足利尊氏自筆と伝わる「揚柳観音(尾喰寺)」の
扁額 / 「大悲殿」 
 
 広島市安佐南区西原6丁目に京都の六角堂を模して大正4年に再建された一風変わった外観の「揚柳観音(尾喰寺)ようりゅうかんのん(おくいでら)」がある。
 創建は室町時代初期、「承久の乱」で功績をあげ、安芸の国の4郡(安南・安北・佐西・佐東)を賜り、国司として赴任した「武田信隆」に深く係わりがある。

寺の案内説明を
 同寺の「案内板」を掲載し代替する。                                       「揚柳観音(尾喰寺)」


 このお寺(お堂)には案内板にある[楊柳観音像]、足利尊氏直筆と伝わる[大悲殿]の扁額、安政4年(1857)と大正4年(1915)に再建されたことを記された[棟札]などがある。

扁額「大悲殿」について

 「西原今昔物語」によると、
『楊柳観音には、「大悲殿」と墨で書かれた額が保存されているが、これの由来について木村家古文書を要約すると次の通りである。
 「或る日、空仁上人が木村家を訪れた際に足利佐衛門慰鎮守府将軍の直筆と称する(大悲殿)と書かれた扁額と仏画の掛物を木村家が載いた。
その後この扁額と仏画は西原村の尾喰寺、楊柳観音へ奉納した。」とある。
 なお、口伝によればこの扁額は、足利尊氏の直筆であると言われているが、真偽は明らかでない。
一説によれば、南北朝時代の武田氏は暦応という北朝方の年号を用いる等、北朝方の足利尊氏に味方していること、及び銀山城を築いた信宗の子の信武は足利尊氏の姪を妻に迎えていると言われていること等から、足利将軍の直筆と言われる扁額があっても不自然ではない。』
 と記されている。


                                                           [大悲殿]      phot 2009/9
                                                                             HP掲載に同寺総総代ご協賛
                                                                    参考文献 : 「西原今昔物語」 
                                
           
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