~ほかの町の物と区別して、その全体像が矢野の物であると感じられる様子。
司馬遼太郎さんの「この国のかたち」が心にあったかもしれない。~
(1)五左衛門通り
(2)幸崎の行者墓
(3)極楽という名の橋
(4)神主(かんぬし)屋敷
(5)同行(どうぎょう)倉
(6)大井の赤石(あかいし)さん
社倉法(飢饉に備えて、広島藩内の町村に倉を設けて麦を備蓄しておくこと)創始
にかかわった江戸時代の庄屋・小池五左衛門にちなむ路地(矢野西5-13)。
煙突の見える風景は町内で1ヶ所だけ。現役の銭湯(せんとう)は「日の出湯」1軒になった。
「歯いた地蔵」の異名をもつ仏門修行者之塚(大正13年建立)は、今に香華(こうげ)が絶えない。
路傍の墓付近はさみしい村境で、「さざきの狐」が出没したという(矢野東2-6)。
町内には「いぼ落し」や「乳授け」などの民間信仰があった。
極楽橋とは、なんとも宗教じみていて抹香(まっこう)くさい。
それもそのはず、宮下川の下流域の火葬場への通い路(じ)に当っていた。
涙橋でもあった。今は、拡幅(かくふく)されて、橋そのものの存在さえもわすれられそう。
大年山の裾(矢野東6-4)に、広い敷地と立派な構えをもつ屋敷があった。
神主、つまり尾崎神社の神官・香川家の旧居である。
お城づくりの工法の算木(さんぎ)積の石垣は、屋敷の高い格を物語る。
なお、山中には香川家の墓地と大年社跡がある。
大井上集会所(旧大井説教所)内に同行の倉が立ち並ぶ。倉はまた講(こう)倉ともいう。
「死に講」ともいわれる、さすがの安芸門徒の生活共同体の命脈(めいみゃく)
を危ぶむ声が聞かれる。そんな時勢である。
付近は、古くは赤石という新開地。現在は赤石橋、赤石東踏切にその名をとどめる。
潮止めの中の赤石(矢野西2-7)のいわれは、赤褐色の石上に
赤石明神(みょうじん)が祭られていたことによるようだ。
文:発喜会 楠 精洲
■矢野公民館だより、平成17年(2005年)4・5月号
~平成18年(2006年)2・3月号記事からの再掲