安芸武田氏ゆかりの
神社 と 寺院 
  広島市内にある安芸武田氏ゆかりの寺院を紹介します。                                  
ゆ か り の 寺  院 その1
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 1〜15 仏護寺と龍原12坊             別 記
   
ゆ か り の 寺  院 その2
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 16 立專寺 

 
 この寺はもと禅宗で、武将山金龍院といわれ、銀山城主武田氏の香華院(祈願所)であった。 当時は武田氏より寺領15石余りの田地を寄進されていたが、武田氏の滅亡後寺院は荒廃し廃寺となった。
 天文4年(1535)に僧正春が真宗に改宗して、武将山立専寺として再興した。 
 入母屋造りで、明治35年(1902) 改築された。
また、山門の鐘楼台は古く、当時の禅宗の名残りを残した建物として貴重。
境内の松の枝振りは見事で平成17年3月、広島市保存樹に指定されている。
 17 歓喜寺 


 歓喜寺はもと感神院と称し、元慶8年(884) 僧 宥尊 が開基、松尾山徳達寺といわれていた。 天正11年(1583)安神社(当時は祇園社と呼ばれていた)境内に移されたが、明治3年(1870)の神仏分離令によって、翌年に今の場所に移され、瑞城山歓喜寺と改称された。  近くの墓地にはもとの感神院墓地から移された武田氏に係わりのある武士たちの五輪塔墓や高位高僧の住職の墓が多数ある。
 なお、現在の場所は武田氏の時代、銀山城の出城があり米庫を設けて兵糧を貯蔵していた所であるが、当時、平員家の銀山城攻めにあい出城は焼失している。
 18  いぼ地蔵
 
 そばに生えている松(昔は2本あったが現在は1本)の葉で、いぼを突くといぼが取れたと言われるので、いつの頃からか 「いぼ地蔵」 として信仰されるようになった。
 またの名を 「投げ石地蔵」 と言われる。
室町時代後期、銀山城主の 「武田光和」 が大石(99cm×49.5cm)を、武田山からここまで投げたといわれ 「武田の投げ石」 と呼ばれていた。その後、この石を「地蔵」として祀られたのが始まりである。 
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 19 楊柳観音

  
 弘安6年(1283) 甲斐の国から 「武田信隆」 が安芸の国主として4郡(安南、安北、佐西、佐東)を賜り、安芸に下向の途中、近江の国の鬼怒川を渡ろうとした時、馬の尾に食いつくものがあるのでよく見てみると甲斐の国に残しておいた武田家に伝わる「楊柳観音」であった。 信隆は大変喜び武田山山麓の粟原(現在の青原)に堂宇をつくりこれを安置した。 しかし、暦応3年(1340) の平員家により銀山城が攻められた時お堂は焼失したが像は難をのがれた。  一旦、金蔵寺信重の屋敷で保管されたが応永16年(1409) 現在地にお堂が造られここに移された。 これをもって 「粟原山尾喰寺楊柳観音」 と呼ばれるようになった。 
 20 教徳寺

 
 大日本図録によると、銀山城(武田山) 第9代城主 武田光和 の遺児(元和と伝えるが史実不詳) が帰依し剃髪して僧となり永禄3年(1564) 創立したと記されている。 <明応7年(1498) 僧 教珍 の開基説やもっと古く、室町中期のころとの古記録もある。>
 当時は天台宗であったが、元禄7年(1694) 真宗に改宗された。
いずれにせよ、同寺の過去帳付記からも武田氏との因縁はかなり深いようである。
 21 鶏頭原薬師堂

  
 武田氏の時代 鶏頭院 と称し銀山城主 武田氏 の祈願所で当初、相田村の北上安にあった。
 武田氏が天文10年(1541) 毛利元就によって滅ぼされた後は衰退した。
後に伊予(愛媛)河野氏の一族野村氏により現在地鶏頭原に移設された

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 22 光明寺

 
 古くから武田家との係わりが深かった。 特に、銀山城主 「武田信光(1162〜1248)」 の時、鬼門鎮護 (鬼が居ると言われる方位からの災難を除ける) のお寺(当時は 円妙院 と称した)として崇敬されていた、と諸伝に残されている。
 以後も代々かかわりが深かったと考えられる。 正安2年(1300)には 「武田信隆」 が 「鰐口(わにぐち)」 を同寺に寄進しており、それが裏付けされる。  「鰐口」 は今も寺宝として大切に保存されている。
 23 長楽寺(観音堂)

   
 延喜5年(905)に僧 覚円 により密教の真言宗の霊場として開基されたのが始まり。
 弘安6年(1282) 「武田信隆」 が当地の地頭となった時、寺領24貫を寄進して祈願所と定めた。 駐屯武士を配し銀山城北部の警備と民心の収攬に努めその威信益々高かった。 
武田氏滅亡後は毛利元就の支配下に移ったが、毛利氏から寺領として200石が与えられ、祈願所にもなったので寺運はますます隆盛した。 しかし、関が原合戦で敗北した毛利氏が長州に移封され、新たな領主として入国した福島正則によって、寺領全てが没収されたので寺は衰退した。 二王門は二王尊と共に厳島に移譲され七堂伽監は維持困難となって遂に廃寺となった。
 しかし、最後の住職 優仙(ゆうせん) が長楽寺境内に 「観音堂」 を造営、現在に至っている。
 24 毘沙門天

   
 本尊毘沙門天王は多聞天と言われ、仏法の護法神四天王の一尊で、北方を守るとされている。
ご本尊は治暦元年(1065)頃 僧 教尊 が当地の霊山に安置したと伝わる。 
 その後、銀山城主 武田氏が代々北方守護神として崇敬し、僧 覚信坊 を 請し願成寺を造営、さらに7ケ寺(三京、豊用、東明、西明、光林、玄道、神宮の各寺)も造営している。
この内、願成寺 は毛利氏が広島城を築くとき広島に移築され、毘沙門堂、仁王門、東明寺、西明寺、のみ残った。 
 祭礼は毎年旧暦初寅の日とその前夜に行われる。
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 25 福王寺

   
 福王寺は可部町の平野を見渡す山頂に建立された真言宗の寺院である。 弘法大師の開基といわれている。 一時は麓や寺の近辺に48宇の 僧舎があったが、後荒廃したようである。  正和4年(1315)河内の人である 禅智上人 がこの地にやってきて 「 武田氏信」 の強大援助のもとで高堂を再建、さらに、大師影堂などの諸堂を建て寺領も寄付され再興が図られた。
その後も、所領の寄進や安堵が相次いで行われていることも古文書に残っている。 「武田信在」 などは福王寺院主職を安堵するなどの行動もみられ、密接な関係が保たれていたようである。
寺には武田氏に関する古文書も多く存在し、境内には [武田氏信の供養塔(五輪塔)] もある。
26 不動院


 不動院の前身は足利氏が国ごとに設けた安芸国 安国寺と言われる。 銀山城主武田氏の保護のもと栄えたが武田氏滅亡とともに寺運も傾き衰退したが戦国期に毛利氏の使僧として活躍した 「安国寺恵瓊」 により再建された。
安国寺恵瓊は天文10年(1541)毛利元就の軍勢に破れ戦死した 「武田信重」 の一子4歳の 「竹若丸」 が安国寺に逃れ、京都の東福寺などで修行を積み、永禄12年(1569)安国寺の住持となる。
 この竹若丸がのちの安国寺恵瓊と言われている。
不動院の名は恵瓊後の 有珍 の代で真言宗に改め寺号を変更したものである。
寺の墓地には恵瓊による [武田刑部小輔の墓]
が建立されている。
27 順正寺


 本寺院は武田氏に深く関わりがある。 武田重信が室町時代の天文5年に開基しており、以来、武田家が相続し、17世の現在に至っている。境内端の墓碑には16世歴代住職の名が全て刻まれている。  なお、天文5(1536)年といえば武田信玄が16歳で元服した年であり、安芸国では武田光和が活躍した時期である。その時代の開基(今から484年前)であるから歴史の古さが計り知れる。 寺は城跡に創建されたもので、石垣、塀など立派で他にも武田氏に関わる威光が各所に垣間見れる

  

                   photo 2020(R2,7)    
                                          
      photo(1〜26)  2009(H21)   
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  参考文献: 祇園町誌 寺院案内版
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