矢野町の髢(かもじ) 「安芸区矢野町」

矢野町といえば、髢といわれるほどその名は広く全国に知られています。元来、髢とは、婦人のそえ毛のことですが、広い意味では「かつら」もこれに含まれています。
言い伝えによりますと、その昔寛永年間(1624−1643)に大官田吉兵衛<おおかんだきちべえ>(屋号は大阪屋)という人が、九州地方を旅した際に、道端に捨てられていた抜毛から髢の製造を思いついたといわれています。髢に関する資料としては、文化年間(1804−1817)の神田屋香奠帳<こうでんちょう>にただ「髪つくり」の名がみえるだけで、その確かなことはわかりません。また、江戸時代終り頃の矢野村の様子を詳しく書いた「国郡志御編集に付書出帳」も、髢については一言もふれておらず、そこになにか一種のなぞめいたものさえ感じられます。
化学洗剤の使用が今日のように普及する以前、髢製造の工程のなかで、もっとも人々が苦心したことは、髪についた油をどのようにして取り除くかということでした。
いろいろ試したあげく成功したのが、矢野町付近でとれるマサ土という細かい土を少量の水にといて平釜に入れた玉髪(原料となる髪)を蒸し、さめないうちに玉髪を取り出して、それを土のついたままたたきつけるという方法でした。このようにして油抜きされた髪は長さが不揃いで、しかもちぢれているので、金櫛や木櫛ですきそろえます。次に、染料釜で着色し、光沢をつけて髢に仕上げます。その間、相当の時間と手間とを必要としました。このようにして作られた髢は、更に人手にかけられて、島田や丸髷などの日本髷に作り上げられていきます。
矢野町での髢産業の最盛期は大正時代の終り頃で、全国生産の70%を占め、町内に髢市場も開設されて、全住民の80%が髢に関係していたといわれています。その後、日本髪が洋髪に変り、更に戦争の影響もあって、事業所の多くは閉鎖されてしまいました。戦後は、洋かつらに髢が使用されるようになり、対米輸出も増大して、再び事業所数13、従業員278人(昭和43年)にまで回復しました。しかし今日では洋かつらに化学繊維が多く使用されるようになり、他都市の大企業の進出が目立ってきました。一方外国からも安い製品がどんどんわが国へ入ってきています。このような状況に対処するために、矢野町の髢業界では、生産の近代化をはかるとともに、人毛でなくては作れない日本髪のかつらに特色をもたせながら伝統の灯を守り続けています。
矢野公民館では、古くから髢製造に使用された用具材料などを貴重な文化財(民俗資料)として保存し展示していますので一度ご覧ください。

かもじの作り方