八木用水を完成させ地域を旱害から救った

桑原卯之助(くわばら うのすけ) 
  桑原卯之助は享保八年 (1723) 祇園村南下安 (広島市安佐南区祇園)で庄屋利右衛門の長男として生まれた。 長じて父の後を継ぎ、沼田郡中御普請所御用聞大工(土木建築請け負業)をしていた。
  安芸国沼田郡(安佐南区の一部)は近くに太田川があるが、川と土地の水位差、安川、古川らは水量が少ないなどの問題があって十分な取水ができず、八木村(安佐南区八木)より下流の打越村(西区打越町) に至る一帯は古くから用水が乏しかった。 中でも旱ばつが最もはなはだしいのは西原村(安佐南区西原)であったが、八木村、緑井村、古市村、長束村、三篠村、楠木村、打越村も旱害になやまされていた。 従って 、 「この地域に十分な水を引いて安定した農産収穫を得たい」 という強い思いは、藩、地元農民とも一致していた。 そこで、広島浅野藩や村では寛文12年(1672) から明和元年(1764) の間に計七度も堀溝や堰の設置などの対策を実施した。 しかし、一時的には成功したものもあったが、多くは失敗し、永続的な水の確保ができなかったので期待した耕地へ転換が叶わず、農民の苦しみは続いていた。
  これを憂いた卯之助は決起し、藩の算学者檜山義況に学んだ測量技術を生かして、前記村々の土地の高低を測量し、理論的裏付けによって作成した資料に基づき 「水路開削」 を藩に願い出た。 今までの度重なる失敗からなかなか許可が得られなかったが、 ついに、藩の許可がおりると、明和5年 (1768) 4月4日 に開削の工事を開始し、同 4月28日 の短期間にその事業を完成させた。 通水には代官、割庄屋、村役人、農民総出で見守る中、大鼓を打つたり、鬨の声をあげたり、感激で涙を流すものもいて、その成功を喜んだようである。
  以来、近年まで200数十年間、農業用水として田畑を潤し、一帯の農家はこの偉大な恩恵を受けてきているのである。 八木〜長束間は今もほとんど水脈は変わっていない。
  卯之助は八木用水の完成の功に対し藩から ”生涯2人扶持” が与えられ、子巳之助の代になって ”生涯苗字帯刀” も許されたので、子孫は ”桑原姓” を名乗った。
また、八木用水開削後は藩からもその手腕が認められ、沼田郡内はもとより、広島浅野藩全域で土木工事に携わるようになり、庄原村(庄原市)の 「上野池」 改修をはじめ多くの土木工事を行い、近郊地域以外にも多大な貢献をしている。
  卯之助は天明3年(1783) 4月10日 病のために60歳で没した。 墓は祇園の 「勝想寺」 境内に、功績を記した 碑は安佐南区八木にある。

勝想寺 (安佐南区祇園二丁目)

桑原卯之助の墓
八木用水(やぎようすい)  
  八木用水( 定用水) とは沼田郡八木村十歩一の太田川から取水〜八木〜緑井〜中筋〜古市〜西原〜長束〜新庄〜楠木〜打越をとおり横川までの約16Kmをいい、明和5年 (1768) 桑原卯之助 によって完成された。 長さ、旱害影響領域の広さなどで、広島を代表する水路である。
卯之助の開削工事はこのうち取水口〜西原村の入り口までの約8.8Km のようである。 これより下流の水路はすでに同開削工事以前からあったものや,この工事にあわせ各村々で整備したことが考えられているが、卯之助によって既成水路にうまくつなぎ結果的に全体が機能するようになったのである。 その工期はわずか25日であった。 
それを可能にしたのは @ 開削範囲を約8.8Kmにしたこと、 A 事前調査と綿密な測量によって複数個所を同時作業したこと、 B 水路の大部分は地面を掘っただけの素掘りであったこと、 C 水路の幅を2間(約1.8m)に統一し工事を単純化した、ことなどがあげられている。 それにしても、本当に短期間に完成させたものである。
  八木用水の取水口は当初、八木村 「十歩一」 であったが、大正8年(1919) の大洪水で堰が流れてしまったので、それより上流の八木村の 「鳴」 に移された。 その後、昭和37年(1962) に八木用水の近くに太田川発電所ができたので、以後は同所の水が利用されている。
  一方下流の水路は今も長束まで存在し、その水は最後に太田川放水路に流出している。 もとはあったそれから先の、横川までは広島市の市街化が早くから進み、そのごろ埋め立てられたため、現在では水路の正確な経路を確認するのは困難である。
  なお、下の 「石碑」 にあるように古くは 『定用水』 と呼ばれていたが、八木に取水口があったことから戦後 『八木用水』 と言われるようになったようである。
               
                                                                         photo 2009,10  

                                    

定用水(じょうようすい)碑
  桑原卯之助の子巳之助が 『定用水(八木用水)』 の由来や父の功績などを後世に伝えようと、文化14年(1817)に建立している。
碑文は頼杏坪(らいきょうへい)の撰と言われている。 
場所は安佐南区八木町(可部の対岸/太田川橋から上流400m)にある。
      
  トピックス: 2014(H26)年8月20日の[広島土砂災害]によりこの碑が流出しました。
       いずれ、元の位置に戻されると思いますが、現在はこの位置にありません。 (被害の状況は
       ここを クリック )

 

[定用水碑]   [定用水碑]碑文   
                      注:上の碑文は読みやすくするため句読点を付していますが 実物にはありません。

                                          参考文献(「八木用水」/広島市郷土資料館 「祇園町誌」)
                                                        Copyright(C)2010,4. WeLoveNishikou
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