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「影面の道」とは陽の当たる山稜南面の道のことを指し、歴史的には畿内から中国地方を経由し九州の太宰府までの、古代山陽道の古称のことをいう。因みに山陰道は山稜北面の意味の「背面の道」(ソトモノミチ)という古称で呼ばれていた。7世紀後半の対外情勢の変化に伴い、西海道警備と外国使節の応接のため、朝廷が唯一の大道として認知した国家戦略上極めて重要な道であった。 古代山陽道は当時まだ海中であった現在の広島市中心部を迂回し、安佐南区を経由して石内地区を通り八幡地区へとつながっていた。現在の山陽自動車道とほぼルートが一致し、古代人の眼識の高さに驚嘆すると同時に、九州を最短コースで結ぶ「外交の道」であったことを示す。現在の自動車道のような直線的な道ではなく、当時の海岸線に従って内陸部に入り組んだ設定がなされた。中でも安芸国では峠越えや川渡りなど難所続きで、道幅は極めて狭く馬が通れるほどの幅であったと推定される。 古代山陽道には約17キロメートルごとに「駅家」(ウマヤ)が設けられ、畿内と西海諸国へ情報伝達の便宜が図られていた。因みに八幡地区の利松付近に「大町駅」があったものと考えられ、古代佐伯郡の中心の「佐伯郡家」も置かれていた。当時の交通事情や社会状況を考えた場合、往来する人々にとっては苛酷な道程で、自動車一台も通れない古道を歩き古代人の苦労を想像する。 |