矢野の歴史(追補)



南北両朝、争覇の遠因
もともとこの南北両朝の争いの遠因は、蒙古の軍勢10万余騎がわが国を襲った弘安4年(1281)未曾有の国難がやっと治まって5年後の弘安9年。第88代後嵯峨天皇が、次子溺愛のために長男相続の掟を破り、いわゆる大覚寺派と持明院派の両皇統に天位の交互即位の議を提議せられたことに端を発したものである。この交互即位の儀ということは、後嵯峨天皇の皇子のうち、長子を第89代後深草天皇の位につけたのち、次の第90代の天位には次子、亀山天皇を即位せしめ以下順を追って交互に交代してその子孫を天皇の位に即かせるという考えから出発したもので、後嵯峨天皇が次子、亀山天皇を90代の皇位に即かせたい念願から提議せられたことである。しかし、3代、4代後ともなると血のつながりも薄くなり、そう理想通りゆかなくなり、この交互即位を提議された後嵯峨天皇から四代後には、この制度を武家の私闘に利用され、いわゆる南北朝に分かれての天下動乱を招来するような結果となったのである。この交互即位の議については幾多の紛糾が生まれ、実際に両皇統の交互即位の和議が成立したのは、文保元年(1317)のことといわれているがこの交互即位の紛糾を100%巧みに利用したのが足利尊氏である。故意か偶然か96代後醍醐天皇の次に持明院系の97代光厳天皇(北朝)が即位せらるべきであると主張して北朝の天子を立てて政争の具に使わんとし、楠正成をはじめ南朝の忠臣があわられて譲らず、この間幾多の血涙史を残したまま南朝方は没落して、足利尊氏は北朝の皇統 光厳天皇を立てて征夷大将軍となり、足利時代の基と築いた。

熊谷家の家租(
熊谷直実
直実の祖父、平肥後守盛方は、直実の父
直貞が二歳のとき、勅勘を蒙り乳母と直貞を連れて武蔵の国大里郡熊谷郷、成木太夫の家に逃れて養育した。直貞が18の時、大熊が出現して庶民を悩ますので熊を退治して人民を救い熊谷300町の知行を許され、”篠の党”の旗頭となり「熊谷」姓を名乗るようになる。直実はその次男であるが、父の死後故あって母方の叔父、久下直光に養われた。成長するに及んで剛勇の誉高く、京都に宿営して平知盛に仕えていたが、源頼朝が挙兵の時大庭景親の軍勢に属し、石山合戦臨みその後、頼朝に直属して治承4年(1180)佐竹秀義征伐のおりは先頭にすすんで殊勲を建て、旧領を安堵された。
寿永3年(1184)には嫡子直家を伴い、源義経に従って宇治川で木曾義仲の軍と戦い勝ち、続いて一の谷の合戦では年齢わずか16歳の紅顔可憐の平敦盛を討って所業無常を感じ、のちに仏門に入る動機となったことは余りにも有名である。
安芸三入荘の熊谷家
熊谷次郎直実の孫直国が、承久の乱(1221)勢多橋に於て討死した勲功としてその子直時を安芸国の安北郡三入の庄地頭職に補せられ、武蔵野国(東京あたり)熊谷郷と併せ領有。
熊谷直実-直家-直国-直時(三入本庄)-直高-高満-直経(足利党)

野間氏矢野保木城の全滅戦
毛利元就が陶晴賢と厳島において雌雄を決すべく、6月1日には廿日市市折敷畑において豪将宮川甲斐守を討ち取ってすっかり準備を整えたが、安芸国矢野城主野間刑部大輔隆実は依然として要害城矢野保木城に籠り反毛利の旗を掲げていた。これに対して陶晴賢の山口勢は、草津城主羽仁中務少輔兄弟、小幡左衛門尉を先頭に、約400騎ばかりを応援隊として送り安芸国最後の砦として矢野保木城を守らせた。これに対し毛利軍は、長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景ら3000騎をもって、天文23年(1554)9月7日の夜明けから総攻撃にかかった。このとき小早川家の井上又左衛門は、吉川勢の森脇市郎右衛門に向い、「本日の一番首は拙者の手であげてみせる」といえば、森脇も負けてはおらず「拙者が!」と断言して互いに先陣を争い、総大将元就に斬った首を差し出して功名を競う。そうこうする内に天神山に向かった小早川勢が一番槍を入れたので、吉川勢も負けるものかと勇み立ち、防州勢が籠っていた新丸砦に斬って入る。この勢いに羽仁、小幡の防州勢も支えきれず甲の丸へと退却。そこへ間髪入れず元就の旗本-赤川左京亮、同源左衛門兄弟、粟屋弥四郎、児玉四郎兵衛、志藤源蔵、梶喜左衛門などの勇士が斬って入る。防州勢も甲の丸を破られてたまるものか-とよく防ぐので、吉川勢の小阪藤五郎を始め討死者や負傷者数しれず、元春、隆景の両将も新丸の中に乗り込み命令していると、すぐ目と鼻の本丸から射る矢は雨霰。このため元春の部下権道兵衛は草ずりから股まで射抜かれたが、一同ひるまず息もつかせず本丸へと猛進する。こうした毛利軍の猛攻に堪えかねて、もはや落城は時間も問題と察した城将野間隆実は、おのれの妻の父である熊谷信直に使者を送って降服を申し入れた。
「智は天野、勇は熊谷」とうたわれた信直も娘ムコの隆実の命乞いを元就に申し送り、ここにさしも要害保木城は前面降伏となる。
 その開城条件として先ず羽仁、小幡両将の指揮する防州勢を、”防州まで送って上げよう”といって途中だまし討ちにする作戦をたてたが、防州勢もなかなか油断はしない。結局、交換条件として熊谷の重臣-水落甲斐守を人質としてとり、防州勢の先頭にたてて水落の首にクサリ鎌をかけ、左右の手をとったうえ、後ろから槍を突きつけて防州勢はその後に従い、ぞろぞろと2里ばかり府中方面に歩いていく。
一行が府中出張城下の市あたりまで来ると、群集にまぎれて吉川勢の二宮木工助、佐伯源左衛門、熊谷勢の水落掃部助、末田縫殿助、細迫左京亮など腕におぼえの勇士たちが伏兵となって待ちかまえていた。かくとは知らぬ防州勢は、二里ほど落ち延びた安堵感にいささか気も緩んで、首にあてた鎌も、後ろからつけていた槍も両手をも離して歩いていた。そこえ飛脚姿に変装した熊谷方の豪傑末田勘解由が、従者に文箱を持たせ、菅笠を腰につけ、人質の水落甲斐守に「三入の家からお文が参りました」と文箱を差し出す。水落が右手で文箱を受け取ろうとしたとき隙が見えた。勘解由は隠し持った道中差しの抜く手も見せず、水落の左手を固く握っていた防州兵を斜め袈裟がけに斬って落とした。これを合図に群集にまぎれていた伏兵の勇士たちは、一度にどっと斬り入ったので防州勢は大いに驚き、ばらばらになって逃げいくところを討っては追い、追っては討ち全滅を期して戦う。けれども防州勢にも勇士あり、そう楽々とは討たれない。数十名は附近のお堂に立て篭もり手厳しく抗戦したが、なにしろ府中出張城から入れ代わり立ち代り応援が来るので抗しきれず、ついに全員討ち取られてしまった。
一方、矢野城下においては野村弥五郎、豊島伊豆守など多数の兵を真教寺に連れ出して討ち取り、残る兵達は可部三入の熊谷家に連れてゆき、酒肴のご馳走をしたあげく、「一風呂浴びて戦塵を洗い給え!」と浴室に案内し、丸裸になったところを次々に討ち取った-ということだ。その中でも野村藤蔵という大剛の士は、群がる熊谷の勇士たちを押し倒して逃げ、商船に乗って泉州堺まで落のびた。また、末長源七郎、田中某なども危うく逃げ去って命を永らえたということである。なお、この保木城落城の悲惨さを語る「野間火」という火の玉の奇端は、永く里人の語り草となっている。



参考資料:新広島城下町・矢野町史上巻・日本全史ほか。