日常、はっきりした意識がなくて利用している橋を、すこし地理的に歴史的に考察してみましょう。
矢野のまちがもっと親しいものになるかも知れません。
(1) 矢 野 川 橋
(2) 矢 野 橋
(3) 保 育 橋
(4) 出 合 橋
(5) 第1~4熊崎橋
(6) 愛 宕 橋
(7) 祗 園 橋
(8) 国 清 橋
(9) 髙 下 谷 橋
(10) 上・下大原橋
(11) 御 大 師 橋
(12) 上・下神長橋
国道31号線に架(か)かる矢野川橋(築昭和8年)は、
川上の矢野橋(海田-矢野-熊野ルートの旧主道の架橋)とよく混同される。
熊野別れ近くのバス停は「矢野橋」である(矢野東⇔矢野西)。
矢野川(矢野川水系)は、2級河川・流長3.2kmである。
矢野橋(築昭和45年)は、内陸地(熊野・呉市昭和など)に通じる旧黒瀬街道の入口にあたる。
18世紀「川尻」・19世紀「東川渡り橋」、のち「市(いち)橋」と呼ばれた。
「矢野」を冠(かぶ)せたこの橋は、矢野の要衝(ようしょう=交通上大切な場所)であった。
やの工房提供「出雲社と水害の碑」
(矢野東五丁目2番ブロック)
保育橋(築昭和42年)の橋名は、広島市立矢野保育園による。
見るからに心楽しい「ピヨピヨ橋」(愛称)である。
香川スミさん経営の矢野町保育所は、昭和32年、矢野町に移管され、
尾崎神社から立田(たてだ)に移転した。
矢野東五丁目9番ブロック
出合橋(築昭和37年)で出合うのは、①尾崎神社に通じる本町通りと砂原通り。
②大川(矢野川)とその支流(花上川・熊崎川)。
③秋祭りの「ちょうさい」唄、「送りましょうか 送られましょうか せめて出合いの橋までよ」。
男女の仲をとりもつ「ロマンの橋」である。
やの工房提供「出合橋」 矢野東五丁目13番ブロック~矢野西五丁目20番ブロック
昭和30~40年代、道路の改良、河川の補修とともに架橋が進んだ。砂原―熊崎を結ぶ熊崎橋は、
下流から第1(築昭和49年)、第2~4(築昭和45年)である。
砂原通り(旧県道)と熊崎通り(小道)の往来の便がはかられた。
なお、姫宮―東を結ぶ姫東橋のように、2つの地区名を合わせた橋名もある。
矢野東五丁目17・18・22番ブロック
愛宕(あたご)社の本道(参詣道)の起点にあたる橋(築昭和49年)。
愛宕橋の近くには、愛宕湯(跡)、石灯篭(1基)・1丁石(ちょうせき)が参道に点在する。
矢野城の鬼門除(よけ)の役目をもつ神社に初詣をする。春は桜の名所であった。
矢野東六丁目8番ブロック ⇔ 矢野西八丁目1番ブロック
祗園橋(築昭和43年)は、社寺にちなむ橋名の1つ。
祇園社はスサノオノミコトを祀り「祇園さんの糞(くそ)流し」の伝承がある。
橋に隣接するのは、第3消防分団の物見櫓(やぐら)(廃)と消防車庫。
矢野東五丁目22番ブロック ⇔ 矢野西六丁目21番ブロック
あげ(上・揚)と呼ばれる山麓(さんろく)のゆるやかな傾斜地には、平安時代、荘園内に国清(くにきよ)のほか、光吉・竹清などの
名主(みょうしゅ)が所有する名田(みょうでん)が広がっていた。
名だたる歴史的条件(耕地字)にちなむ橋名(築昭和32年)である。
矢野東六丁目32番ブロック ⇔ 矢野西七丁目7番ブロック
高下谷橋(築昭和42年)は、高下谷迫 (さこ=町内会)の入口にあたる。
高下(こうげ)は公家(こうげ)で、地方豪族・矢野氏(中原氏)の居住地を伝える土居(どい)の地名が残る。
高下は、社会的条件のほかに、山麓(さんろく)の意をもつ、自然的条件による地名でもある。
矢野東六丁目33番ブロック ⇔ 矢野西七丁目8番ブロック
大原は、平らで広く草などが生えている土地の意。大原橋(築昭和30年)は、
稲荷社・狐原大師堂の本道(参詣道)にあたり、橋の近くに参詣道標が立つ。
「めがね橋」とも見える2橋は、左側が上大原橋、右が下大原橋。
なお、右側の小さな森に、阿弥陀(あみだ)堂がある。
矢野東七丁目1番ブロック ⇔ 矢野西七丁目17番ブロック
大師講に代わって稲荷町内会が奉仕する孤原大師堂にちなむ橋名。写真は、神長橋(県道34号線)より、
左に御大師(おだいし)橋(昭和44年築)、それに並ぶ天神橋の2橋である。
天神橋は、多家神社が合祀する菅原神(道真・みちざね)にちなむ「天神」による。
矢野東七丁目14番ブロック
矢野川の支流・神長川にかかる2橋(昭和46年築)は、矢野天神バス停に近く、神長日広団地入口にあたる。
神長(かみなが)は、昔は、かんなぎ(並・みこ)の意の「かんながら」とも、「かみなか」(髪中・神中)とも呼ばれていた。
写真は、下神長橋より上神長橋を望む。向かいの山陵は愛宕社にある山系。
矢野東七丁目14番ブロック
文 発喜会 楠 精洲
■矢野公民館だより、平成21年(2009年)5月号
~平成22年(2010年)4月号記事からの再掲