地名は人間がつけたものであるが、人が土地を離れては生活できない以上、
地名も自然的なものと、人間的なものの二種類がある(東皓伝)
 



 (1) 熊 崎

 (2) 砂 原

 (3) 矢野東

 (4) 田 中

 (5) 花 上

 (6) 立 田

(7)  

 (8) 北 尾

 (9) 月が丘

(10) 観 音

(11) 田 丸

(12) 宮 下







(1) 熊 崎


「くま」は隈(くま)、川の曲がって入りくんだ所。「さき」は先き。矢野川の下部で、曲り角のでばった地。左岸の砂原に対する位置にある。
洪水時には水の乱流が心配された地形だった。明治40年の「大流れ」では洪水の直撃を受けて多くの死者を出した。
熊崎通りから「恋の裏道」「ひげ納屋」節は消えた。
原通りを避けて矢野小の通学路となっている。矢野川に第1~第4熊崎橋が架()かる。



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出合橋より第4熊崎橋を画く

(絵:長船布施夫氏提供)











(2) 砂 原


東川(矢野川)の河道沿いの砂州(すなす)による地名。
砂原通りは古くは黒瀬街道、昭和41年まではバスの通う県道であった。
矢野の公益・公共施設のほとんどは、この通りに集中していたが、残るはただ矢野公民館だけとなった

かつての矢野の役場、郵便局、巡査派出所(交番)、農協などの所在地は忘れられてきた。







なつかしのボンネットバス

(昭和10年代 矢野町砂原通り野島醤油前より)











(3) 矢野東


東は日の出る方角。東迫を最近は矢野東町内会というようになった。
野間氏の矢野城の鬼門除(きもんよ)けの愛宕(あたご)社は、また権現(ごんげん)さんとも呼ばれる。
矢野八勝の1つ。古く桜の名所で知られる。愛宕橋を参詣口にして、1丁、5丁などの丁石が残る



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昭和46年、山火事で焼失後、再建された愛宕権現











(4) 田 中


屋根や丘陵が西に突出した間に、田中・立田がある。容易に水田化された位置にあり、地名となった。
田中は、熊崎川を境に熊崎と隣りする。古くはコノシロの幼魚名にちなんで、つなし(川)といった
熊崎田中の薬師さんと親しまれてきたお堂(一畑薬師)があった。



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丘陵地(片平の丘)に立つ2体の地蔵尊











(5) 花 上


2つの丘陵(西尾山・山田山)のはな(鼻・端)の上(かみ=うえ)に開けた集落が、はながみである。
鼻上を美化して花上とした
矢野の東北部の丘陵地(花上・北尾・西崎)は、古代文化発祥(はっしょう)の地帯である。
今もわずかながら遺跡を残している。花上薬師堂を上(かみ)下(しも)の講中(こうじゅう)が祭る。
お薬師さんは、花上の精神統合のよりどころである。



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講中の汁器(じゅうき)の箱書(はこがき)











(6) 立 田


立田(たてだ)は文字どおり「田を立てる」の意。
新地(現在・真地)・田中・山田(花上町内会)・神田(宮下町内会)など、開発にかゝわる地名は多い。
矢野町は保育・幼児教育に熱心であった。広島市立矢野中央保育園のルーツは、香川スミさんの矢野町保育所。
昭和31年、矢野町に移管され、字(あざ)立田1608番地の現在地に開設された。







保育園入口に架()かる「ぴよぴよ橋」(保育橋)











(7) 鯨


矢野の東北部の丘陵地(花上・北尾)の下手(しもて)は、中世・野間氏時代の前は海岸線だった。
「昔はくじらが入って来た」と伝えられる。スナメリ鯨(全長1.5メートル)の類(たぐい)であろう。

町中の田んぼは、昭和40年代にすっかり姿を消した。
しだいに一帯は市街化して、同48年鯨の丘陵地は「北尾」に分離(独立)した。




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昭和42年。中央の角地(かどち)は矢野町役場
(現在・安芸区役所矢野出張所)の新地(さらち)











(8) 北 尾


お(尾)は、山の裾(すそ)が伸びた所の意。北尾・西尾がそれである。
なお西崎(さいざき)熊崎などの「さき」(崎)は、突き出た山の尖端の意である。
矢野の東北丘陵地(北尾・西尾・丸古・西崎)から、多くの文化財が発掘され、
「矢野の曙(あけぼの)の地」にたとえられる。(矢野公民館1階ロビーに資料を展示)




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北尾横穴式古墳。月が丘町内会集会所・月が丘第一公園(矢野東3)の下手











(9) 月が丘


団地名が町内会名になっている例は、幸崎団地(矢野東2-1)にもある。
月が丘は新宮社(廃社)にちなんで、新宮(しんぐう)団地と仮称していた。
のち、月が上る丘をイメージして「月が丘」と呼び名された。
名にしおう西崎古墳群が散在した丘陵は姿を一変した。(矢野中学校玄関口に、舟型石棺(1基)が置かれている)




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矢野東3-9(現在、CO-OP・生協ひろしま)より、新宮社跡と月が丘団地を遠望











(10) 観 音


観音は、観音山―観音谷の親子関係にちなむ地名。
開発が進むにつれて、人間の生活は、山林・原野から田畑(でんばた)・住宅地へと移っていった。
観音・西崎の新開地は、海田大新開に隣り合うー大水田地帯、矢野の穀倉地帯であった。
田の割りは、そっくりそのまま街区となって残っている



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昭和58年に再建された観音谷観音堂











(11) 田 丸


昭和28年、田丸一眞町長を顕彰(けんしょう)して田丸町が誕生した。
尾崎樋門(ひもん)筋(市道・尾崎線)に並ぶ、木造平屋建25戸の町内会

矢野川をはさんで、北に矢野東一丁目(田丸町)、南に矢野西一丁目(大浜)がある。
国道31号・熊野別れ付近に広がる新興地に2棟の高層マンションが建った



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昭和28年ごろの「町営田丸町住宅」
河口にかき筏(いかだ)が並ぶ。遠方は黄金山(広島市南区)











12) 宮 下


宮下(みやげ)は社寺(神社・寺院)のうちの社にちなむ地名。尾崎神社の「鎮守の森」の下に位置する。
お宮の付近には、宮下・八幡(やわた)の町内会名のほかに、宮の畝(矢野西小)・宮脇(矢野町商工会)・
宮崎(八幡町内会)・神田(かんだ・宮下町内会)の地名が伝わる。

姫宮・祇園・稲荷・天神・観音・荒神・住吉など、矢野には多くの社寺にちなむ地名がある



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宮下町内会のもう1つのお宮、山王社


 文:発喜会 楠 精洲


■矢野公民館だより、平成19年(2007年)4・5月号

              ~平成20年(2008年)4月号記事からの再掲


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