下の系図は <源氏・武田氏> の系図である。
 系図に示すように、武田信隆(のぶたか)は[承久の乱]において功績があり、承久3年(1196)初めて、安芸の国の守護職に任命(甲斐の守護職も兼任)された武田信光の息子である。
 武田信隆に関する史実は現在のところ古文書などでは確認されていないが、広島市安佐南区西原の[楊柳観音]に関する伝承や[長楽寺由来記]などでは、弘安6年(1283) 甲斐の国から 安芸の国4郡(安南、安北、佐西、佐東)の地頭職を賜り、安芸に下向したとある。また、安<やす>(広島市安佐南区高取北1丁目)の[光明寺]には正安2年(1300)に信隆が寄進した[鰐口]が保存され、これには寄進日の年号や姓名が明確に読み取れる。
 泰継 に関しては「熊谷家文書」や「東寺百号文書」などに登場し、在国司や、佐東郡地頭職の地位にあったことが確認されている。また、領民の田畑を取り上げたり、三入荘(安佐北区可部町)の熊谷氏とも争ったこと、三田新庄(安佐北区白木町三田)の所領紛争の時は鎌倉幕府の命を受け、使節として境界の検証を行なうなど、守護的な活動がみられ守護代であったのではないかともいわれている。                           
                                         参考文献:「安芸武田氏」祇園公民館 

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