~地名考(こう)は、地名を考える、また調べるぐらいの気持である。
現在の町内会(迫と呼んでいた)は、戦時中の隣保班を母体としている~
(1)矢 野
(2)寺 屋 敷
(3)天 神
(4)真 地
(5)神 崎
(6)幸 崎
ヤノの呼び名。
10世紀の「和名抄」に古代郷(ごう)としての「養隅=也乃=やの」がある。ヤは武具の矢に関係する。
神武天皇が東征(とうせい)の際、矢竹を産する矢野の多家宮(神社)に駐留したという古代伝承がある。
矢野の3つの小学校の校章は3本の矢を、中学校は2本の矢をアレンジしている。
注)矢野町の町章
内側に「ヤ」をイメージした“やじり”により町の発展をねがう。
外側に「ノ」の字を円形にして町民の和を象徴する。
なお、町旗は白地に町章を赤く描いた。
寺屋敷は、平安時代の密教寺院跡地の後堂(ごどう)を前身とする長慶寺(浄土眞宗本願寺派)にちなむ名称。
戦後(昭和26年から)の居住地で、矢野峠を越えた地は大きな街に。
寺屋敷町内会(誉ヶ丘団地ほか)と寺屋敷団地自治会(五月台・山水苑)から成る。
(写真 山本雅典氏提供)
天神は多家神社(多家宮・鷹ノ宮)の祭神・天神にちなむ地名。天神は菅原道真(すがわらみちざね)の神号である。
町内会は神社より距(へだた)った矢野川に沿う広い地域。矢野天神バス停・天神橋・天神日広団地など。
神社は矢野安浦バイパスに架(か)かる朱塗りの鷹野宮歩道橋に近く、年中煙る産業廃棄物中間施設の谷間の奥に鎮座する。
大正8年、字(あざ)瀬戸川を真地と改称」した。
せど川は主流・矢野川の側溝の位置にあり、新しく形成された新地(しんち)を美しく「真地」とした。
地名は人の生活の舞台の証しという。昭和34年「真地迫、蚊とハエ追放の功績」により、県知事表彰を受けた。
立田・真地をつなぐ立眞橋付近の川掃除(矢野町の川を守る会)
大正14年、西崎(さいざき)と神出(じんで)にちなんで、神崎(かんざき)が誕生した。
西崎は西崎山と「親子関係」の地名、神出は(廃)新宮(しんぐう)の社(やしろ)を下ったところの意。
昭和41年、県道・矢野安浦線が新設され、次第に神埼付近は住宅化が進み、銀行、ストアーが進出して商店街となった。
県道と市道・西崎中線の交差点より南を望む。
【右、マダムジョイと広島銀行。中央、メリディアン。遠方は矢野三山。】
迫(町内会)が幸(さきわ)うように、栄えるようにと願って、西崎(さいざき)を幸崎(さいざき)とほめて美しく書いた。
西崎山のふもとの西崎は、海田町との境で、近くの道ばた(昭和30年設置の町営西崎住宅)に「仏門行者の墓」が立つ。
付近は「さざきのキツネ」の里であった。
昭和44年川西(同37年川西モーターサービス創業)が、同45年幸崎団地が幸崎から分離した。
町有林の山すそを開いた帯状のほそ長い地形をしている。
写真は市道・大道線に沿う「仏門行者の墓」(右側はタマシイを抜いた旧墓)
文:発喜会 楠 精洲
■矢野公民館だより、平成18年(2006年)4・5月号
~平成19年(2007年)2・3月号記事からの再掲