小学生のための矢野の歴史(その2)

安芸国(あきのくに)

六世紀から七世紀の始めにかけて大陸文化の波がはげしくうちよせるようになると、政治のうえでも中国の諸制度にならって中央集権しはいの方向があらわれた。つまり豪族(氏)が土地人民を私有し、朝廷としては豪族をとおして政治を行うにすぎないという氏姓制度をやめて、中央・地方の政治機関をととのえ、中央集権でもって人民を公民としていこうとする気運が高まったのである。聖徳太子の冠位十二階や憲法十七条はこうした旧豪族を天皇の臣(官吏)として位置づけるものであり、大化の改新はこれを具体的な制度として実現することを明らかにしたものである。
しかし、その実施はなかなか容易ではなく30~40年もかかって、しだいにきどうにのって人民は調・庸を中央政府におさめ租と雑徭を地方の國に納める制度がかくりつした。こうした諸制度は大宝律令にいたってほぼ完成をみたのである。
大化の改新(645年)は天皇家の権力のもとに結集させた政治的な革新であった。國には開拓や殖民のどあいと収入のていどによって大・上・中・下の四等級に分けられ、安芸國は上国であった。国の政治は、中央貴族が国司(こくし)として赴任し(任地におもむく)国衙(こくが)で政務をとった。国衙の所在地を国府といわれた。(府中は、むかし国府のあったところの意。)
上国の国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官(各1人)とその下に史生(三人)があった。
国のもとには、郡・里(のちに郷とあらたまる)の行政単位が設けられた。郡の宮(こおりのみやつこ)にはもとの国造(くにのみやつこ)などの地方豪族を任命して郡家(ぐんが)とよぶ役所をおき郡司(ぐんじ)は国司の命を受けて政治にあたった。郡司は地方行政官で国司の下にあって郡を治めた。大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官からなる。
安芸の国には、沼田(ぬた)・賀茂(かも)・安芸・佐伯(さえき)・高田(たかだ)・山県(やまがた)・高宮(たかみや)・沙田(ますだ)(豊田)の八郡がおかれた。
郡の下におかれた里の大きさは五十戸(平均20数人)をもって一里とされた。郡は、里数によって五等級に分けられ安芸郡は中郡であった。(大郡は、20里以下16里以上、上郡は12里以上、中郡は8里以上、下郡は4里以上、小郡は2里以上)
霊亀元年(715年)に里は郷と改められ郷の下に里が置かれた。平安時代(10世紀前半)にできた「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)(和名抄ともいい、源順が著わした)によると安芸郡には、漢辧(かべ)・彌理(みり)・河内(かうち)・田門(たど)・幡良(はら)・安芸(あき)・船木(ふなき)・養隈(やの也乃とも)・安満(あま)・駅家(えきや)・宗山(むねやま)の十一郷があったと記されている。
養隈郷は、北は安芸郷・荒山郷、東は加茂郡養訓(やまくに)、南は安満郷・船木郷に面していた。こうして広い地域を占めていた制度も江戸時代初期には大屋・押込・川角・平谷が矢野から分離するまでつづいたのである。
安摩庄(あまのしょう)
郡司ら現地の豪族は、百姓との連帯意識がつよく、百姓たちのあいだではかくれた勢力をもっていた。数百町歩におよぶ新しく開いた田地をもつものも少なくなかった。そうした所有者は国司のわがままな収奪から自分を保護してもらうために、国司以上の権威のある中央の貴族・社寺にたよることになる。平安時代の末期には国司の支配する公領はごく少なくなり、土地の大部分が中央の豪族や大寺・大社の私有する庄園にふくまれるようになった。
矢野の土地も安摩庄と呼ばれる庄園の一部となっていた。
 安摩庄の範囲は、矢野浦・江田島(とうじは衣田島・衣多島と書かれている)・波多見島(倉橋島の東北の部分にあたる)を中心として広島湾の東部海域の広いものであった。
この庄園の所有者(本家という)は、京都に住む八条女院である。(八条女院は、鳥羽法皇と美福門院との間に生まれ、この両親から全国にわたり110ヶ所もの所領をあたえられている)
安摩庄の西どなりの能美庄と北の開田庄(海田庄)も八条女院領である。本家の下にあってこの庄園の支配権をもっていたのは領家である平頼盛(清盛の弟)であった。
源氏が東国武士の棟梁として名をあらわしたのに対して、西国においては平氏が力をあらわしてきた。
清盛の祖父正盛・父忠盛の時代、瀬戸内海における平氏の拠点は備前(岡山)の児島湾ふきんであったが、久安2年(1146年)清盛が安芸守となってより内海の中央部にあたる広島湾にその拠点を移し勢力をいっそうたかめ、厳島(伊都岐島)神社が平氏の氏神とあおがれ、今日のかれいな社殿がつくられたのです。
清盛は、自分の庄園の一つである摂津国(兵庫県)福原庄とこの広島湾との間に厳島航路ともいうべき航海施設を行ったもので安摩庄の一角である音戸ノ瀬戸を開いている。
古来大陸に往来する船は倉橋島の南岸にそって航行したが、中世の瀬戸内海のおもな航路は、平氏時代以降、音戸ノ瀬戸をとおり厳島にたちよるようになったので矢野浦は、日本の主要な航路のみでなく大陸へつらなる航路となっていくのである。
清盛が保元元年(1156年)安芸守から播磨守に転じたあとには、弟の経盛が、ついで弟の頼盛が安芸守となった。
治承3年(1179年)安摩庄の領家、平頼盛は信仰のあまりその領家としての権益(権利と利益)の全部を厳島神社に寄進(社寺などに金銭・品物を寄付すること)として神社の費用にあてることとし翌年の治承4年(1180年)には本家である八条女院も本家としての権益も寄進し安摩庄は、厳島神社領となるのである。
源氏と平氏の運命をかけた戦いは、壇ノ浦の海戦でその幕をとじた。平氏に味方した武士たちの所領は取り上げられて源氏の将士にあたえられることとなり、安芸国守護に宋孝親(そうたかちか)が任ぜられた。
その後、(承久の変 1221年)武田信光が安芸の守護となる。(武田氏は、信時の孫の信宋の時代に安佐郡の武田山に銀山城を築いた。)
鎌倉中期の仁治3年(1242年)矢野浦の惣公文は中原惟道というものであった。(安摩の庄は、主要部分が矢野浦・江田島・波多見島と海をへだてていたために庄園が三地域に区分され、各地域ごとに庄務を総括する惣公文がおかれており、その下にそれぞれ惣追捕吏・小公文等の下級庄官がおかれていた。惣追捕吏は、庄内の警察のことを行い、小公文は惣公文の仕事の手伝いをしたものと思われる。)
中原氏は、矢野浦はえぬきの武士で、矢野の地を開発した領主の子孫であったものか。(同族として波多見浦の中原氏がある。)平氏が滅亡し鎌倉時代になって東国武士が安芸国内の各地に入っているのに安摩庄には地頭が入って来ていないのはなぜでしょうか。中原氏は厳島神社や八条女院の権威にたよってと土豪として相当の勢力をもっていたものであろう。
矢野には、この土地に屋能氏という武士が住んでいたと伝えられる。それはいつの頃かは不明である。
あるいは中原氏が土地の名をもって矢野氏とよんだものか。
また、中原氏がどの辺に屋敷をかまえていたのかもわからない。発喜山の北麓に土居と呼ばれる土地があり、東部の丘にも土居屋敷と呼ぶところがあるが、このいずれかが中原・矢野氏の居住地の跡であったのでしょうか。
矢野氏がいつころまで矢野に勢力をしめていたのかこれも不明。矢野氏が没落して、その子孫が江田島にのがれたことは、江田島本浦の南に矢ノ浦と称するところがあり、そこに今も矢野氏と称する一族が住んでいるといわれる。
江田島では、矢野氏の祖先で弓の名人であった矢野玄鎮という者が矢野からのがれてここにかくれ住んだので、この地を矢ノ浦と呼ぶようになったと言い伝えており玄鎮の墓と称するものもある。




参考資料:広島県の歴史・矢野町史上巻・広辞苑ほか。
小学生のための 矢野の歴史(その2)「親と子のれきし学習資料」昭和57年12月 矢野公民館