歴史散歩 石碑を尋ねて

-石碑を美しく石文(いしぶみ)ともいう。
ちょっと立ち止まって人びとの祈りや思いを汲み取ろう。
矢野には石碑も口碑(こうひ・言い伝え)も多い-



(1)髪之碑    

 (2)水害之碑    

       (3)保木城主野間家追遠碑    

 (4)甘薯之碑    

    (5)久食農道記念碑    

  (6)かき船句碑      




(1)髪之碑

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 かもじは髢とも髪文字とも。矢野は女性の入れ髪にはじまり、日本かつらに代表される髪文化発祥の地である。
 大正4年(1915年)かもじ創始の大阪屋(大官田)吉兵衛の県産業功労賞受賞を記念する石碑は、かもじ創業伝説や髪の油抜きと染色の苦心談を語る。尾崎神社裏参道入口に立つ。









2)水害之碑

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 被害者の慰霊や災害の再発しないことを祈って、矢野の発展のあとをたどる一等地ともいえる矢野橋のたもとに石碑は立つ。
 明治40年(1907年)の「大流れ」とのちのちまで語りつがれる大水害で、64人の死者と62人の負傷者を出した。





3)保木城主野間家追遠碑


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 矢野城跡やそれにつづく保木(発喜)城趾への登山口近くに立つ。碑銘は追遠(ついおん)のつぎに「大般若祈祷法会修行(だいはんにゃきとうほうえしゅぎょう)」碑がつく。
 野間氏滅亡の悲史と火の玉伝説を伝える記念碑(大正12年・1923年建立)である。









4)甘薯之碑


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 久保田勇次郎は明治期、アメリカから七福薯(いも)を持ち帰り、広島のみならず全国的にその栽培・普及に尽くした。
 江戸期、江戸に甘薯(かんしょ)先生こと青木昆陽(こんよう)、そして矢野に甘薯翁(おう・老人)あり、と石文は語る。
 石碑は尾崎神社裏参道の入口に立つ。









(5)久食農道記念碑


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 昭和26年(1956)の建立。矢野小学校西隣り。
 久食(ひさくい)はくずれやすい地形に由来する。土地崩れ「くえ」が「くい」に変化したもの。
 『矢野の昔ばなし』は「不作のために久しく(長い間)米や麦が食(く)えなくて、膝(ひざ)をかかえるようにして飢えのため死んだ」と語る。









(6)かき船句碑

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 大浜町内会(住吉社境内)
 「かき船や浪華の浦の灯の林 柊堂」(向井美智子書)。
 「海上安全之主護神住吉社参詣出航記念」と頭書する。
かきの旬は冬季(10月~4月)。阪神を主に瀬戸内全域で商った。「やあれ 泣くな嘆くな やれよ 三月にゃ戻るよう おそくて四月の中ごろじゃあ」と若い衆は歌った。




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