小学生のための矢野の歴史(その3)

南北朝のたたかい 熊谷蓮覚は何ゆえに矢野城にたてこもったのか!!


鎌倉時代 1192年、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから滅ぶまで(1333年)の141年間を言う。
平氏に代わって全国に勢力を伸ばした頼朝は、各地に守護(国々の取締りや、警察にあたる権利・御家人を指図する権利・社寺を修復したり道路や宿駅をととのえる仕事)や地頭(荘園内の地主で税金をとりたて、土地を管理し軽い犯罪の取締りをする権利)をおいて鎌倉に幕府を開いて武家政治を始める。
鎌倉の武士たちは、一族のものが総領(頭のこと)を中心にしてよく団結したのである。
しかし、源氏は三代でほろびる。(頼朝、頼家、実朝)
かわって北条氏が執権(政権を握ること。源実朝の時、北条時政がこれに任ぜられ、以降北条氏が世襲)となり政治をとるようになるが1333年(元弘3年)、後醍醐天皇は(文保2年1318年~延元4年1339年)政権を朝廷に取り返そうとはかり、ついに新田義貞の軍により北条高時は攻められ自殺してはてるのである。ここに鎌倉幕府は終わる。

承久の乱 1221年5月 後鳥羽上皇(元歴1~建久9:1184~1198)は、武士の手から政治の実権を朝廷がわに取り戻そうとして約1700騎の兵を集めて京都守護の伊賀光季を攻め殺し全国に幕府打倒の命をくだしたのが承久の乱の始まりで約1ヶ月で上皇軍はやぶれ、後鳥羽は僧となり隠岐(島根県)に流され19年もの長い間、不自由な生活のなかで60才をもってこの世を去ったのである。

六波羅探題 (京都にいる御家人の裁判をする所)は幕府にそむいた貴族や武士の領地を三千ヶ所余りもとりあげ、この承久の乱に勲功のあった御家人たちにその土地を分け与え地頭としておくりこんだ。これを新補地頭とよび乱以前からの地頭を本補地頭と呼んで区別したのである。

持明院統と大覚持統
鎌倉時代のなかごろ、第88代後嵯峨天皇が位をゆずってからは兄の後深草天皇の血筋にはじまる持明院統と弟の亀山天皇の血筋に始まる大覚持統の二つに分かれて、たがいに天皇の位につこうとして争うようになった。
後嵯峨天皇がなくなると亀山天皇は自分の子の後宇多天皇を位につけた。そこで後深草天皇はこれを不満として幕府にうったえ後宇多天皇の次には後深草天皇の子の伏見天皇につけた。今度は後宇多天皇が不平をいだき、ついには幕府は手をやいてかわるがわる天皇に即位してどうかと提案し(1317年 文保元年)このとりきめが出来たのである。これを文保の和談という。
持明院統は、広い荘園を持ち代々鎌倉幕府にたよって仲が非常によかったのであるが、一方大覚持統はそれほど荘園をもっていないし、また幕府との仲もあまりよくなかった。
そして摂政関白であった藤原家も鎌倉時代になってから五家に分かれて争いはじめた。近衛・鷹司・九条・二条・一条の五家がそれで、これを五摂家と呼ぶ。
皇室の両統のあらそいと五摂家の争いがなにかにつけて二派に分かれて争うようになり室町時代にいたっても持明院統が北朝に大覚持統が南朝になって争いは続くのである。(なお両院が統一させるのは、1392年である。)
この交互即位の紛糾を巧みに利用したのが足利尊氏である。足利尊氏は北朝の皇統-光厳天皇を立てて征夷大将軍となり、いわゆる足利時代の基をきずいた。
文永の役 広大な元国をきずいたチンギス汗の孫フビライは、日本をも従えようとして1266年(文永3年)高麗(朝鮮)を案内役として日本に使いをおくる。1274年(文永11年)10月3日、元・高麗の連合軍おおよそ25600人の兵は900隻の軍船で対馬(長崎県)をおそい、肥前(佐賀県)松浦郡から、19日には博多湾にせまったが大嵐がおこり大波にあらわれて沈んでしまったのである。第1回の国難であった。
弘安の役 それから7年後の1281年(弘安4年)正月、フビライは再び襲来する、文永の役にくらべて約5倍の兵力をようして博多湾に攻め込んだが、7月1日の夜中からはたまたま大嵐がおこり元軍の大船団は海に沈み死体は海岸に打ち上げられる。ついにフビライの日本征服の夢は嵐のなかに消え去ったのである。
正中の変・元弘の変 1318年、大覚持統の後醍醐天皇が31歳で即位。天皇家の大覚持統、持明院統の二派の政権争いから天皇制復活を意図した後醍醐天皇は1324年(正中元年)鎌倉幕府を討とうとしたがその計画が事前にもれて日野資朝が一人で罪をかぶり佐渡に流される。これが正中の変である。天皇家の討幕の決心は変わらず1331年(元弘元年)またもこの謀がもれてしまい、天皇は奈良にのがれ笠置山の笠置寺におちたが、北条軍にとらえられて隠岐の島に流されたのである。これを元弘の変という。
この時、北条家は皇太子量仁親王を天皇の位(光厳天皇)につかせ、神器をゆずらせた。
※神器とは ・天皇であることを証拠だてるものは三種の神器(八咫の鏡ヤタノカガミ、八尺瓊の勾玉ヤサカニノマガタマ、雨叢雲剣アメノムラクモノツルギ後に草薙剣)で、それぞれ徳をあらわしているという。
鏡は正直、玉は慈悲、剣は知恵をあらわしているという。北畠親房がかいたと伝えられる「神皇正統記」に見られる。
吉野の(奈良)、金峰山におちのびた大塔宮は、全国の武士に幕府を倒すべく兵を挙げるよう呼びかけ、これに呼応して全国の守護も挙兵したのである。これまで東国武士が安芸・備後に進駐してきて守護、地頭として支配するようになったが、しかし古くからの在地の武士もおりいったんは平家に与して自分の領土と権力を保ち得たのであるが、平家なきあとは地に潜みあるいは進駐の東国武士に屈してはいたが源氏の地頭の入り得ない荘園もあり、そこに生きつづけた土豪たちは再び勢力を盛り返す機会をじっと耐えてまちのぞんでいたのである。
また一つには、文永の役、弘安の役ののち経済情勢も芳しくなく御家人たちの幕府への反感をいだくものが多かった。こうした動きのなか、後醍醐天皇は隠岐を脱け出し伯耆(鳥取県)の豪族、名和長年に迎えられて船上山で旗をあげる。この時いちはやく馳せ参じた武士のなかに安芸の国の在庁官人、石井末忠の名が見られる。
石井末忠は、安芸の国府であった府中に住まいし幕府勢力の入り得なかった国衙領(平安期以降、国司の統治下にある土地、国衙は国司の役所)の在庁官人、田所氏の一族で田所信兼の弟、府中の北部石井に住んでいたので石井氏を称す。石井末忠は、大条千種忠顕について京都六波羅に攻め上り軍功があった。そして建武3年(1336年)九州から再び勢力を盛り返して東上した足利尊氏を迎え討たんとして湊川(兵庫県)の合戦において楠正成とともに戦って戦死したのである。
建武の新政(または建武の中興)
1333年5月、北条高時の自殺によりついに幕府は滅び京都に帰った後醍醐天皇は朝廷の中をすっかりあらため、1334年に年号を建武とあらためて天皇中心の新しい政治を建武の新政という。
しかし、この建武の新政もわずか三年たらずで崩壊してしまうのである。それは恩賞が不公平だったために武士の不平不満が高じたこと、戦乱につぐ戦乱で世の中がみだれておさまっていないのに大内裏の造営計画を建ててその費用を諸国の地頭に割り当てたため武士や農民の負担がまして不満が高まった。そうした中で武家が護良親王や新田義貞を中心とする一派と足利尊氏を頭とする一派とが分かれて対立する。
建武2年(1335年)尊氏と弟の直義の軍は天皇にそむき京都にせめいったが、鎌倉をおとした北畠顕家が京都で尊氏兄弟の軍とはげしく争いついに足利は九州に逃げ延び、大宰府(福岡県)をよりどころとして勢力を持して全国に新田義貞を討つべく檄文を発し、建武3年4月(1336年)大宰府を出発して、九州、四国各地方の武士を従えて尊氏は軍船で瀬戸内海を進み、弟の直義は陸路を進んで京都にせめのぼった。
新田義貞は和田岬(兵庫県)で、楠正成は湊川で陣をしいて足利軍を迎え撃ったが正成は戦死、義貞は京都に逃げ帰る。尊氏は光明天皇を位につけ後醍醐天皇を花山院(京都)におしこめる。
尊氏は、1336年幕府を開き2年後に征夷大将軍となったのである。
花山院におしこめられた後醍醐天皇は、隙を見て脱け出し吉野にうつりここに吉野朝廷をつくった。これを南朝といいこれに対して尊氏のたてた京都の朝廷を北朝といい、こののち約60年間この二つの朝廷が争いつづけたのでこの時代を南北朝時代といわれるのである。
1339年後醍醐天皇はなくなり、北朝をおしたてた尊氏も1358年54歳で世を去る。
尊氏の孫の足利義満は、南北朝の仲直りにつとめ、ついに1392年にこれを統一したのである。
尊氏に呼応して安芸の守護職武田信武は、建武2年(1335年)12月に挙兵する。

---安芸武田氏---
<<守護職制度が始まったときは、宋高親が任せられたが承久の乱(1221年)ののち武田氏が任ぜられる。武田氏が安芸の守護となったとはいえ本拠は甲斐にあって、安芸には代官を派遣しているにすぎなかったのであるが、自ら経営に乗り出すのは蒙古襲来のときからで安芸に本拠を移した武田氏は、信時の孫の信宋の時代に安佐郡の武田山に銀山城を築く。
これよりのち永正14年(1517年)12月22日、武田元繁は大内義興にそむいて、小田信忠の居城である山県郡府田城(千代田町)を五千の大軍とようして攻めたのである。有田城と毛利元就の猿掛城とは目と鼻の先であり、救援にかけつけた元就は初陣でもあった。勝ちをあせった元繁は、自ら先頭にたち流れ矢にあたってしまう。これを”西国桶狭間”といわれる。安芸武田氏はこの敗戦によって一段とおとろえてゆきついには、天文10年(1541年)銀山城は陥落し武田氏は滅亡する。戦国時代には、その領土は広島湾から、太田川流域一帯、安芸国の西南地帯には、毛利・吉川、東部には小早川・平賀などの有力な武士団があって安芸国の領国化はできなかったのである。>>---

これに従う武士は多く、毛利元春・吉川実経・須藤景成・吉川師平・周防親家・逸見有朝・熊谷有直の後家尼智阿花朝倉仏阿・波多野景氏・綿貫孫四郎など安芸の有力な武士が尊氏方についたのである。
熊谷氏の総領家も足利方に従うが分家である熊谷直行入道蓮覚とその子直村、甥の直統らは南朝方に味方し安芸郡の矢野城にたてこもり東上する武田勢をくいとめようとして向鳩穂矢の紋打ったる旗指物を矢野城頭高く南風にひるがえし、建武二年の暮れもおしせまった12月23日、矢野城の攻防戦が始まったのである。
安芸の有力なる武士団を相手に、険要な矢野城を利して一族郎党は勇を鼓し大いに奮戦、旗指物は山を谷を埋めつくし喚声峰にこだまする。かくて激戦は四日間にわたり昼夜の別なく死闘が繰り広げられたのであるが、刀折れ箭またつき、精魂果てついに一族全員戦死、赤血に塗れて城は陥つ。熊谷四郎三郎入道蓮覚の南朝方に捧げた志ついに成らず、府中の石井末忠とともに散る。
熊谷側の記録は一切残っていないが、武田側の軍忠状で見ると攻撃軍も相当苦戦を重ねたものである。
大手に向かった大朝本庄地頭、吉川師平は戦死をしている。こうして安芸一国の大軍を向こうにまわして独力、山陽道の要衝の地矢野を支えて東上を阻もうとしたその理由はどこにあったのであろうか。
熊谷蓮覚、俗名直行、通称を四郎三郎、蓮覚は法号。祖先は、熊谷次郎直実で関東御家人、承久の乱ののち新補地頭として西遷した。
代々安芸国安佐郡の三入荘の地頭であった熊谷家の分家である。当時熊谷家は四家に分かれていたが三家までは(直満・有直・直勝)武家方(足利尊氏)で、蓮覚のみが南朝の官方についている。
(備北の三谷郡十二郷に地頭として入った広沢家も南・北に分かれている。庄原の山内首藤氏、安芸国本郷の高山城の小早川氏にも同様な分裂が見られる)総領制に対する庶家の独立する機会がこの南北朝時代にやってきた。その一隅の機会を逃さず南朝方に走って勢力の拡張を図ったが、しかしその野望もついえ去った蓮覚ではあるが、一つの野心のために安芸の有力武士団を相手に少数でむかえ討つ秘計があったのだろうか。要害の矢野城に拠ったとしても、東上をはばむのは数日間のことで、この間に援軍を待とうとしたのか、援軍となるべき同盟者があったのであろうか。
(矢野城の攻防戦は実に激しいものであったが、ついに建武2年12月26日、城の正面である大手の木戸が打ち破られて攻撃軍が城内へなだれ込んだために城はついに陥落した。矢野町史上巻p62参照)



蓮覚とはどのような人物であったのか


※曽祖父熊谷次郎直実蓮生の、宗教的性格をそのままそっくり持って生まれたのが蓮覚を生んだ父の頼直であった。
頼直は殺伐な戦国武士から、宗教心に目覚めて宗教界に身を投じた曽祖父直実~蓮生を深く敬慕して自らも”行蓮”と名乗り三入新庄内では殺生を禁じ、曽祖父が法然上人よりもらった”迎接曼陀羅”の御本尊を安置するため、新庄内に立派な寺院を建立して、これを勅願寺に申請しようとする悲願があった。そのため自分の子のうちから、宗教心の天分のある者に跡を継がせて、死後自分の考えを実現させたい願望であった。
その一端として領内に湧く鉱泉を焚かせておいて、何時でも領民や病者に入浴させる”不断湯”を造った。現在で言う温泉である。この不断湯は自分の死後も絶やさないよう遺言した。不断湯はもちろん無料奉仕であるから、その費用を長男の直勝、次男の直行(蓮覚)の両方から出し合って続けるよう遺言している。だが、ややもすると不断湯がとだえ勝ちであるから、直勝はその子直氏に命じ、「叔父蓮覚と相談して、不断湯を絶やさないように取り計らえ」といっている。
蓮覚は、次男分家であるが、父頼直(行蓮)の眼鏡にかなうような器量人であり、父の悲願を必ず実現しようとした人物であった。このような精神的な情熱が南朝勤王党に走らせた原因と思われる。

※熊谷次郎直実の孫直国が、承久の乱(1221)勢多橋に於て討死した勲功としてその子直時を安芸国の安北郡北部)三入の庄地頭職に補せられ、武蔵国熊谷郷と併せ領有。はじめて下向し大林伊勢ヶ坪城に拠り、その弟祐直は三入桐原城に拠った。
爾来、直高、直満を経て直経にいたり勢力強大となり安芸、石見両国の目代職を勤むるにおよび、安芸に熊谷、周防に大内と称するに至った。直経は高松山に本城を築きこれに拠る。
長男直時が東三入(三入本庄)三分の二を領有し、次男の祐直が三分の一の西三入(三入新庄)を領有して分家した。そこで本家熊谷家はどうしても、安芸国守護職たる武田家の下知に従い行動を共にしなければならないので、武田山の安芸足利党の旗挙げに参加した。
これに対し、三入新庄の本家筋にあたる直氏もまた大本家三入本庄の熊谷家と行を共にしなければならぬ立場にあった。本家と分家、叔父と甥が互いに敵味方に分かれて戦うのも戦国の習い、特に本家有直の後家代官は、矢野城攻撃軍に加わって西尾首矢倉の激戦に参功している点は注意しなければならない。蓮覚の兄直勝の子~直氏は、三入本庄の本家直経とともに上洛して足利党に属している。四面楚歌、目に余る安芸足利党の大軍を向こうに廻しその子直村、甥直経の家人、志村彦七、江田藤四郎をはじめ、一族郎党ことごとく、矢野発喜城に散った安芸勤王党の勇気たるや激賞に値すると・・・・

※熊谷四郎三郎蓮覚とその一党が、矢野発喜城に散華した数詳細には判らないが、前後の事情から推してその実数は微々たるものであったかもしれない。しかし、その実数が少なければ少ないほど、その精神は崇高なものとしなければならぬ。蓮覚とその一党の尽忠精神が、矢野・海田を含むこの一帯の農民に根強く植え付けられていたのであろう。それによって篭城を支え得たものであると・・・・と語り伝えられている。



参考資料:広島県の歴史・矢野町史上巻・広辞苑ほか。
小学生のための 矢野の歴史(その3)「親と子のれきし学習資料」昭和58年7月 矢野公民館