安芸武田氏を支えたが後に毛利氏に服属した
香川氏は桓武平氏の一族と言われるが、鎌倉に住み「後三年の役」で活躍した鎌倉権五郎景正を祖として崇敬している。
後に、経高が相模国香川村(現在の神奈川県茅ヶ崎市あたり)に住んだことから、地名の“香川”を姓とした。
経高は源頼朝に仕え源平の合戦などで活躍し、鎌倉幕府の御家人となった。
「承久の変」(1221)では経景に戦功があり安芸国佐東郡八木村(広島市安佐南区八木)の地頭職を賜り、当初代官を派遣していたが、その子、景光が釈迦山(現在
城山 69.2m)に城(八木城)を築いて定住をし、領地を直接おさめた。
この香川氏は何代にもわたり、同時期に安芸国の守護となった「安芸武田氏」に従って熊谷氏とともに有力な家臣として武田氏を支えた。しかし、最後は毛利氏に服属し、一族は吉川氏にも仕えた。
武田氏との係わりを数例あげてみよう。
★方景(かたかげ)は山名宗全と細川勝元の勢力争いがもとで起こされた「応仁の乱」(1467)では武田国信の配下として毛利、吉川氏等とともに勝元軍に加わっている。
★永正5年(1508)には一時将軍職を外され京から脱出していた足利義稙(よしたね)の京への復帰戦には大内義興軍として武田元繁に従い 香川吉景(よしかげ)
が従軍している。
★永正14年(1517)武田元繁軍 と 毛利元就軍 の間で。
「有田合戦」が行われたが、この戦いに、行影は高松城主・熊谷元直己斐城主・己斐豊後守宗端入道、伴城主・伴繁清 など、近隣の国人や重臣たちと元繁に従軍している。なお、この戦いで 行影は元繁の戦死を知り、元就軍に突入し壮絶な戦死をした。
★武田氏を離反した熊谷氏を討つべく高松城攻めの
「横川の合戦」(天文2年(1533))が行われた時、光景は武田光和に従っ て戦っている。
★武田光和 は33歳の若さで病没するが、その時、後継者をめぐり争いが生じた。結局、若狭の武田信実 を養子に迎え家督を継ぐことになったが、その時、重臣
品川氏らの「毛利・熊谷氏に対し直ちに”元繁””光和”の弔い合戦をすべし」という強硬派に対し、八木城主 香川光景 らは「一旦、毛利氏と和睦し時を見て合戦をすべき」と主張したが、受け入れられず、重臣間に決定的な亀裂が生じた。そのような事があり、品川氏らは八木城を攻撃した、多勢に無勢であわやというところまで攻められたが、よく持ちこたえていたところ、「熊谷信直や平賀氏が救援に来るらしい」との噂が伝わり、品川氏らは撤退し難を逃れた。これを機に香川氏は武田氏を離れ毛利氏に服属することになったのである。
現在史跡として残るものは少ないが以下のものを写真で紹介する。
★香川氏が築城、広島城下に移るまで居住した「八木城跡」
★香川氏の始祖を祭った「権五郎神社」
★数か所に残る郭やそこに見られるわずかな石垣などが山城遺構を語る「八木城内跡」
★岩国市岩国城下の吉香公園に残る「香川家長屋門」
★「八木城跡」から望む「武田山」「高松山」
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