地名は土地の呼び名である。人びとが自分たちの必要に応じてつけたもので、
そこには地理的・歴史的・社会的生活の全体が含まれている。(東皓傅)
(1) 本 町
(2) 錦 町
(3) 新 町
(4) 中 浜
(5) 大 浜
(6) 八 幡
(7) 大 井
(8) 髙下谷
(9) 稲 荷
(10) 祇 園
(11) 西 条
(12) 姫 宮
矢野のあいさつ言葉に、「町へ行く」があった。元禄時代(江戸)矢野村は地方(じかた)と町組(まちぐみ)に分れていた。
町組は矢野村「矢野町」だった。町筋(本町通り)に、47軒の町屋(まちや=商店)が軒をつらねていた。
銀行が去り、かもじ屋が廃・転業し、商店が姿を消した。残っていたのは、大正7年(1918年)開設の矢野青物市場のみ。
市場の2階に終戦時まで胡社が祭られていた。
(廃)矢野青物市場(築90年)
大正4年(1915年)、裏町を嘉称(かしょう=よい名)して、錦町に改名。
うら町は、本町に対する「裏町」、またかつての海辺の町にちなむ「浦町」であった。
矢野村の農業離れによる宅地化は、本町・裏町を軸に新町が伸び、これに中浜・中町が交差する形で進んだ。
煙突の見える風景(本町より裏通りの日之出湯を望む。
尾崎神社の「鳥居前通り」は、中浜・中町通りと交差し、本町通りにつらなる。
(神社前に発達した本町筋は、江戸時代の「宮の市」をルーツとする。)
清閑なたたずまいの新町は、年に一度、秋祭りの屋台店でおおいににぎわう。
尾崎神社より表参道・鳥居前通りを望む
中浜通りのルーツは、濱(大浜)に通じる「ハマノマチ」。
濱の新開地が宅地化すると、海寄りを大浜、内陸部を「中浜」と呼び名した。
中浜は、戦前の本町に変わって、商店が建ち並んだ。
中浜商店街(全長72メートル)は、矢野駅の利用者の通り道に当たっていた。
かつての繁華(はんか)な中浜商店街(昭和47年)
大浜は、荒神浜・住吉浜と2分されるが、通常は1本化して考えられる。
「浜へ行く」といえば、荒神さん(社)・住吉さん(社)のイメージとともに、
矢野のウォーター・フロントの浜風・潮の香を感じる思いがする。
大浜のランドマーク(目印)の高層マンション2棟、ヴューシティ矢野(14階)、
藤和ハイタウン(9階)は、それぞれ独立した町内会に分離した。
荒神浜の荒神社(昭和58年落成)
八幡(やわた)は、尾崎神社の旧名・矢野八幡(はちまん)の訓読みにちなむ町名。
八幡町内には、宮脇(矢野商工会)・宮崎など、お宮にかかわる地名がある。
このほか、隣りの宮下(みやげ)町内には宮下川が流れ、丘の上(宮畝)には矢野西小学校が建つ。
尾崎神社裏参道入口に建つ石碑群。
左から戦役記念碑(大正14年建立)・髢(かもじ)之碑(大正4年)・甘藷之碑(大正4年)
大井は大江(大きな入江)の意で、海岸にちなむ名称。江の口(入江の口)と親子関係の地名である。
大井は上(かみ)と下(しも)に分離。団地造成により、星が丘・大磯(昭和45年)が、近くはパブリコーポ矢野町内会が誕生した。
大井説教場(現・大井上集会所)は矢野(本郷)と大井(枝郷)という地理的・歴史的要素をもつ場所的まとまりを残している。
江戸期の創設で、矢野小学校大井分校(明治6年)だった。
大井上集会所
高下(こうげ)は山の麓(ふもと)の意。
中高下(東) ― 高下 ― 高下迫(大井)の山裾(やますそ)は、草生地だった。
「こうげ」は、また公家(こうげ)。土着の豪族・矢野氏の居住地(土居)にちなむ地名とも。
土居や女蓮(にょれん)に屋敷があったと伝わる。
平成3年、安芸矢野ニュータウンの造成工事で、砂田(または仏迫)観音堂は高下谷に遷座(せんざ=移動)した。
観音さんの高下谷町内会隣りへの移転行事と餅まき風景
(矢野西七丁目20番ブロック)
稲荷(いなり)社にかかわる地名。町内には、このほか、大師堂・地蔵堂を祭る。
町内会は、「管理当番班」により、手あつく祭りを執行する。
内陸地・熊野方面への道筋に面し、昔は「下馬落し」ということがあった。
参詣道の道しるべ(大原橋下・矢野東六丁目34番ブロック)
稲荷(社)・弘法(堂=大師堂)
祇園(ぎおん)の神(スサノオノミコト)の分霊を祭る祇園社にちなむ地名。
現在の社殿は昭和2年に建てられた。祇園会館も同年の築で風格のある建物である。
旧7月14日の「祇園さん」は、矢野一早い夏の夜祭り。
祇園さんの夜祭り
(矢野の浴衣まつり・矢野西六丁目21番ブロック)
西条(にしじょう)の名称は、条里制(大化の改新時の土地の区画法)によるとも、
矢野町に柿栽培奨励(しょうれい)にかかわる西条(さいじょう)柿によるとも云われる。しかし、由来はよくわからない。
菊水幼稚園(昭和30年黒田シズエさん創設)は同51年(広島市立)矢野幼稚園に編入された。
川端に移された、園内の峠田(たおだ)のお大師さん。
峠田は黒田家の屋号(矢野西七丁目。番地は不明)
姫神を祭る姫宮社は、鎮座不詳(ちんざふしょう)の古い社(やしろ)。
元禄4年(1691年)、尾崎神社の御旅所(祭礼の御輿が渡御して仮にとどまる所)は、荒神社から姫宮社に変わって現在に及ぶ。
川向うに姫宮神田(しんでん)があり、姫宮早稲(わせ)を作り、領主に奉納していた。
姫宮社(昭和60年、銅板屋根に替わった。矢野西六丁目13番ブロック)
文 発喜会 楠 精洲
■矢野公民館だより、平成20年(2008年)5月号 ~ 平成21年(2009年)4月号記事からの再掲