先ず試みに、自分が飲んでみせようと、三度杯を傾け、その後また言葉わつづけた。「われは、生きていたときは、武田判官光和といっていた。最後の一念によって修羅道に入り、魔軍八万四千を率いて天下の争乱を起し、仏法をあだとなし、猛火をもってすべての寺を焼き尽くそうとしている。達磨大師九年の修行ですらどうもすることはできない。ましてこのごろの一僧においてなにができるか。形は僧に似ているが、心は鬼の如く、身に法衣をつけているが、心は俗塵に染んでいるではないかと、口から出まかせの暴言をもって仏をののしり、仏は太平の世の中のかん賊であり、釈迦は乱世の英雄であるなどと勝手なことをいい、このような不都合なものがどうしてわれを降伏させることができるか」と、いいも終らず、一口に食おうと飛びかかったが、忽ち大かつ一声して、「通心無影像」と叫んだその一瞬、光和は合掌して、なにか唱えつつ、跡かたもなく消え去った。この僧は、これはまことに不思議なことであるといい、ここしばらく、とう留し、光和の霊を弔った。その後このことを武田のゆかりの人たちに語ったので、これらの人々は、やがてこの僧を供養し、千部の径を書写し、この地に埋め、千本そとばを造って、追福を祈ったので、光和の怨霊も、ようやく静まったと伝えられている。

           

                                            引用文献 : [陰徳太平記]を要約した 「祇園町誌」 より 

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