小学生のための矢野の歴史(その1)

古代の辞書で、源順(みなもとのしたごう)という人が、著(あらわ)した「和名抄」(わみょうしょう)<ただしくは「和名類聚抄」>によると、安芸郡養隈(やの)郷とあり、また天文年間(1532-)には屋能郷ともいわれた。
江戸時代初期に大屋、平谷、川角、押込(おおや・ひらだに・かわすみ・おしごめ)の四つの村が分離(ぶんり)して現在の地域となる。
矢野は、広島市から9km、呉市へ18kmです。
矢野三山は、絵下山(えげさん、584m)・発喜山(ほっきさん、470m)・明神山(みょうじんさん、491m)。

1 中世の矢野

建武3年(1335)12月熊谷蓮覚(くまがいれんがく)が矢野城に兵をあげ、同月26日城が落ちる。

文安2年(1445)野間氏が尾張国(おわりのくに、現在の愛知県)野間庄(のまのしょう)より矢野に入る。そして、弘治元年(1555)まで野間氏の城下町として発展した。

野間氏五代目の城主、隆則(たかのり)は弘治元年、毛利元就(もうりもとなり)と合戦(かっせん)してやぶれた。

2 年表(近世以降)

1630-(寛永年間):久保九郎左衛門、大井手をつくる。
1712(正徳2年):長慶寺火災にあい全焼する。
1721(享保6年):香川將監生まれる。1797死亡する。
1836(天保7年):長慶寺が再建される。
1848(嘉永元年):矢野に石風呂がはじまる。
1870(明治3年):矢野村の田畑、屋敷の畝数は95町3反24歩
1889(明治22年):矢野村となる。
1927(大正6年):矢野町となる。
1975(昭和50年):広島市と合併。55年4月、区制となり広島市安芸区矢野町となる。

明治6年 洗心舎として小学校ができた。
明治7年 長慶寺に小学校、啓迪舎ができる。
明治11年 矢野で始めて郵便物の配達がされる。
明治17年 郵便事務を取り扱う。
明治18年 広島県からのハワイ移民はこの年が初めてで、156人のうち矢野から二人が加わる。
明治21年 矢野尋常小学校とあらたまる。
明治22年 矢野巡査駐在所となる。
明治23年 江の口と住吉両火葬場から、小越に建てられた。矢野駅から中浜筋にかかっている橋の名が極楽橋と呼んでいるが、これはそれまでの火葬場への道筋で、地獄か極楽かのいずれかの分かれ道としてついたものといわれる。
明治36年 鉄道 呉~広島が開通する。
明治32年 矢野郵便受取所ができる。
明治40年 4月に矢野尋常高等学校となる。
明治43年 電信事務を始める。
明治44年 5月、清友会が消防組をつくる。
明治44年7月30日 大正と改元
大正2年 砂原に巡査駐在所が落成。電灯を設備する。
大正4年 腕用ポンプを購入して矢野村私設消防組できる。
大正5年 青年団の結団式が行われる。
大正9年 電話通話がはじまる。最初の電話架設数は69個。
大正14年 NHKのラジオ放送がはじまる。
大正15年  矢野~熊野間のバス路線が開通。
昭和15年12月25日 昭和と改元される。
昭和3年 矢野役場が新築落成。
昭和10年 海田新開一帯 約28万坪(うち8万坪は海面)に矢野の西崎山の土を入れ陸軍用地となる。
昭和11年 1月20日、小学校の南校舎を全焼する。
昭和14年 呉~広島間の国道32号線が開通する。6月パーマネント禁止、服装はモンペと国民服へ。
昭和15年 六大都市では、さとう、マッチが切符せいとなる。
昭和16年 4月に矢野国民学校になる。6月麦が配給になる。
昭和17年 食塩、みそ、しょうゆが配給制になる。
昭和19年  11月タバコが配給となる(1日6本)
昭和20年 8月6日午前8時15分 広島上空にピカドン(原子爆弾)が落とされる。矢野小学校は原爆被災者の救護所となる。
8月15日、大東亜戦争が終わる。
昭和22年 矢野小学校となる。
昭和23年 矢野町警察署ができる。
昭和26年 矢野町警察が廃止。
昭和29年 11月、矢野公民館ができる。
昭和30年 矢野子ども会が発足。
昭和33年 4月、小中の講堂ができる。
昭和35年 給食がはじまる。
昭和39年 プールができる。
昭和41年 熊野への新県道が開通する。
昭和43年 役場庁舎が完成(現在の出張所)
昭和47年 矢野中学校が現在地に移転する。
昭和50年 4月、矢野西小学校がはじまる。
昭和52年 福祉センターが出来る。
昭和54年 3月 公民館が3階建てにかわる。

3 矢野の史跡散歩

○多家神社 祭日旧3月25日 9月25日 その昔、神武天皇が東征のみぎり、たちどまられた地として伝えられている。安芸郡府中町にもある。
またの名を、たかの宮とも、おたか堂とも言われ正徳6年(1716年)万延元年(1860)と改築がなされた。
○野間神社 祭日旧5月1日 発喜山に鎮座する。安政4年(1857年)野間興勝を祭ってある。通称、野間さんとかのまどうさんと呼ぶ。
○稲荷神社 祭日旧2月10月 きつね原、字千本原に祭ってある。寛延元年(1748)大風にあい同4年に建てられた。
○狐原大師堂 なめらが谷のだいしどうともいう。その昔、大和屋が建てたといわれるが年代は不明。
○大年社 野間氏が矢野に入る前から大年の森に祭られていた。文明4年(1472年)にかいぞうしたと伝えられる。
○愛宕社 祭日旧3月16日 あたごというのは、山城の国の愛宕郡、今の京都府の南部からうつしたからだといわれる。野間氏によって建てられた。ふもとから15町ばかり登ったところで参道は桜並木であったと言われる。現在道しるべとして1丁と5丁がある。通称、ごんげんさんとも呼び12月31日の夜から初詣の人でにぎやかである。
○白鳥社 祭日旧3月3日 現在の社殿は、明治の初めに建てられた。いぼおとしのかみさんと呼ばれている。社地より東方一丁の所にお手洗いがあり、いぼのできた人は参詣してこの水をつけ後ろ向きをせずに帰れば数日のうちにいぼがとれるという。
○姫宮神社 祭日10月10日 元禄2年(1689)8月にさいこうされた。尾崎八幡のみゆきどころにきまり現在に及んでいる。
○祇園神社 祭日旧6月14日 明治13年に建てられたが、現在の社殿は昭和に入ってからのものである。
○三王社 祭日旧3月16日 旧号で山上社といわれ、慶応3年(1867)丸子の森から宮下にうつし現在にいたっている。
○出雲神社 祭日9月1日 大正9年11月、水害記念碑のそばに移した。
○荒神社 祭日旧6月17日 その昔、荒神の森は三つの小島からなっていて一名三ツ名子島ともいわれ、尾崎山までは砂浜つづきであった。
社殿は大正年間に造られた。
○住吉社 祭日6月17日 字琴森の内に住吉という地名がありここにあったが寛延2年(1749)に小崎浜にうつした。のち住吉新開とあらたまる。
○龍田社 元文3年赤石新開が庄屋湯磯氏によってなされ、これをきかいに守護神を祭ることになったのが龍田社で場所は、四央山(のちに山王山とも記され、また龍田山ともいう)といい、昭和になって造営された。
○赤石明神 大井の国道の北側しおまちの中にある大小三つの赤色をしたなめらかな石をいう。
○尾崎八幡宮(尾崎神社) 祭日10月10日 野間氏の矢野に入ってからはじまる。文明2年(1470年)宮のうねにつくられた。慶長19年(1614)現在のところに移った。明治13年(1880)郷社となり、昭和8年(1933)社格は県社となった。10月10日に行われる祭りは、秋祭りといわれるが子どもたちは”おにまつり”とも呼ぶ。
○木船薬師堂 花上のおやくっさんともいう。宝永5年(1708)平七なるものが、どひの清水の池をかいこん中に金色の薬師如来像を発掘したのでこれを祭ったと伝えられる。
○新城山観音堂 東の新城山のふもとにあり、久保家にたてたと伝えられて、久保の観音ともいい、地名をとって矢賀の観音ともいう。
○東光園大仏 浜の大仏さんと云われ、昭和10年向井ヒサミさんによって建てられた。戦前はここで最初の幼稚園が開設された。