安芸武田氏の末裔
周防武田氏 
 
 安芸武田氏の 武田光和 は正妻(八重女)との間に嫡子がないまま、天文9年(1540) 33歳の若さで病没した。
後継者として、光和 の甥 信重 (光和の妹婿 繁清の子<繁清=伴城主、別名 伴五郎>)と若狭の 武田信実 の案があったが、結局、 尼子氏や重臣たちの推挙した 信実 を養子に迎え家督を継いだ。が、その時、重臣 品川氏らの「毛利・熊谷氏に対し直ちに”元繁”光和” の弔い合戦をすべし」という強硬派に対し、八木城 主香川光景らは「一旦 毛利氏と和睦し時を見て合戦をすべき」と主張したが、受け 入れられず、重臣間に決定的な亀裂が生じた。その結果、香川光景は武田と袂を別ち、毛利よりの行動をとることになる。
 その香川光景 は、光和の愛妾との間に生まれた小三郎を安芸武田氏の後継にし、銀山城主となるよう 毛利元就 に助勢を求めた。 助勢の約束した元就は天文9年(1540) 一旦、小三郎と八重女を「玖珂」に住まわせ、翌年の天文10年(1541)、元就 は銀山城を落城させ た(香川光景は毛利方として参戦)。 信実は尼子氏を頼って敗走し、再び安芸に戻ることは無く、ここに安芸武田氏は滅亡した。
 しかし、小三郎を城主に迎える約束は果されなかった。その後、成人した小三郎は元就に仕え身辺の護りや戦の案内役なに勤めた。 やがて小三郎は入道して「宗慶」と名乗り周防武田氏の祖となった。
 時代は過ぎ、文政元年(1818)12代 「武田宗左衛門」は、文武両道の 「稽古屋敷」 を設け、郷士の子弟などに文武を教えた。 これが明治時代の、「中野小学校」の前身となる。
 周防武田家は、小三郎以来、玖珂の武田屋敷に376年間居住し、江戸、明治、大正と、町の教育の振興に力を尽くされた。
 その後、大正6年、16代 「武田甲斐人」氏のとき、広島県呉市に移住して、現在の「呉武田学園」の前身「大正中学校」を創設し、 稽古屋敷創設以来、今日まで代々190年間も育英事業にあたっておられる。

☆ 武田屋敷 山口県岩国市玖珂町
    武田屋敷は 「玖珂町」の欽明路峠欽明川 沿いにある。 現在は廃家となっているが、旧正門、白壁の塀
   が残っている。
    その旧正門を入ると右側に、「 文政元年 稽古屋敷創設之地 創立者武田宗左衛門 」 と書かれた石碑
   や井戸がある。 

☆ 武田氏の墓所・墓石
    屋敷の旧正門を入ると左奥に、「武田信宗」、「光和」 の墓をはじめ、比較的新しい現代までの代々の武
   田家の墓が並んでいる。さらに奥に進み緩やかな裏山の墓所に、「小三郎」、「八重女」、「光信」 などの
   墓がある。 

☆ 武田氏の菩提寺「欽明寺」
    武田家屋敷から数百メートルの位置に所在する。
    欽明天皇(540−571)が九州地方を平定し御幸の際、宿泊された縁で、欽明の名をいただいて寺名とし
   たといわれる由緒ある寺で、周防武田氏の菩提寺である。境内の墓地には武田光和の供養塔がある。 

          ( 以下の写真をクリックすると拡大写真が見れます )

Photo 2008,7

       <参考>  ☆ 周防武田氏の本拠地  : 周防武田屋敷 <現在の地名で> 山口県岩国市玖珂町
             ☆ 安芸武田氏の本拠地 : 安芸銀山城   <現在の地名で> 広島市安佐南区祇園(山本)  

             ☆
周防武田氏の系図を見る(ここをクリック
             ☆
安芸武田氏の系図を見る(ここをクリック

                           参考文献:
                                                           HP 山陽道25関戸〜高森
                                                 
          学園創設180周年「呉武田学園」誌
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